みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

蕎麦と沈黙のレイヤーと封筒と:『et 2』江崎將史、竹内光輝、小田寛一郎@中崎町コモンカフェ

nomrakenta2010-11-05


会社の帰りに、Iさんと落ち合うためもあって、ふらりと寄ってみる気分で、難波から地下鉄を乗り継いで、中崎町のコモンカフェへ。
モンカフェでは、音波舎さん主催でいろいろな音楽イベントをやっていますが、今夜の“et” は、江崎將史さんと竹内光輝が中心に、ゲストを招きつつ、それぞれの実験的な作曲作品をリアライゼーションするシリーズイベントで、今回2回目とのこと。とうぜん私ははじめて。

江崎將史さん、竹内光輝さん、そしてゲストの小田寛一郎さんの順番で進みましたが、自分の音楽に接する生活のありかたについて、いろいろと考えさせてくれるコンサートでした。

(1)江崎將史さん
 一年をかけて「作曲」された曲「そば」。客席にはA4の紙が一枚配られる。そこには、江崎さんが2009年10月から2010年10月末までに好きな「立喰いそば」(もしくは関東では「うどん」名古屋では「きしめん」のときも)を食べた日付と「そば・うどん・きしめん」の種類がびっしりと書き込まれており、これがいわば「音符」ということになる。曲のフレームとしては、ほぼ一年のあいだの一日を約一秒として、「そば・うどん・きしめん」のいずれかを食べた日にはトランペットから音が吹かれる。つまり曲の長さはほぼ6分ということになる。ちょっと記憶が危ういのだけれど、一番多い「うどん」がBフラットとしていたみたい(あるいは「そば」かも)。その気になれば、譜面を指で追ってのオペラ鑑賞の真似ができたはずなのですが、はじまって1分も経たないうちに江崎さんがどこを吹いているのかわからなくなってしまった。

縦流れで追っていくべき「スコア」を横流れで追っていたせいもあるけれど、ほとんど一秒ごとに音が連続する(=つまり毎日に近いわりあいで「そば(あるいはうどん)」を食べておられた)せいでもあると、ここではそうさせていただきます。「きしめん」は一番音符が少ないので、ときおり「きしめん」の音が吹かれると、なんとも「音楽的な」アクセントをつけてくれる。演奏前に、PCモニターの投影による一年間食べた「そば」類の丼を上空からとらえた写真たちも見せていただけたので、演奏中は走馬灯のようにこれら「そばうどんきしめんそばそばうどんうどんうどんそばそば…」の映像が頭をちらつきよぎらないこともないユーモラスな作品といえたと思う。これこそ「リアル・ライフ・ミュージック」(笑)。
「そば」のあとは、準備中の作品のための小品をふたつ。
(2)竹内光輝さん
 江崎さんの「そば」も面白かったのだけれど、竹内光輝さんの、10分間会場の環境音を録音し、あとの10分間でその録音聴く、という作品に、おそらくは音楽家の意図とは違うところで非常に面白さを感じた。
はじめます、という挨拶とともにカフェ内の照明はおとされ、作曲家は椅子に座って何か楽器を演奏し始めるという様子もなくじっとして耳をすましている。観客もそれに合わせて静かにしている。はじめに「この作品は20分の作品です」という説明があったので、思わずこりゃ「4分33秒」の20分バージョンかいな、よし寝不足だからちょっと失礼して…などと早とちりしてしまったが、前半10分が経過した時点で、実はICレコーダーで録音されていたこの10分間のカフェ内の音がスピーカーから流れてきたときには、耳が次第に体全体に拡がっていくような静かな興奮があった。アイデア一発の脆弱さではなく、そこには、沈黙(であるはずの音)に沈黙(として録音されているはずの音)が重ねられている、という劇的な音の現場、というか実体があったからだ。
ちなみにちょっと上の行で「おそらくは音楽家の意図とは違うところで」と書いたのは、後半の10分間が楽しくて、以下のようなことを妄想してしまったから。
たとえば、今夜は1台だけだったが、あとICレコーダーを2台用意して、最初の10分は今夜と同じようにカフェ内の沈黙を録音、次の10分は最初の10分を再生しつつ、その状態も次のレコーダーで録音しておき、次の10分で、再度再生する最初の10分に重ねて2番目の10分も再生する。それをもう一度繰り返せば40分の作品になり、そこには4つの沈黙のレイヤーが存在することになる。が、実際には環境ノイズが段階的に稠密になっていく筈だ(あと10分追加して、この最後の10分間には何も再生せず最初の「地」のレイヤーに戻る、というのもアリかもしれない)。
ただ、最後に竹内さんが仰っていた、環境音を聴くことの受動性ということと、時間論については、個人的には自分の捉え方とは違っているなと思った。環境音を聴くことはここでは沈黙と同義になっているが、沈黙を聴くというのは受動的な「行為」という前に、非常に圧迫感のある「状況」なのだと思う。だからこそ、後半の10分がはじまって沈黙のレイヤーが重ねられたとき、そこには「音楽的」な実体が現れていたのだと思う。だからこそ、その時点で少なくとも自分は解放感に極似した感覚を得たのだとも思う。それに、聴者というものは音の過去にも未来にも関係せず、ただ今の音を聴くしかないのだ(過去だとしても、それは現在に投影された過去なのだ)。
こういう妄想を誘発してくれるような知的な音楽作業だったわけです。
(3)小田寛一郎さん
 そして最期のゲストの小田さんの作品は、お客さんひとりひとりに手渡された封筒から便箋2枚を各自が録り出して読み始めることから演奏が開始された。
手紙の書き出しには、読み始めると同時に椅子から立ち上がり、読み終えたら座る、という指示がある。これをそれぞれの演奏そして合奏と捉えることを示唆するものだった。
先日ネクストマッシュルーム・プロモーションのイベントで聴いた(まだエントリー書いていません、すぐ書かなきゃ)、演奏という行為を「音符」に対応して行う「身振り」である、というところまで還元してみせていたイタリア出身の若い作曲家フランチェスコ・フィリデイがやっていることと、ある意味これは同じことを小田さんは言っていると自分には思えるから、とくに違和感というものはなかった。
しかし、音はやはり耳の体験として、最後に楽しみを担保し、またその感覚的な狭隘さをもって深くもなり、生き延びていきもするのだ、とも思う。

それにしても、今夜の3人の作曲家の作品はそれぞれ違ったアプローチで興味深かった。江崎さんは何を演奏するのか?何が曲となりうるのか?という問題を柔らかに扱っていたと思うし、竹内さんは聴くことと時間の関係(僕はそこに勝手にレイヤーの問題を差し込んで聴いていた)、最後の小田さんも何が曲となりうるのか?音楽行為とは何か?という問題を扱ったがやり方はフルクサスかハイ・レッド・センターのようにラディカルでこちらのフレームを脱臼させるような手法だった。



会場で「アキビンオオケストラ」のCD−Rを入手。オレンジ色の封筒に入っている。
今はなき新世界ブリッジでの「FBI」ではじめてアキビンオオケストラを聴いたときは会場も広く観客も大勢いたのでアキビンの音がそれほど聴き取れなかったので音的インパクトは薄かった。しかし2009年3月に富田のカフェ・コモンズ(名前が似ているがこのコモンカフェとは違う店)で「たゆたう」と一緒にアキビンを観た/聴いたときは、ちょうどほどよい広さのカフェの店内をアキビンの音が満たしていくのをほとんど恍惚となって全身で浸るようにして聴いていた。
その体験の記憶のなかの音と比べるなら、この「アキビンオオケストラ」のCD−Rの音源は、アキビンオオケストラを生で聴く体験とは全く異なった位相にある。7分を経過したころに聴こえる、吹くのではく、無数のアキビンの底を擦り合わせるような音はとても心地よいノイズだ。
いや、しかし(とつぜん竹内光輝さんの今夜の作品のことに戻るのですが)、演奏される音楽がすでに環境なのだ。だから環境音というのは音楽的な意味でいえば存在しないのだ。したとしても、非常に矮小にフレーミングされたものでしかない。
と、ここまで書いてみたものの、なにが言いたかったのかわからなくなってしまったので、今夜はこのくらいにして、またの機会にします。
おやすみなさい。