みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

10月のコントラバス:早川岳晴×船戸博史のデュオ、William Parkerのソロ、Mike WattとKiraのDos

nomrakenta2011-10-24


10月も半ばを過ぎて、管理者がひとり欠けた状態で新人さんを抱えつつの片肺飛行にも慣れたのかなんだかよくわからない。なんとか一日の業務が終わっている感じです。

このあいだに新人さんがぽつりぽつりと二三人辞めてしまったのがなんともつらい。マニュアル通りに喋れてもそれは最初の5分くらいしかもたない。もちろん急場しのぎの答えは与えるのだけれど、右から左に言葉を伝言しても納得は得られないし感謝もされない。自分だって楽しくない。

そのあたりのジレンマは少なくとも半年続くのだけれど、変わっていく自分をイメージできないと、ここを越えられずに「無理」という結論に飛びついてしまう。
答えだけでなく、考え方。ユーザーの言葉にできないニーズをフォローできたときの快感、などを伝えようとしてきたつもりなのだけれど、去っていくひとはしかたない。厭な話しだけれども、新人さんの数が減ると、残ったひとにより丁寧にコーチングが出来るようにもなるのも確かなことではある。


先週のたぶん木曜日。ちょっと前に買っていたDVDを観る。

BLACK FLAG LIVE [DVD]

BLACK FLAG LIVE [DVD]

ブラック・フラッグ、である。ヘンリー・ロリンズ、である。グレッグ・ギン(ジン?)である。アメリカン・ハードコアの伝説である。
もちろん、USハードコアはリアルタイムであるわけがない。ソニック・ユース(キムとサーストン離婚・バンドも解散なのか?)がサード『BadMoonRising』をリリースしたかしないかのあたり、グレン・ブランカのNYアヴァンシーンのスノッブさから距離を置いて、全米のライブサーキットに入りこもうしようとしていた頃、すでにUSインディーバンドの憧れのレーベルだったSSTブラック・フラッグは全盛期だった筈。自分の興味のとば口もそのあたりだった。ブラック・フラッグよりもロリンズ・バンドのほうが音源を聴いたのは早かったはずだ。なんとなくヘンリー・ロリンズという人がちょっと奥行きのあるひとだなと思ったのは、英WIRE誌「めかくしジュークボックス」でうかがえたロリンズのマイルス・マニアぶりからだった。
もちろん極々底の浅い関心であったとおもう。

こういう自分がこのDVDを購入するのは、ありもしないノスタルジアを求めているのか、どうか。
どちらにしても、ロンドンのエクスプロイテッドな髪形の観客を相手に、のっけからヘンリー・ミラーの一節の読みあげて知的な挑発をかまし、「ハードコアパンク」というには屈折した演奏と、心の奥をひっかかる印象的で単純な歌詞でブレイクを連発する四人のアメリカ人の姿は異様である。しかも、ベースはけっこうかわいい女性(キラ)である。
編成からいって1984年『Slip it in』の時期。歌詞は結構ナイーブというかナーバスなものが多いのが興味深い。怒ってるだけでなくて感情の襞がある。「Black Coffee」なんていう曲は、キレのいいビートで轟音が突っ走るなか歌詞のなかの若者はコーヒーを飲んでいるだけなのである。この時期は単純なパンクロックからだいぶ変わってきて、癖のある曲とタメのある演奏をしだしていたみたいだ(古くからのファンの方には怒られそうです。すいません)。なにせスポークンワードのアルバムすらリリースしているのだし。
あと特筆に値するのが、字幕の妙な徹底ぶりで、たとえばロリンズのためいきだか雄たけびなんかも丁寧にひろって「うおりゃ」みたいな文字を当てて「意訳」しているのが不思議と演奏と合っているように感じてしまう。愛(か何かそのようなもの)があるのだ。
ショーの終わりあたりに、ロリンズが客に感謝して「イギリスで数回ライブをやったがここでやっとちゃんと演奏させてもらえた。こっちもちゃんと演奏したいからな」と言うところなんか、ちょっと胸に迫る感じだ。おそらく同時代のヒップホップと並んで、切実な音楽だったことは誰にでもわかるんじゃないだろうか。


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金曜日。
I田さんからお誘いがあって、仕事帰りに黒門市場の飲み屋さんで一杯。
さすがに周りが鮮魚屋さんだからか、魚がおいしい。鮭カマの炙りなんてもう…。お店のおかみさんはたしか今年「春一番」でお会いしたなあ…。
話しは、11月に心斎橋afuで演奏してくれる再来日するアルゼンチンのトミ・レブレロの準備の事あたりを皮切りに、やはりというか、音楽のことばかり。しかし、よく考えたら自分より年上の筋金入りの音楽好きなどこのI田さんくらいしか知らない。知識や経験が及ばないのは当たり前ですが、本当に好きというスタンスと行動力がいいなあと思ってしまう。
このあと、共通の知り合いKさんがバイトするミソノビルのバーにスライド。ここでも音楽談義をしてしまい、みずからエアカーテンというかアウェー感を醸してしまい、二人で離脱。でも楽しい時間でした。

トミ・レブレロの日本ツアー、お見逃しなく、です。
僕自身、今年の元旦のギャラリーで、はじめてトミを知ったし演奏を聴きました。



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土曜日。
9時過ぎに起きて、パンツ3本クリーニング屋に持っていってさてどうしよかと思い、十三の第七藝術劇場にちょうどかかっているヤン・シュヴァンクマイエル監督の『サヴァイヴィング ライフ ー夢は第二の人生ー』を観に行くことに。
席に座ってから気づいたが、シュヴァンクマイエルの作品をちゃんと観るのははじめてだった。
まあシュールときいてるしそんなに埒外ではあるまいとタカをくくっていたのですが…出だしの前口上のあたりからオープニングにかけてはよかったのだけれど、途中でグロめのテイストとシュール趣味がどうも退屈になってくる。質が高いのはわかるんだけれど、どうも質の高さを使って「物語」っているもの自体がそんなに自分にとっては新鮮味がない、というような。不遜すぎる書き方なのだけれど。
で、あろうことか睡魔に負けてところどころ眠ってしまう。それで結局、物語は飛び石状態になり、この映画は母親の面影を追い求める初老の男のありきたりな物語という印象になってしまった。反省。

しかし、予告編で吉増剛造の映画が11月にまとめて上映される予定であると知って期待が膨らむ。鈴木志郎康さんの書肆山田から近々出る本は個人映画についても多くページが割かれているようだし、ご本人の個人映画フィルモグラフィーの特集上映も今年あった様子だし、もしかすると静かに、詩人(による)映画のブームが来ているのかもしれない!?(それはない、のか…)。
冗談はさておいても、言葉を研ぎ澄ましてきた人たちが映像を撮ると、映像が表現の第一言語であるひとたちとはまた異なった質のものが出来る、というのが自分には興味深いこと。


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日曜日。
朝起きて瀧道。
昔からあったボロボロの、もはや岩場といったほうがいいようだった黒いアスファルトがはがされて平らに舗装されていた。

そういえば箕面駅に、今年は瀧道の電線を地下に埋める舗装工事をやる、と告知が出ていた。しばらく瀧道から離れていたからわからなかった。登っていくと、舗装工事が済んでいるのは全体の30%くらいだった。年内はかかるという目論見なんだろうか。
もはや岩場というくらいにひび割れていた黒いアスファルトは、雨のあとだったりするとさらに黒く塗れて瀧道にとてもしっとりと似合っていたのでちょっと残念ではある。

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瀧道から帰ってシャワーを浴びたら急に眠くなってしまい、昼寝。夕方起きたら家人は映画に行くとのこと。
迷っていたが、梅田のムジカ・ジャポニカにライブを観に行くことにして、クリーニング屋に前日のパンツを回収にいってすぐさま電車にとびのると、開演に間に合った。

早川岳晴(b)×船戸博史(b:ふちがみとふなと)のコントラバス・デュオ with Ett(西本さゆり:唄+渓:g/ex-花電車)。http://musicaja.info/schedule/post_106.html
最初のEttははじめてみました。西本さゆりさんの歌、ストレートな暖かみがあって良い。

これは船戸さんが飛び入り。
そして目当ての早川×船戸のコントラバス・デュオ。最近出たおふたりのデュオアルバム『YinLong』を携えてのツアーの最終日でもあったのらしい。コントラバスなんてバンドに一本あるだけでも退屈しなくてすむくらい好きなのに今夜は二本もある。しかも早川さんを聴くのははじめて、でした。早川さんの強靭なメリハリの演奏に、ちょっと逸脱を交えた船戸さんが併走する。

案の定、背筋のゾクソクする演奏だった。
最後にはEttのお二人も入ってセッション。最後にやったEttの曲。素晴らしかった。なんていう曲なんだろう。
この曲↓です。


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コントラバスということで、今夜はこちらも。

ウィリアム・パーカーの『Crumbling in the Shadows Is Fraulein Miller's Stale Cake』

Crumbling in the Shadows Is

Crumbling in the Shadows Is

ESP時代からフランク・ロウ、ドン・チェリーセシル・テイラーなどと共演し、近年も多作なペースを堅持しているジャズ・ベーシスト、ウィリアム・バーカーのCD3枚組ベースソロ。ソロ、です。ひとりだけ。パーカーのベース一本でCD3枚。
なのにこのだれることのない、濃ゆい音楽は何なのか。

1枚目と2枚目が2010年のブルックリンのスタジオでの演奏。3枚目は、溯って1994年、ニッティングファクトリーで録音された音源で、多角的な演奏(録音)活動に旺盛でなバーカーで、リリースがあるたびに楽しみだけれど、しっかりとパーカーのソロだけというのはあまりなかったように思います。
このひとのベースは、というか、このひとの音楽は、ある意味根っこのところはとてもメロディアスなのでないか、という思いが何度か去来します。

そう思ったのは、何度か触れている『Victoriaville Tape』での Peter Kowaldとのデュオをこないだ何度目かに聴きなおしていたときで、切断と異和でゴツゴツと論理を組み上げていくような Peter Kowaldの演奏が好対照となってくれるのか、対するパーカーのベースはいかついことはもちろん厳ついのだけれど、若干滑らで、二人の磁場に「うた」を投げ込んで先をうながしているように聴こえたときだった。そのとき、あらためて面白い対比のデュオのライブ盤だなあと愛着が湧いた。

Victorianville Tape

Victorianville Tape


しかし上に書いた「メロディアス」というのは、甘い旋律が乳かあるいは蜜のごとく流れる態の謂いではない。いうまでもなく、このひとのベースのひとつひとつの弾弦は重い。しかし、この「重い」は、単色であったり押し黙るようなトーンの謂いでもない。
コントラバスという巨大な木の虚を抱えた楽器の、金切り声も軋みもささやかな倍音の呟きも、あるいは天国も地獄も、知り尽くしている人の演奏であるように思う。
パーカーの演奏を、単純に、弛緩と緊張の間のグラデーションであるように聴くことは不可能で、弛緩には緊張が忍ばされてあり、緊張にはこれとは別種の恍惚がある。

さらに、パーカーの作品には毎回はっきりとアフロアメリカンとしてのメッセージが託されている。それを読み取り受け取っていくのは自分にはなかなか至難の業ではありますが。

本盤のタイトルになっている Fraulein Millerというひとは、どうもサウスキャロライナの伝説的な奴隷主だったらしい。

このひとは200人ちかくの黒人奴隷を有していたが、ときどき彼らにケーキを振舞ったそうだ。
あるとき、脱走しようと決めて、主人を害することも厭わない覚悟でキッチンにナイフを盗りに侵入した黒人たちは、家のなかから音楽が流れてくるのを耳にして自らの殺意を捨ててしまう。それは踊りたくなるような音楽だったけれど、踊るには聴かなければならず、聴くにはまず感じなければならない、そういう音楽だった。それは低い弦の音だった。
コントラバス
聴き惚れていた黒人たちが目をあけると、いつのまにか彼らの前に立っていた奴隷主は目をふせて、そのまま農場から地平線へと歩み去って、そのまま二度と戻らなかった。
そういうことがブックレットには書いてある(訳し誤りはあるかもしれない)。
奴隷たちが聴いたコントラバスの演奏。それがこのCDでのコントラバスの深い精神性の源にあるものなのだろうか。そんな単純ではあるまいと思う。
沈黙とデュエットする、とパーカーはブックレットの最初に書いている。


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ベースということで(笑)、最後にこれも。


上で触れた元ブラック・フラッグの紅一点ベーシストKira Roesslerと、元ミニットメン(ハードコアとCCRをミックスしたような奇跡的なバンドだった)でイギー・ポップ&ストゥージズ再結成時にベースを弾いたマイク・ワットの二人のベーシストによるデュオ・ユニット、Dos(このふたりは、元夫婦でもあります)。またベース。また二本。

Dos Y Dos

Dos Y Dos


Dosとしてのフル・アルバムとしては3作目になるようす。ベース2本では驚愕のディスコグラフィーなのではないだろうか?
自分は1作目を知らず、2作目『Justamente Tres』は、まだすこしグランジが残った時代にKill Rock Starsからリリースされていたのを憶えている(数年前に聴きたくなってアマゾンでポチりました)。あのころ、ギターファズの轟音の直後、粉々になった奇妙なブルースのようなものが出てきていたUSロックシーンだったけれど、二本のベースの絡みと少々の歌という「たたずまい」は、まあ地味だった。だけど、シーンやレーベルの「若者たち」のやっていることなどすでに散々くぐってきたはずのふたりでもあったのだった。今、Dosを聴くと、訥々した感じがむしろ頼もしい。「サン・ペドロ」なんていう愛くるしくい名曲もある。
Justamente Tres

Justamente Tres

前作から15年も空けてリリースされた『dos y dos』は、しかし2002年から2005年に録音されていたものの様子。ずいぶんリリースまで時間が経ってしまっている。ミックスは元チボ・マットの本田ゆかが担当。
内容は前作とあまり変わりはない(というか変わりようもない)。しかし、何度も折にふれて聴き返していくことは確か。