みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

箕面をぐるっと。

nomrakenta2009-06-07


先週の木曜から家人が欧州へと長期の旅へでているので、今日は朝9時にノソノソと起き、庭の植物たちへの水やり。
金曜日に雨が降ったので土曜はいいかと思ったのだが、朝起きると灰色の雲が空を覆っていはいるものの、地上はちょっと乾いた空気が息苦しいように思ったのだった。
その後、coopのチキンライスを解凍して昼ご飯しながら「ネプリーグ」を観る。板東英二がかなり危ないように思うのだが…。

そういえば、「ターミネーター4」も観たいなあ…と思いつつも、その後、今日こそ歩かなければならない、しかもいつもの2倍は歩かなくてはならない(土曜はさぼったのだ)、しかし本も読みたいし本屋さんにも行きたいと、葛藤して、ウォーキング・コースを、箕面から山麓線へと回って、新御堂筋の開始点から千里中央に向かって歩いていき、田村書店に寄って買い物し、そのあと新千里北町を青山台の方にぐるっと回って、最終的にまた山麓線まで登って帰ってくるというルートを採ることに。

まずはご近所さまの庭先のブルーが目に鮮やかなアジサイをデジカメに収めておきたかったので寄り道。
アジサイに関しては、複数の花弁たちをゆるやかにまとめて花と思うことが気に入っている。

人通りの少ない山麓線の歩道を、外山滋比古の「新エディターシップ」を読みつつ歩くうち、不穏な雲も晴れ、良い陽射しが、道々ところどころの緑の空間を喜ばせていた。

 実際に引用という形をとらない引用が実に多いことも留意しなくてはならない。はじめ全体がはっきりしていたことも時の経つにつれて細部は忘れられる。そうして残った印象鮮明な部分は、いわば自然に引用された、正の引用可能性をもったものだと考えられる。歴史はこうして無意識に行われた引用の蓄積である。
――外山滋比古『新エディターシップ』p.48

松岡正剛氏の編集工学も大好きですが、ときどき氏のように「うつろう」ことが出来るとは自分にはとても思えないことがある。外山滋比古の古典の生成過程としての引用淘汰を広義の「編集」行為と考えていて、その論旨はこれ以上ないくらい簡潔だ。

新エディターシップ

新エディターシップ

千里中央田村書店で、4巻までをブックオフで手に入れて読んでいたマンガ、アントンシクの「ガゴゼ」の最終巻と、海音寺潮五郎の文庫と、古書コーナーが充実してきているようだったので物色してみると、晶文社から出ていた演出家ピーター・ブルックの「殻を破る 演劇的探求の40年」、イザラ書房という版元から僕がうまれた頃に出版されているのに見事にきれいな状態を保っているミシェル・レリスの「幻のアフリカ?」、詩人・富岡多恵子の古い中公文庫で短編小説集「仕かけのある静物」と同じく集英社文庫のエッセイ集「ニホン・ニホン人」、去年末に古本のバザールなんかで何度か見かけて買おうかなと思ってその都度止めにしていたいとうせいこう新潮文庫「ボタニカル・ライフ」、以上を購入。

千里丘陵から循環器病センターの方へと降りていく街路には松の木が多く、箕面の山の中では見つけられないような大きなマツボックリが転がっていたので2つほど拾ってしまった。『木の子供』に使ってみよう。

家に戻ってから、我が家のアジサイにも水をやり写真を撮る。

去年、鈴木志郎康さんのご自宅の中庭の一年を記録した映画『極私的にコアの花たち』を観に京都へ行ったことを書いたときにたまらずに商店街の花屋さんで購入したアジサイの鉢を、家人が前庭に出しておいたのが、今年も咲いてくれたのであった。買った時にも気に入っていた淡いアジサイブルーで嬉しい。
結局、1時〜4時半まで歩いたことになるので、いつもの倍とはいかないが、まずまずだろう。
シャワーを浴びてすぐに洗濯にとりかかりながら、飯の用意をする。といっても、お隣から胡麻和えとサンマの塩焼きと茄子と胡瓜の漬け物を頂いてしまったので大助かりでなのであって、自分でしたことといえば、サトウのご飯をレンジしたのと、缶ビールのプルトップを抜いただけである。

土曜にタワーレコードで買っておいたCD、
ついに手に入ったソニック・ユースの「The Eternal」、ポール・サイモン「グレイスランド」とアラン・トゥーサンの「The Bright Mississippi」とNAXOS廉価盤のJohn Antil「Corroboree」を、テレビをミュートしてつけながら聴いていると、金曜日に久しぶりに職場の人三人で焼き肉を行った後に、T君が最近なんばウォークで新装オープンしたビアホールに行きませんかと言ったのでのぞいてみたら10時だったのでもう閉店していたことを思い出した。アマチュアのオーケストラでティンパニ奏者もしているT君とは最近あまり飲みに行っていなかったにしても、そんなにお酒が好きともきいていなかったのに、まだ飲もうと言ったのは、もしかして何か言いたいことがあったのかもしれない、と思い直したりした。
ソニック・ユースのインディー復帰作「The Eternal」は、ここ数年なかったほど、彼らにとってエポックメイキン(ぐ)なアルバムになった様子。ゲフィン時代は良いところも悪いところもあったのだと思うけれど、「Murray Street」が素晴らしい感触だったその後の「Sonic Nurse」と「Rather Ripped」に正直なところ何度目かのかれらの停滞を感じていただけに、本作のすがすがしい自己言及性は、またSYの今後10年(!)を言祝ぐものに感じられた。

Eternal

Eternal

ジャケットを飾るジョン・フェイヒーの絵も記念碑となりそう。ライブが観たいなあ…。
ポール・サイモン「グレイスランド」は、音楽をテープで聴いていた頃に(中学の全体朝礼で整列中にTDKの生テープの受け渡しなどが行われブラックマーケットの様相を呈していたのも懐かしすぎる)、サイモンが南アのミュージシャンと作ったこのアルバムの音楽のことを、当時の「ウィー・アー・ザ・ワールド」な風潮を差っ引いても、かなり不思議な音楽だと感じていたと思う。今日、聴きなおしてみたら、やはり冒頭の「The Boy in The Bubble 」など、今聴いても変で嬉しくなってきた。この曲の歌詞で「長距離電話(Long Distanse Call)」と唄うところがあって、長いこと僕は「Long Distanse Call,Wrong Number」(長距離電話、しかも間違った番号で)と唄っているように勘違いしていたが、それがただ自分の妄想の入った聴き間違いとわかった。最後の曲がロス・ロボスだったとは今になって初めて知ったという・・・。
Graceland (Dlx) (Mlps)

Graceland (Dlx) (Mlps)

アラン・トゥーサンの「The Bright Mississippi」は、ドン・バイロンやマーク・リボーという僕好みの人々が参加しながら、最高のニューオリンズ音楽をやっている。ゆったりたゆたう音の流れは、懐かしくも少しだけおどろおどろしたところもあり、その中でところどころでゆらめいてみせるマーク・リボーのギターが、ミシシッピ河に潜む大ナマズか鰐の尻尾の動きであるかのようだ。最後に触れる湯浅学の小説の中の主人公の(おそらく湯浅氏ご本人の)ニューオリンズ音楽への敬意にあてられてしまったのだった。
Bright Mississippi

Bright Mississippi

John Antilはオーストラリアの作曲家らしい(⇒)。代表作らしいバレエ組曲「Corroboree」(コロボリー)は、アボリジニ儀式コロボリーを材にとったもので、冒頭のディジリドゥのように聴こえることを意図したのだろうコントラバスーンのリズムがおもしろく、そのまま聴いていると最後の「トーテムの行列と閉会式」ではストラヴィンスキーのような大音響で爽快な気分になってしまった。NAXOSをおもしろがれるようになったのだなあ…。


陰陽師に力を奪われた大鬼が子供の姿になってやり直すという筋(とても乱暴です)の「ガゴゼ」は、時代設定などちょっと危ういような気もしていたし、4巻まで読んで膨らませ切った枝葉を5巻ひとつで収拾できているのかなと杞憂したりもしたが、結局かなり面白かった。ほとんど見切り発車で描いていったという奇妙な境遇のヒロインも物語の中でしっくりとしていた。
「ガゴゼ」というのは、本作で扱われているような特定の鬼のことではなくて、「おばけ」一般の方言だというのをどこかで読んだ気がするが(それを思わせるシーンが最後の最後に挿入されてもいる)、そういう細かいところは、作者が物語を生み出す作業自体を結構な密度で楽しんでいるのが伝わってきて気にはならない。初めての連載だったらしいが、マンガというよりアニメに近いスピード感というと変だという自覚がありますが、アニメになった場合の効果を呼び覚ましながらマンガを読むという感じだった。

ガゴゼ 第5巻 (バーズコミックス)

ガゴゼ 第5巻 (バーズコミックス)

九時からNHKの「シリーズJAPANデビュー」の三回目を観る。20世紀前半の日本近代史の悲劇の根源を、三井物産の人が「富国強兵と通商という二つの可能性と限界」そして「アメリカと全く同じ時期に中国市場に打って出ることになってしまったこと」に見い出すことができる、と言っていたのが印象に残った。

先週アマゾンから届いて読み終わっていたのが湯浅湾の「港」の味わいも消えないままに味わえた湯浅学の自伝的小説「あなのかなたに」。このような青春、細部のみの青春。自分の(サブ)カルチャー意識が芽生える80年代が顔を出すのはほとんど小説後半で、後聴きしていくしかなかったポストパンクが本文にも散りばめられ巻末の80年代アルバム選にも出ているが、むしろ主眼は「プリンス」である。「サイン・オブ・ザ・タイムス」を聴きたくなってしまった。

あなのかなたに

あなのかなたに