みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

音楽は、不自由を自由にたのしむ:「マウリシオ・カーゲル〜無国籍料理〜」@梅田・ザ・フェニックス・ホール

陽は暖かくて、風は涼しい過ごしやすい日だった。今日は梅田のフェニックス・ホールまで、現代音楽の興味深い企画を続けている「ネクスト・マッシュルーム・プロモーション」によるマウリシオ・カーゲル作品のコンサートにいってきました。
二部構成で、一部は大作「エキゾティカ」。二部は「カーゲル作品展」ということで、日本初演の4曲を含めて6曲が演奏される、というかたち。
マウリシオ・カーゲルユダヤ系アルゼンチン生まれで、からドイツに渡り、作曲を続け、二〇〇八年にケルンで亡くなった。76歳だった。シアター・ピースとも呼ばれる独特な作風が有名?なのかどうかわかららない。とにかく日本でまとまった演奏会を聴ける可能性はとても低い作曲家であることは確か(だと思います)。カーゲルについてはCD一枚「Rrrrr....」を所有しているだけで、ほとんど聴いたことがないので、良い機会でした。実はこの「Rrrrr....」がいまいちインパクトに乏しくて、積極的に聴こうとしてこなかったということがある。「アコースティカ」という作品を、昔、ジム・オルークが絶賛していて、とても聴きたかったけれど、CDが手に入らなかった、ということもある。

The Music of Mauricio Kagel

The Music of Mauricio Kagel

大体、現代音楽の名だたる曲というのは、レコードやCDなどの聴いてもよくわからないものが多く、音楽なのに「百聞は一見に如かず」的な要素が強い。パフォーマンス的な要素が大きいから、と簡単に言ってしまえるかもしれないが、今回のカーゲルの場合は、「不条理演劇の役者が突然演奏を始める」とでもいえそうな雰囲気もあり、実験性でいえば、ジョン・ケージとも通じるものがありそうなのだけれど、その表出の仕方は随分と異なっているような印象。実験的な手法自体をアポリアとして立ち止まるような感じはない。これが、少なくとも僕の、諸処の雑誌の記事なんかから繋ぎ寄せてきた醸成してきた、マウリシオ・カーゲルに対する先入観だった。
Kagel;Exoitica.

Kagel;Exoitica.

[第一部]「エキゾティカ」(1971/72)解体ホールに入ると、ステージに並べられた六人分のテーブルに、異様なオブジェが並んでいるのが目に入った。全部今回の「エキゾティカ」用の民族楽器である。エキゾティカは、何種類かの楽譜から、演奏毎に各自の演奏ピースを指揮者がチョイスして並べ替えたり重ね合わせながら演奏することができるようだが、各演奏者は、音声パートと並行して「最低10種類以上のこの数世紀の間、クラシック音楽で用いられていない楽器を各自揃えて演奏する」という指示がある。そのため各演奏者が自前で揃えた楽器群が並んでいて民族楽器店の店先のようであった。
まずは、世界的な打楽器奏者・中村功氏による「エキゾティカ」レクチャー。
http://www.isaonakamura.jp/
生前のカーゲルと長く演奏活動を行ってきた氏によるカーゲルの人となりの話が興味深い。カ-ゲルは長身で禿頭、場を弁えず突然「ぐーふっふっ!」と笑いだすのが癖だったらしい。
楽譜には記録されない「エキゾティカ」実演(リアライゼーション)のためのハウツーを中村功氏がNext Mushroomのメンバーに口伝する、という形になった様子。書かれた譜面を再現することが音楽の再現にはならない、あるいは音楽のすべてを記譜することなでできるわけがない。そういうことを、カーゲルは言いたかったのかもしれない
中村氏はドイツで「エキゾティカ」の演奏に参加する際、東洋人の自分が演奏するのだからそれだけで「エキゾ」なのでは?と作曲家に訊いたところ、当然のように「イサオのエキゾティシズムを出せば良い」と言われたのだとか。そのカーゲルの指示通り、各演奏者は西洋音楽から遠い楽器(二胡、ディジリドゥ、バラフォン、韓国の銅鑼などなど・・・)を集め、それぞれ「エキゾ」な格好で登場。そして、これもまたカーゲルの指示だが、使用する楽器に「熟練」していないこと、というのも重要な要素。始まった演奏は、民族音楽的なムードを期待していると間違いなく裏切られる奇天烈なもので、中村氏の指揮のもと、演奏者は楽器を持ちかえながら、声のパート(歌というより奇声?)を演奏する。演奏を聴いて、自分はローレンス・ブッチ・モリスの指揮された即興「コンダクション」を想起しましたが、「エキゾティカ」に即興の部分は全く無いとのこと。「即興的」と感じた部分は、演奏解釈のオープン性に由来するのかもしれない。この演奏40分ぶっ続けのハイテンションで繰り広げられたのですが、決して退屈でも静かな音楽ではないにもかかわらず不覚にも中間でウトウトしてきたのである。徐々に複雑に重層しながら鳴らされる楽器群とホエザルのような(…すいません)鳴き声に包まれたアナーキーな音場で、夢かうつつか、という状態になりながら頭の中に浮かんできたのが以下のようなことだった。
建築のことを「凍れる音楽」というレトリックがあるらしいが、この「エキゾティカ」はまるで「融解する建築群」だ(ちょっと的外れ、だ)。カーゲルの哄笑が聴こえてくるような気がした。
これはYouTUBEで見つけた別の「エキゾティカ」の演奏。

[第二部]は、休憩中に飲んだコーヒーのおかげで意識も冴えてきて濃厚な演奏を十分に楽しめた。
①「Klangwolfe(ウルフトーン)」(1978/79)(ヴァイオリン×ピアノ)
いきなり、ピアノが家庭用の毛布で覆われているのに驚かされる。
これはピアノの音をミュートするためだが、カーゲルはご丁寧にも「一目で楽器に付属したものではないとわかる柄の毛布」をピアノにかけるように指示しているらしい。まず「ウルフトーン」という言葉だが、これは共鳴体をもつ弦楽器の奏者なら、実は誰でも知っている/悩まされているもので、特定の音を出すときに楽器自体が共振して出てしまう「狼の唸り声」のような音のことらしい。http://www.yamaha-tokai.jp/nagoya/gakki/column/no7_wolfkiller/index.html
カーゲルはこの一般的には「ノイズ」とされている音・ウルフトーンをいたく気に入ったらしく、この「ウルフトーン」のための曲を書いてしまったわけである。毛布ミュートされたピアノに対峙するのは、ヴァイオリンだが、こちらの奏法もかなりおもしろく通常の楽曲の演奏時のように「弾き切らない」。弾き始めの幽かなカスレのような状態をずっとキープして演奏しているように聴こえた。音が圧倒的になってこちらを包むのではなくて、特にヴァイオリンは、薄墨で刷毛をさあーっとひく様が見えるようなタッチで、二つの楽器の音の危ういバランスそのものを、こちらに差し出されているのがわかった。個人的な好みでいうと、ピアノはあと何枚か毛布をかけてあげるべきだった。そうやってよりミュートした方が、ヴァイオリンのかそけきトーンと、より絶妙な拮抗を演じたのではないかと。

②「Phantasiestuck(幻想小曲)」(1987/88)(フルート×ピアノ、そして伴奏)
とにかく落ち着かない「仕掛け」なのである。このあたりからコンサートホールを劇場と捉えるカーゲルの作風の片鱗のようなものが、やっと伝わってきた。舞台下手に何故か衝立があるのである。ピアノとフルートの現代的な曲だななかなか聴かせるなと、シカメ面して聴き始めていると、その衝立の裏側からヴァイオリンやファゴットの音が素っ頓狂に聴こえてくるのである。他のメンバーがおそらく5名くらい隠れて演奏している様子。多分、衝立がなければそれなりに室内楽として聴けてしまえるのだろうが、衝立があるだけで、隔靴痛痒な困った感じになってしまう。この曲は、フルートとピアノのデュオとしても、おもしろい曲として聴けるらしいのだが、今回は「伴奏」有りのバージョンらしい。衝立の向こうの「伴奏」は、見えないというだけで、大抵の驚きには慣れているつもりの現代音楽の聴衆の不意を突いてしまえる、という事実。気付かないうちに嵌ってしまっている聴取の仕組み・姿勢を浮かび上がらせつつ冷や水を浴びせるチェシャ猫のような仕掛けなのである。音楽を演奏する/鑑賞することに介在する視覚的な要素を、ある意味逆手にとっているのがこの曲の面白さなので、こればかりは音源で聴いても伝わらないケースだろう。

③「Schattenklange(影の響き)」(1995)バスクラ
バスクラのソロだがある意味デュオでもある。共演者は奏者の「影」で、バスクラ奏者自身は姿をさきほどの衝立の向こうに隠したままだが、照明を使ってステージ前面に自分の影を投影しながら、最上質のヨーロッパ・フリー・インプロヴィゼーションのような(もちろん即興ではない)超絶技巧の演奏をする。趣向自体はすぐにそれとわかる単純なものなのだが、客席前方に映し出される巨大な影絵は、まるで首の長い鶴とディープキスをして格闘している「マルサの女」(古すぎるが、奏者が女性でおかっぱ)のようで、それを多分衝立裏で小まめに立ち位置を変えているのか向き・大きさも頻繁に変化する。そこに特殊奏法を駆使した高密度な演奏が被さっているので、まったく飽きない、というよりこのあたりから今日は本当に聴きに来てよかった、と思えてきた。
音楽って、なんておかしな行為なんだろう(演るのも/聴くのも)!

④「StreichquartettⅠ(弦楽四重奏曲第一番)」(1965/67)
カーゲルのString Quartetなのだから、ここは一筋縄ではいかないことくらいは予想がつく。まず、演奏者はひとりずつ入場してくる。一人目は楽譜のない譜面台の前に座ってみたりしてチェロでこそこそやりはじめて、あとの3人はたしか演奏しながら入ってきた。奏法も一般的なクラシックでいうString Quartetの奏法ではなく、弦に物を挟んだプリペアド奏法や、ヴァイオリンをマンドリンみたいに胸の前で構えてポロンポロリンと間欠的に爪弾いたりして、どうしてもString Quartetという目には見えないが皆が前提として共有してしまっている「制度」に入ってきたくない駄々っ子のように魅力的にノイジーな演奏が続く。

⑤「Rrrrrrr...6 duos for 3 percussionists」(1981/82)
ここで、第一部の中村功氏がカムバック。Next Mushroomの打楽器奏者二人を交えて三人で6つの「デュオ」のための短いピースを演奏。「Rrrrrrr...」は、オルガン、コーラス、ピアノ、打楽器、ジャズバンド等々のために書かれた41の短いピースを集めた総体で、それぞれのピースのタイトルが「R」ではじまるのである。今回聴けるのは、この「Rrrrrrr...」の打楽器のために書かれた6つのピースで、タイトルはこんな感じ。
1.鉄道のドラマ(Railroadか)
2.牧場のダンス(Runch、かな)
3.リガドン(Rigadon?…綴りは不明。古代フランスの社交ダンス)
4.リムショット(Rimshot?綴り曖昧)
5.連打音(綴り不明)
6.ギャロップ(綴り不明、古代ドイツのフォークダンス
自分の持っている「Rrrrrrr...」はオルガンのパートを集めたもので、インパクトが自分にとってはあまりなかったのだが、今日聴けたバージョンはものすごかった、と幼稚な発言をしてしまいそうな程のものだった。
各タイトルを様々な打楽器で表現したものようだが、そのどのピースにも、打楽器の強烈な打撃音から擦れたような音まで、どんな音も聴き逃さないカーゲルの神経が目に見えるような気がした。特に2.で、カーゲル自身が録音したというスイスの牛追い歌のテープをバックに、フロアに置いた12個の大小のベルの上に、壜につめた米を、中村氏と葛西友子さんが降らせて出す演奏、そして二つのスネアドラムの皮と縁部分を同時に連打する目が覚める強烈な3.、そして、水平にした太鼓を、まるで「音を吸い取る」ように静かに鳴らしてみせた5.での中村氏の演奏。超絶テンションで一気に終了し、観客の反応も熱かった。3人のうち2人ずつが順番で「デュオ」をとっていくので、常に残った1人は後ろで休憩しているのがおもしろかった。

Kagel;8 Organ Pieces

Kagel;8 Organ Pieces

⑥「StreichquartettⅡ(弦楽四重奏曲第二番)」(1965/67)
この第二番は、先の第一番と必ずセットで演奏することになっているらしい。今回は「Rrrrrrr...」を挟んで対峙することになったわけだ。第一番と同じく、厳密な記譜に基づいて、プリペアしたり弓ではなく鉄の棒や大きなバネで弦を擦り、金属的にかすれた音やコリコリしたおもしろい音を出してみせる。一番前の席に座っていたので、円陣を組むようにして座った中で4人の後ろを向けた多井智紀さんの譜面がみえたが、細かい指示が各パートに書きこまれていて密林のように見えた。音そのものは、第一番と同様、楽音と生活音の垣根を取っ払ってしまいそうなノイジーで濃密なもので、完全に好みの音楽だった。演奏の節々に、アングラ演劇めいた目配せや表情のやり取り、身振りがあって、それがどの音とも等価になっているように思えた。厳密な記譜に従いつつ、自らを音楽の中に制度化しないString Quartetなのだった。
若いチェリストの多井が、楽器を茫然としたように肩のうえにあげて仰ぐようにして、ゆっくりと弦をこすり続ける弓。それをヴァイオリンの辺見が、自分の弓で弦から優しく剝すようにして静止し演奏が、終わった。
カーゲルに見事にしてやられてしまった。

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学生の頃、友人の紹介で郊外の市の音楽ホールの裏方のバイトに混ぜてもらっていたことがある。そのころ、クラシックの演奏会の仕込みの前には必ずリハーサルというか音の調整をしている人たちの音を聴くことが出来て、もちろんそれは曲になっていないし、てんでバラバラに演奏されるし、音響的にも断片化しながら消尽していくようなものだったけれど、そんな音を聴いているのがとても好きだった。カーゲルの音楽は、そんな懐かしい感覚/嗜好を完全に思い出させてくれて、堪能させてくれるものだった。
コンサート・ホールを「劇場」として捉えることが「異化」になるということ。そんなロジックにすら、カーゲルは異議を申し立てているような気がする(もちろん笑いながら「ぐーふっふっ!」)。非西欧であるアルゼンチンから西欧であるドイツに来て「エキゾティカ」という曲を書いたカーゲルなのである。捻くれているようで、実はとことん素直。そんな子が小学生のクラスにはひとりはいたものだが、マウリシオ・カーゲルの音楽はそんなことを考えさせてくれもする。

Mauricio Kagel Edition (W/Dvd)

Mauricio Kagel Edition (W/Dvd)

本日のエントリーのタイトルはこちらの本のタイトルのモジリ損ないです。
音楽は自由にする

音楽は自由にする

そして、この本のタイトルは、このアルバムタイトルの元になったナチスユダヤ人収容所のグロテスクな標語「労働は自由にする」を変奏しているのかな?と思ったりしています。
Arbeit Macht Frei

Arbeit Macht Frei