みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ロッキング・チェアはゆれたままに(あなたがすわっていようといまいと):SAKANA@北浜雲州堂「瓦斯灯コンサート」

一日、雨が降っていた。
開場一時間前に整理券をもらって、天神橋の商店街までいったん避難。喫茶店に入って佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』の続きを読み進める。

一杯のコーヒーの熱さを冷ますためだけに砂糖も入れずにスプーン入れて満足いくまでかき混ぜる。ゆっくり引き上げたスプーンからはコーヒーカップからと同じくらいに湯気がまき立っている。ブラジルサントスの薫りが鼻孔から頭を和らげる。
それにしてもこの本は凄い。安易な感想を綴るのは恥を重ねるだけなのだけれど、本を読んできてよかった、と思うと同時にこれから本を読んでいけるだろうかと不安にさせもするし、そんな不安がないならば、そもそも本など読むな、とも語りかけてくる。この本に収められた5つの夜話は、それぞれ日付も入っているから、どうやら聴衆を前にして語られたものみたいなのだけれど、それを思うと眩暈がする。読まれることにこそ特化したような「語り口」を感じてしまう。説得力があり魅力的な「語り口」。安っぽい売る形に終始して、それを満たしていない書籍がどれほど多いのか、と改めて慄然とし憤然とし、しかし魅了されている。読み進めている。ぜんぜん関係ないだろうが、書物のもつ豊穣さに、ジョン・ケージの『小鳥たちのために』に似たところがある(ような気がする)。そして芯の強さ。すでに相当話題になっているみたいだ。当然だ、ここまでの内容なら。

去年は東京で、鈴木志郎康さんの前橋文学館での講演を中座したその足で吉祥寺まで戻ってマンダラで聴いたのだった。しかしその日自分の印象に強く残ってしまったのは青山陽一さんのほうだった。その前は、大阪梅田のムジカ・ジャポニカで「割礼」とのダブルヘッダーだった。最低、年に一回は、SAKANAの演奏は聴いておきたい。可能である限り。とりあえずここ2年ほどはそのとおり上手くいっていると思う。

僕が、はじめて「SAKANA」を知ったとき、「SAKANA」は「さかな」だった。
当時はインディーズ盤なども扱っていた紀伊国屋のレコード売り場で、「マッチを擦る」や「水」といったアルバムを見つけて購入した。東京に行ったときに購入した情報誌「シティロード」には、「マッチを擦る」への情熱的なレビューが載っていた。どうやら代々木の「チョコレート・シティ」というライブハウスで演奏をしているらしい。この時点で、ライブハウスに行ったことがなかった中学生にとって、「チョコトレート・シティ」という名前は「マクシスカンサスシティ」と同じ意味だった(名前だって似ているじゃないか)。
当時の他の、心無い雑誌では、活動を始めた「さかな」は、「女性の生理をそのまま表現したような奇妙なバンド」というようなセンスのかけらもない文章で紹介されていた。世の中は猫も杓子もビートパンクのバンドやろうぜだった。そんな中でマリンガールズやロバートワイアットを生んだのと「同等の」センスで一から自分たちの音楽を、そのソウルから組上げようとしているバンドを感受できる土壌があるわけもなかったのだ(自分も含めて)。
そんな話も昔話だ。しかし、「さかな」は今も、「SAKANA」として演奏し歌い、作品を作り続けている。おそらく、どこかの時点で、バンドの名前の響きが持つ意味は変わっていったけれど、これは単なる「おはなし」ではない。それ以上のことだ。

西脇さんとポコペンさんのギターの併走。
どちらかがメインということではなくて文字通りの併走、というより歩行。気の置けない人と並んで黄昏時の川べりを歩いている。親密になる予感も実績も十分だけれど、どこか最後まで気を抜いたらその瞬間に取り返しがつかなくなるという確実さもある。互いに少し前に出てしまったり、気遣って歩を弛めると逆に相手が前に出てしまったりそれに追いつこうとしたり。それらすべてのせめぎ合いが、実は距離を置いてみると、とても親密な光景に見えて/聴こえてしまう。
そんなイメージが、映像ではなくて音像として身体を満たしていくと、もう駄目になる。アンプから出るふたつのギターの爪弾きにジーンと身体が浸透されていく。弛緩でも緊張でもない。年に一度、感じることが出来る、皮膚がなくなった感じ。

SAKANA」の音楽が、僕の書く言葉のような、小難しそうな偏った言葉で表現されるべき種類のものではないことはよくわかっている。それでも、書かずにいられない。

初めて来た北浜の「雲州堂」は、土蔵をライブスペースに改造したようなところで、客席の前に大人の胸のあたりの高さのステージがあり、天井には桟敷があるようで、ステージが始まるまでの間や、入替のあいだ、そこからトラッドっぽい生演奏が流れていた。

「さかな」「SAKANA」の演奏の直前には(あるいは演奏のあいだ中)、ある不穏さがあって、それはさかなの二人の演奏とポコペンさんのソウルによってしか和らげることができないものだ。
そうでなければ、SAKANAの演奏が、音楽が、これほど長い期間をかけて、さまざまな断絶と変成を経ても尚、確実に熱心なファンを増やしていくことができたろうか?


ポコペンさんの歌は、マッチを擦る日曜日の歌の瞬間から、ずっとソウルだった。ソウルしか込めてこなかった。まず、それを認めなければ何もはじまらない。

ポコペンさんの歌には、ある種の「タメ」があって、「くずれ」があって「投擲」「昇華」がある。たぶんそれは歌うたびに異なる微細なタイミングで発生するのだ。何度も聴いた曲なのに、いつもどきどきしてしまうのは、その日の演奏・歌唱がどんな振れ幅を聴かせるのか、未知数だからだ。
もちろんこれは演奏力は不安定ということではまったくない。ひどく簡単にいえば、人が毎回ベストを尽くそうとするなら、あらゆる局面で、SAKANAのショーと同質のことは起こりえる。

音楽のふたりぶん:98年くらいの「さかな」のホーム・リハーサル映像を『ETCETRA VOL.3』で観る

アンコール2曲では、天井桟敷で幕間というには素晴らしすぎるトラッドなインストを演奏していたタケヤリシュンタさんと「森田雅章トラディシオンカントリーバンド」のメンバーが参加。

『ミス・マホガニー・ブラウン』これはこの夜の最高の出来だったと思います。

『ロッキング・チェアー』おそらく、桟敷のひとたちはこの曲をあまり知らなかったのだろう。それでもマンドリンや、スティール・ギターとの絡み、存外に良い。いっそ、ストリングスなども導入してSAKANAの20年のキャリアのマスターピースを存分に披露してみるようなライブを誰か企画しないものだろうか?

数十年も、ひとつのバンドの成り行きを、その音楽を、聴いていくことがどんな類の事柄なのか、僕にはよくわからない。たとえば毎年ニールヤングとクレイジーホースのライブに行くひとの人生がどんなものか?それを僕が知ることはできない。なぜなら今も僕はSAKANAの音楽を聴くことで知ろうとしているからだ。

この日のライブは、SAKANAの前に、女性デュオの「neru」と「森田雅章トラディシオンカントリーバンド」の演奏があった。このエントリーで書かなかったのは、自分がそれらのバンドを初めて聴いたし、SAKANAのことで頭がいっぱいになってしまったからだ。とても失礼なことだと自覚している。特に客席上の桟敷では、終に姿をみることはできなかったけれど、タケヤリシュンタさんによる素晴らしいインストが演奏されていた。

initial work collection 1990~1991

initial work collection 1990~1991

BLIND MOON

BLIND MOON

今夜は「BLIND MOON」からの曲が際立っていたと思う。作成中という新作も楽しみです。

これを書き終えたとき、雨は止んでいた。