みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ゲラシム・ルカの音声詩『情熱的に』とヴィトゲンシュタインの『色彩について』

nomrakenta2010-02-08


昨日、水声社の『ゲラシム・ルカ』の抜き書きをさせていただいたら、小笠原鳥類さんからメールを頂いて、大学時代の恩師にあたられるのが著者の鈴木雅雄氏であることを教えていただきました。
講義の折にもゲラシム・ルカの話が多く、なかでもルカの吃音の音声詩『情熱的に(Passionnément)』のテープを聴いたとも書いていただいていて、「パ、パ、パ、パ、パ、」とはなんだろう、それはまさか鈴木志郎康さんの「プアプア詩」以前の音声詩のようなものなのだろうか、とも気になってしまったのと、ちょうど読みすすめの本でも、その音声詩のくだりにさしかかってしまったので、どうにも頭から離れなくなってしまい、今日会社の帰りにiPhoneで、もしかしたらあるんじゃないのかと思って探してみたら、やはり「UbuWeb」に音源がアップされていました。
http://www.ubu.com/sound/luca.html
どうやらゲラシム・ルカご本人の朗読のようで、あとでソニックユースのような音を重ねてあります。結構馴染んでいる。
どもりで言語を分断した…という強面な説明よりも、むしろ言葉の意味がわからない自分にとってはそれぞれは異国の言葉の文脈のなかでの音素のリズミックなパラフレーズであるように聴こえてしまうので、ユーモアがあって優雅ですらある、と感じてしまいました。
優雅ですらある、というのはクルト・シュヴィッタースの『原音ソナタ(Ursonate)』にも通じるところ。

YouTubeをさまよっていたら、今度は『情熱的に(Passionnément)』のカバーがありました。

やりすぎ感がないでもないが、これもおもしろい。

ゲラシム・ルカ―ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時)

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The Inventor of Love & Other Writings (Translation Series)

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The Passive Vampire (Art Lit)

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アマゾンのマーケットプレイスに出品していたのが売れてしまいまして、備忘のために以下、抜き書きです。

色彩について

色彩について

ヴィトゲンシュタインゲーテの『色彩論』を読んでから断章を書き溜めていったのは、どうやら最晩年の時期だったようです。原著は1977年に出版されている。数年前に梅田の旭屋書店で購入したはずですが、たぶんそのときの自分の頭のなかには、デレク・ジャーマンの『ブルー』と『ヴィトゲンシュタイン』の映像が貼りついていたのでしょう。
今回、手放すとなると、とたんにおもしろいフレーズが目にとまってしまうのが、なんとも…。
特にヴィトゲンシュタインが「白」から基調として色彩に切り込んで断想を積み重ねていく様子がスリリングに感じます。

一枚の白い紙が青空からその明るさを受けとっている様子が描かれている様子が描かれている絵のなかでは、青空はその白い紙よりも明るい。しかし別の意味では青の方が暗い色であり、白の方が明るい色である(ゲーテ)。パレットの上では白がいちばん明るい色である。
――p.12 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

二十九 君が透明な緑や赤などから読みとる、色つきの透明なものの見え方に関する規則から透明な白の見かけをつくりあげてみよ!なぜそれがうまくいかないのか?
――p.28 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

ヴィトゲンシュタインの想う「白」は、僕の想う「白」と同じであるなんてことがあるのだろうか。
マレーヴィチの『白の上の白』が頭をよぎるときはあっただろうか。僕なら(というのはとてつもなく不遜ですが)ラウシェンバーグの『ホワイト・ペインティング』http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2008-05-14が間違いなく過ぎります。

三十一 われわれが、透明で白いガラスを、たとえそれが実際には存在しないにしても、想像できないのはなぜだろうか?透明で色のついたガラスとの類似はどこでうまくいかなくなるのだろうか?
――p.28 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

四十八 人が白い輝きを『白い』と呼びたくなることはありえないだろう。つまり人は表面の色として見ているものしか『白い』と呼ばないのである。
――p.33ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

五十三 たしかに現象学は存在しないが、しかし現象学があつかっている問題の方は存在する。
――p.35 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

 しかし、白を混ぜることによって色から色的なものが奪いとられる、という命題はどんな種類の命題なのだろうか?
 私の考えでは、それは物理学の命題ではありえない。
 ここで、科学と論理学の中間にある現象学の存在を信じたいという気持ちがきわめて強いものになる。
――p.54 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

現象学にはっきりと接近しようとしていたのだなあ。メルロ=ポンティの思い出に。

 形をわからなくするものが濁っているのだろうか、そしてそれが形をわからなくするのは、それが光と影をぼかしてしまうからか?
――p.54 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

 「色の自然誌」というものが存在するだろうか、存在するとすればそれは植物の自然誌とどの程度似ているのだろうか?後者は時間的で、前者は無時間的ではないのか?
――p.63 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

二十三 絵のなかに透明が描かれているとすれば、それは不透明とは別の効果を発揮する。
――p.68 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

二十八 (前略)たとえばある画家が「四つの純粋な色」という概念をまったくもっておらず、それどころかそうした概念について語ることをばかげたことだと思うことも、ありうるのではないだろうか?
――p.72 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

三十一 『色盲』がわれわれの話題になり、それが一つの欠陥だと言われる。しかしいくつもの異なった能力が存在し、そのなかのどの能力も、他のものよりはっきりと劣っているとは言えないことだって充分ありえよう。――思いもよらぬことがきっかけでわかるまで、ある人が色盲であることを誰も気づかれずに一生をすごすこともある、ということも考えてみよ。
――p.73 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

七十九 金色は存在する。だがレンブラントは金の兜を金色で描きはしなかった。
――p.91 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

九十 色の特徴についてのゲーテの考察が、画家にとっても役にたつことがあるとは私にはとても思えない。また装飾家にとってもほとんど役にはたつまい。
――p.95 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

百七四 白い紙が少しだけ暗くなっているところでも、それは灰色に見えることは決してなく、つねに白く見える。
――p.137 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

二〇一 リヒテンベルクは「純白」という言い方をし、その言い方で色のなかで最も明るい色のことを考えている。純粋な黄色についてそのような言い方は誰もしないだろう。
――p.147 ヴィトゲンシュタイン『色彩について』新書館

だけど、「青」についてはイヴ・クラインが少なくとも考えたはずなのである。


硬質で手作りで、つまりアートで、一番かっこいいパンク・ソングは、ワイヤーのセカンド・アルバムに収録されている『Too Late』という曲だと、個人的には思っています。ヒリヒリした疾走感、ほとんど無意味でミニマルな歌詞。最高…と思っていたら、こんな映像が。

曲はもちろん『Too Late』なんですが、これはYo La Tengoがカヴァーしたヴァージョン。「Big Song!」つって跳びはねてるこどもがかわいいですが、この曲かけるお父さんもおもしろいなあ…。
この映像を見てしまうと、今度から『Too Late』を聴くと必ずフラッシュバックしてしまうなあ…。

Chairs Missing (Dig)

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