みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

アバターもエクボ、とすでに誰かが言っている。

…いきなりくだらないタイトルを…。
アバター』観てきました。
話しの筋がほとんど『ダンス・ウィズ・ウルヴス』であり、ジェームズ・キャメロン監督自身も言及している、というのを、つぃたーで読んでいたので、ありがちな落胆、とかはありませんでした。むしろ、キャメロン監督がこの手の話をどう捌いてみせるのか楽しみでしたが・・・いや、捌いてみせるなどという言葉ほどキャメロンに相応しくないものはなかったのであり、いつだって本気汁(すいません)の映画だった。資源戦争という抜き差しならない要素も加味してあった(加味…?むしろ「軸」ですか)。
単に、古い袋に新しいワインを注ぐ、というのではなくて、新しいワインを注ぐことで袋自体を新しくしてやろうという、すくなくともそういう意気込みを感じずにはいられない映画でした。
その新しいワインでもある「アバター」(キャラクター)的な発想は、たしかに「なりきる」ということに関して、観るものにも不思議な感触をもらしていました。映画を観るとき、いくぶんかひとは、主人公でなくとも誰かに感情移入を試みているのであって、それは情動的な感覚だけではなくて(これまではどちらかというとこの情動のみがフォーカスされていた)、じつは肉体的な同調もかなりしていた、というのがわかります。なぜなら、「アバター」を観ている自分が「なりきろう」としている主人公そのものが、本人はカプセルに入ってナヴィという身長メートルの青い有尾人に「なりきって」いるのだから、肉体的な感覚が知らずに二重になっている…というのか。
「感情移入」と簡単に言って済ましてきたことが、見直されているといってもいいのかもしれないし、いってみれば、映画に登場するキャラクターはすべて(観る者までも)「ドリーム・ウォーカー」であったことを暴露しているとも言えるのかも。


キャメロン監督の『ターミネーター』を梅田の映画館で観た時は中学生だったと思う(映画が終わったとき、担任の先生まで恋人と来ていたことがわかってびっくりした憶えがあります。それはどうでもよくて)わかりやすくハラハラするもの、今までなかったフィルムの質感、あそこから、キャメロンから映画はどんどん変わっていったし、『アバター』でもキャメロン監督はそのブランドを更新してみせてくれたと思います。決して、軽やかに、ではないところがまたいいと思う(ロジャー・コーマンの弟子と思ってキャメロン作品を観ると、いつも感慨が倍増します)。

ナヴィたちの動きの美しさや、空に浮かぶ山々、飛行爬虫類の動きとそれを駆使した戦争シーンのダイナミックさ…などはさておいて、自分にとって魅力的だったのは、エイワという植物的感性(惑星大のネットワーク)が信仰の対象として設定されていることだったり、ナヴィたちがフィーラーを通して動物と交感してみせるところでした。何を聖なるものとするのか、人と自然の関わりかた、そんなもののメタファーというよりは、戦闘的な提案のように思えたし、たしかにぎこちない感じもあるのだけれど、このあたりは、キャメロン監督が本当に届けたかったところなんじゃないのか、とも思えたのです。
そういうところで、精神的なものが植物と動物のふたつの相に、うまく仕分けされていたと思いました。
動物たちの造形には、例が古すぎるけれどもたとえば「スターウォーズ」のような奇態さだけを狙ったものは無くて、すべてが機能的なフォルムで、つまり「狩猟者」の美学を保っていた。
植物に関しては、抽象と有機をかけわせて崇高に手を伸ばしてみせたような造形の気配があって、エイワや「声の木」のように「ネットワーク」そして「記憶(メモリー)」といった、消尽しない情報系を受け持っているように思えて、それが信仰の対象となっているというのは、メタファーなどを超えたところで、宗教的感受性というもののリアルだ、とキャメロン監督が言いたかったのだとしたら、これは凄い映画でもあったのだ、とも。
ただ不満がないわけでもなく、それは「人間」の運命については、かなり簡単に割り切ってしまうところ。個々のサブキャラの生死のジャッジがかなり雑というか、最後は単にエイワ=パンドラか否か、の仕分けになっているように思えた。もちろんここでいう「人間」は地球人(スカイ・ピープル)のことを指すのみで、映画としての「人間性」というべきものは、ナヴィやそちらに加担していくジェイクの揺れ動きの中にありますが、もっと複雑にのたうちまわってエアポケットを作ってしまうのも人間である筈で、その象徴だったシガニー・ウィーバーが中盤でいなくなってしまうことで物語状況が収束していくのも、その意味では頷けます。「会社」の人間パーカーを演じるジョヴァンニ・リビシなど、表面的にしか演出されていませんでしたが、もっと複雑な感情と行動を与えることができればもっと深みがでたかもしれない。

とはいえ、あらためてキャメロン監督のフィルモグラフィーを振り返ってみても、ビッグネームの割に少ない作品数にいまさらながら驚いてしまいますが、子供も大人も、女も男も、小難しいことを考えるひとも物事はシンプルにが身上なひとも、単に面白い映画を観るひとにしてしまうすがすがしい力技を、キャメロン監督は維持し続けている。
それはやはり、とても嬉しいことです。

Avatar (Score)

Avatar (Score)

エコー

エコー

この手の「語り手」を肉体的に遠隔化・複数化していく発想は、これからいろんな物語で外せないものになっていくんだろうな、とも。それはまた、ナラトロジーの魅力的な部分が映画として取り込めてくる、ということでもあって、もしかしたらキャメロン監督は、ただただ映画の語彙を拡張したいと願ってきた人であるのかもしれない。

Avatars of Story (Electronic Mediations)

Avatars of Story (Electronic Mediations)

いま必要なのは、たぶん、マリー=ロール・ライアンの娘や息子たちが書くナラトロジーなのだ。


パンドラの森は、あのオールディスのSF小説『地球の長い午後』の森がついに映像になったんだ!と思わせてくれるものでした。

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)

地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)

もちろん、集団から追放された少年の旅であるどことなく沈鬱な『地球の長い午後』と、集団へ参入していく『アバター』とでは、物語のベクトルがまったく異なるんですが。


Victory Square

Victory Square

「カナダ」バンクーバーアイリッシュ・パンク・バンドの2nd。マンドリンバンジョー、ホイッスル、フィドルアコーディオンも入って退屈させない。練りがあってスピードがある。