みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

土曜の夜は、もう、日曜の朝

nomrakenta2010-02-06


昨日の夜、朝青龍の引退会見をやっとYouTubeで見ていて、無念さが伝わってきて、こちらも悔しい思いが湧いてくるのを抑えられませんでした。
はじめは朝青龍に嫌悪感を持っていたような憶えがありますが、こうなってみると、むしろここ数年の自分は、横綱朝青龍に元気付けられてきたところもあったかもしれない、と思いました。自分としてはあまりないことなんですが、見ながら「やめるな朝青龍やめるな」と、口のなかで呟いていた(藤井貞和の「パンダ来るな」が反響している)。
力士の「品格」なんて幻想だと思う。少なくとも朝青龍にとっては勝負に勝つことが品格にあたるものだったと思うし、個人的には、強ければいいから力士なんだよ、とも思いたかった。
モンゴルだけじゃなく日本でだって、相撲ファンは減るに違いない(と僕は思う)。


アラン・シリトー 土曜の夜と日曜の朝 (新潮文庫 赤 68-2)



自分がKindleを購入するのは、少なくとも和書データが十分にクラウド化されてからのことになるな、と思っていますし、書物のデジタル化についてまとまった考えをもっているわけではまったくないのですが、川添 歩さんの「読書体験のクラウド化」https://www.sociomedia.co.jp/2132という記事の文章に、ハッとさせられました。

したがって、本がクラウド化されたというよりも、読書体験そのものがクラウド化されたと言うべきでしょう。
これは、本の歴史、読書の歴史にとって、とても大きなできごとです。

付箋や傍線、ついついやってしまう書き込み。そんな個的な読書体験こそも、「本」の一部であったのであって。


箕面でも小雪がちらつきました。

公園。左はステンレスの「葦」彫刻。誰の作かは知りません。公園自体が「葦原池」を埋め立てたものだからで、僕が中学生の頃にはもうあった。随分あちこち痛んではいます。

公園付近。打ち捨てられたガソリンスタンドの看板。塗料の剥がれかたに、なにか心を指先で「つままれる」ようなものがあったのですよ。


寒い空気のなか、歩いているいると、歩いていることが自分のなかに充ちてくる。そうすると、言葉は文章ではなくて、単語でもいいのですが、言葉も身体のなかに、充ちてくる、というか充ちている、という気がしてくる。歩くことを禁じられたら少なくとも自分はどうにかなってしまうだろう。

ウォーキング

ウォーキング

Open Strings: 1920s Middle Eastern Recordings

Open Strings: 1920s Middle Eastern Recordings

昨年タワレコでみつけて気になってきたけれど棚から一時見なくなって、ついに買いそびれたと思っていたら補充されていた。オネスト・ジョンズがリリースしたエジプト、中近東の弦楽器の1920年代の歴史的録音がDisc1。この録音にインスパイヤされた現代の(という表現があまりにおもしろくないのですが)、Sir Richard Bishop(Sun City Girls!!)、Six Organs of Admittance、Steffen Basho、MV and EEなどによる演奏を収めているのが、Disc2。どっちも同じくらい良いけれど、弦楽器の陶酔の純度が高い、と思えるのはDisc1。Disc2には自分で、Lou Harrisonのギター曲とCul De Sac、そしてThe Dead Cを足しておこう。

Por Gitaro

Por Gitaro

The Perilous Chapel

The Perilous Chapel

上の2作は、たぶん内容かぶっているのですが、純正調ということだけはないし、現代音楽リスナーだけでなく、ワールド・ミュージック、古楽、アシッド・フォークなど、いろんなリスナーにとって開かれているギター曲集になっていると思います。たしかにこれは、ジョン・ケージには出来なかったことのひとつ。

Epiphany of Glenn Jones

Epiphany of Glenn Jones

ジョン・フェイヒーと溶け混ざり合った本作が好きになってきたのは最近のこと。当時は「何故買ったか」と自分を責めたりした。でも、このアルバムこそグレン・ジョーンズとジョン・フェイヒーが作り上げたかった世界だったのだと感じるようになりました。

カル・デ・サックの中心人物でこのアルバムのタイトルにもなっているグレン・ジョーンズの映像がありました。6分くらいまでは、影響をうけたギタリスト、フェイヒーやロビー・バショーについて語ってますが、そのあと清々しい突風のような演奏を披露してくれます。
あ、ギターにギアが入ってしまった…。


これは何回観てもすごい。ギターという楽器を使い尽くしてる。


Tusk

Tusk

数えてみると結構作品数があり、そのどれもが「The Dead C」としか形容できない彼らですが、湯浅学さんによるクロスビート誌のレビューで初めて知ったこのアルバムが一番愛着があります。たなびくギターノイズの向こうにへし折れたような歌が生き延びる。生き延びている。


Harrison: Piano Concerto/Suite For Violin, Piano And Small Orchestra

Harrison: Piano Concerto/Suite For Violin, Piano And Small Orchestra

ルー・ハリソンといえば、最近本作も聴きました。キース・ジャレットは実は「ケルン・コンサート」ですらまとも聴いてこなかった失礼な人間なのですが、特に「ピアノ協奏曲」(タイトルにも清々しいものが)では、ルー・ハリソンの大仰といってもいいくらいにロマンティックな曲想のなかで、いわゆるジャレットのリリシズム(というのか)が硬質なものにすら聴こえてくるのが自分にとっては魅力といえるものです。第二楽章の打楽器の激しさも圧巻。ピアノもここに至っては打楽器だ、というロック的なカタルシスまであるのでは?


Soft Pow'r

Soft Pow'r

いい波のくるビーチでトレーラー生活をしているというカイル・フィールドは、画家として凄く好きだったのですが、彼の音楽活動を知ってはいたけれど、アルバムを聴いたのは初めて。現実との接触を幾重にも切断しているように感じるほど奇妙なくせに、慣れると儚くて気になって抜け出せない世界は、絵とも通じている。アシッド・フォーク/フリー・フォークというより、いい具合に脱力したビーチボーイズ、という印象も。

とろーんとした感じのカイル。いろんなところに精霊を見るんだろう。

FREEDOM SUITE-The Shape of Jazz to Come Revisited/Requiem for Soldiers of October Revolution

FREEDOM SUITE-The Shape of Jazz to Come Revisited/Requiem for Soldiers of October Revolution

年始からまた火がついた(というか、決して消えない火でもある)フリー・ジャズ。本当にほっとするタイミングというのがある。やっぱり、アート・アンサンブル・オブ・シカゴがいいなあ。

JAHTARI PRESENTS... ASTEROID DUB

JAHTARI PRESENTS... ASTEROID DUB

最近ダブも良いな馴染むなあというという自分内流れにより手にとってしまったコンピ盤。インベーダー(ゲーム)・ダブか!アタリ・ティーンエージ・ライオットを聴いて育ったヤツラのダブってことか!?おもしろい。「Bo Marley」なんて、ネーミングセンスだけで撃ち抜かれてしまうのに(Bo Didley + Bob Marley)、こんなへにょへにょダブ、最高じゃないですか。

ライプチヒでの路上ライブ。いきなり場所を移動させられているのがいいなあ。サッカーし出してるお客が怒られてるのもゆるゆるでいいなあ。ボーカルのひとが古の映画「コミットメンツ」のシンガーを彷彿させるなあ。べースのおっさんもいい感じだなあ…。赤んぼも笑っているので(9分過ぎくらい)、これは良い音楽である。



トンマッコルへようこそ [DVD]

トンマッコルへようこそ [DVD]

3月に閉店してしまうという近所のレンタル屋さんで借りて観ました。公開時になぜ観なかったか!朝鮮戦争時に山奥の「隠れ里」に偶然あつまってしまう北の人民兵と南軍の兵士、そして米のパイロットと、純朴な住民たちのやりとりの前半はとても楽しい。それだけでも最高な映画ですが、物語の内圧はきちんと働いて、最後まで納得のいく筋はこび。これは大好きな映画だなあ。ポップコーンが降ってくるシーンがいい。

ゲラシム・ルカ―ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時)

ゲラシム・ルカ―ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時)

昨年末から、水声社が刊行を始めている「シュルレアリスムの25時」シリーズ。この出版不況(氷河期という人もいる)に、このハードコアかよ!と驚嘆していましたが、とりあえず一冊「ノン=オイディプス」というなにやらD×Gと関係ありそうなキーワードにひかれて手にとってしまいました。ドゥルーズが「アンチ・オイディプス」の補遺で讃辞を捧げているらしいですがゲラシム・ルカなるルーマニアシュルレアリスム詩人についてはまったく予備知識なし。しかし著者の詩人から問題系を透かしてみせていく濃密な文章にうなるしかなく、中盤まで読んでますが、とりあえず引いておきたい。

二〇年代のオートマティズムが少なくとも一見したところ、たいていは言語の生産性に信頼を置いた楽観的なものに見えるとするなら、ここにあるのはむしろ言語を徹底して痛めつけ、言語の解体のうちにこそ可能性を見出そうとする冷徹なものである。
――p.22 鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

したがってそこでは、とりあえず「作品」と呼ぶしかないテクストや造形物が、何を表現しているかではなく、いかに用いられているかという問いが立てられねばならない。
p.56 ――鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

空虚を満たしてもとあったはずの充満に至ろうとするのではなく、運動のなかで何に対する欠如として規定されることもない状態を造り出さねばならないのである。
p.66 ――鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

突然与えられる言葉であれ、説明できない出会いであれ、シュルレアリスムの問題にする体験は常に、こんなふうであるはずがないのにこうでなくてはならないという体験、いわば「不自然」かつ「自然」な体験である。この言葉やこの出来事が「私」にとって、これほどにも決定的で必然的であるにもかかわらず、それを説明できる論拠は完全に欠如していて、「あなた」に対して正当化するいかなる術も「私」にはない。

――p.75 鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

シュルレアリスムについてこれまで語られた、どんな言葉よりも腑に落ちる。

おそらくシュルレアリスムには本質的に、強い力を持って迫ってくる思想(たとえばフロイトヘーゲル)に対し、追随する否定するのでもなく、過度に反復することでそれを作り変えてしまうという身振りが備わっている。
――p.80 鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

「この欲望は何を目指しているのか」という問いの代わりに、「何を求めていると解釈すれば欲望は水路を見つけて流れ出すのか」という問いが置かれたのである。
p.99 ――鈴木 雅雄『ゲラシム・ルカ ― ノン=オイディプスの戦略 (シュルレアリスムの25時) 』

以上のように、10ページ置きに、立ち止まりたくなる言い回しに出会ってしまう本になっています。