散酔のファントム・スメル:小笠原鳥類『素晴らしい海岸生物の観察』
先週の金曜日くらいから、桜は花を散らせはじめて、雨のせいで今やすっかりアスファルトに落ちて、濡れて崩れた花からは、春の匂いがたちこめてくる…はずなのですが、ヒノキ花粉のため、鼻が利かない。あるはずの匂いを、その嗅覚を、意識は探し始めるわけです。
いいのだろう。
こんな気分に加勢を頼んで、小笠原鳥類さんの詩について書いてみるのが、案外具合がいいのかもしれない、と思って書き始めてみる。
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先のエントリーでチラリと触れたように、詩人の小笠原鳥類さんから、以前書いたエントリーについての丁寧なメールをいただきました。
小笠原鳥類さんも、ギャビン・ブライヤーズの音楽がお好き、とのことで嬉しいのと同時に、数年前はじめて手にとった時から第一詩集『素晴らしい海岸生物の観察』asin:4783719306に収められている『「新しい『魚歌』」のための讃歌』という詩の中の
(弦楽器が緊張するのではなく / 緊張が弦楽器を生むのだ)
というフレーズが気になって仕様がないことを書かせていただくと、ご本人から「この詩を書いた頃に私はバルトークの弦楽四重奏曲、特に4番を好んで聴いていたのだと思います。」とご返事を頂きました。
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小笠原鳥類さんの詩は、最近出た「現代詩手帖」では、「0年代詩」になってしまっている。とうとう現代詩まで0年代かと思いましたが、デビュー当時は「90年代詩」と括られたとのことですので、言ってみれば10年以上、現代詩の詩壇(?)の最前線におられることになる。これが、もう中堅クラスというのかどうかは、よくわかりませんが、はじめて第一詩集『素晴らしい海岸生物の観察』を手にとったときの感覚は、中学生がはじめて輸入盤屋で怖々アヴァンギャルドなロックのレコードに手を出すような感覚だったとおもいます。
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鳥類さんの場合は、自分が書きたくて、書いてみて、書けてしまうものがあって、それは「現代詩」あるいは「詩」と呼ばれるものであるかどうか、ということよりも以前に存在してしまっている。そしてしかし、その書いて書かれたものが「現代詩」あるいは「詩」と呼ばれるカテゴリに入れられることになっても、別にそんなに違和感もなければ、周りからもそのように受け止められ受け入れられてゆく、ということがあったのだと思う。でも、いままでの話からすると、もしかしたら詩とはまるきり違うかたちの言葉の使い手になっていた可能性も全然ないとは言えないですよね。でも結果的には、いまや現代詩と呼ばれる世界のなかに、ある重要な位置を占めているように見えることが僕にはとても興味深い。
――『新たな夢を作る』佐々木敦×小笠原鳥類「現代詩手帖」2009-04号 p.58
と、見事に言ってのけている。…くやしい。
何度も引き合いに出してしまって恐縮ですが、「いん/あうと」というサイトで出会った
なぜ詩を読むのか。という問いに対してはいろいろな答えがあるだろうけれど、答えの1つとして「変な言葉を読みたいから」があると思う。変な語彙、変な文法、変な文章が次々に登場するのを見たいのである。そこで面白い面白い、楽しい、ということを言いたいのである。特徴のある言語が、奇妙な装飾の多い置物のように、あるいは怪物のように、そこにあるのを見て喜んでいたい、ということである。
http://po-m.com/inout/id135.htm
という言葉は、それが単なる際物好きの頽廃からくる言葉ではないことがはっきりとわかったらこそ、自分にとっては、言葉にすることはできずにモジモジしていたのを、他者の・それも実際の詩人の言葉として、はっきり存在する欲望としてながら肯定してくれるものでした。
その契機を僕としては、ジャンル横断的に使用してしまいたい気持ちで、先のエントリーでの引用になっていたのだと思うし、だからこそ、この言葉から感ずる「意志のスタイル」のようなものに拘りたきもちですが、小笠原鳥類さんご自身は、これは自分だけが言っていることではなくて、古くは吉岡実が名高いエッセイ『私の詩作法?』で書いていること、とこともなげな様子であったります。
とても気になったので原文を探すしてみると、「詩の森文庫」から出ている『吉岡実散文抄―詩神が住まう場所』asin:4783720061の中に見つけることができました。
詩は感情の吐露、自然への同化に向かって、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見るもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在―を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される。能動的に連?させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼の中心をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。
――吉岡実「わたしの作詩法?」『吉岡実散文抄―詩神が住まう場所』収 p.82
言語態のオブジェとして、岩塊から言葉を切りだそうする方法論―現代詩の「現代」の意味がどこにあるのかと問われれば、それはたぶん、この文章のなかにある、と呟いてみたくなる文章です。
この文章が書かれ読まれた1960年代後半に海外の現代美術の動きなんかも視界に入れながら、造形芸術や音楽へも横断可能な営為としての、「現代芸術」としての詩―自分の言葉を発したいと願った人たちにとって、吉岡実が、この『私の詩作法?』で書いたことは、殆ど、この、吉岡実があえて言葉にしたこのラインでなら、詩を許せるのだという指標でさえあったろのだろうと、素人である自分でも容易に想像できます。
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詩行を視覚的に捉える、単語と単語をリニアな意味や感情の吐露のなかに置くのではな
く、そのひとつひとつが輪郭を鮮明にし合うように―コラージュの方法論―で書く。永遠に言葉の緊張関係を反響させ合い続ける束として、詩に題名を与える。上に列記してみたような意味であれば、小笠原鳥類は、「現代」詩の、少なくとも「異化」の伝統には、きわめて忠実ですらある、とも思えてしまいます。
でも、小笠原鳥類の詩には、もっと根源的な言葉の「ちから」があると思っています。
詩を行分けで縦書きで書くと上の線が揃いますよね。下の線はぐにゃぐにゃです。このかたちには、水面があってその下に何かがうねうね泳いでいる感じがある。たとえば「鮫が爆発する」(『素晴らしい海岸生物の観察』)という詩は書きながら、この水面の下のところに鮫(大きくて長いウバザメかな)がいるんじゃないかという気分もあった。読者がどう思うかはわからないんですけれども、私には上の部分を揃えることで濃密な海面を作っていく感じもあって、書いていると海の生物を想像する。だから縦書きにこだわるということもある。インターネットのブログなどで横で書くときは四角いかっちり整った散文詩で、あれは水槽かなと思って書いています。
――『新たな夢を作る』佐々木敦×小笠原鳥類「現代詩手帖」2009-04号 p.55
これも先の現代詩手帖の対談からですが、ここには小笠原鳥類の作品として際立ってくるものがなんなのかということが、かなりはっきりと出ているように思えます。誰もが指摘する「動物的な」モチーフ群が、(悪い言い方ですが)「客寄せパンダ」的なものとは、対極的なもので、詩人が書いていくフィールドそのものであることがわかります。詩人はその蠢きの中から、ある言葉たちを選び取り、気配を立ち上げていく。
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いきなり私事ですが、現代詩は、自分にとっては、長年脇目で「あるなあ」という程度のジャンルで、正直、谷川俊太郎さんとか吉増剛造さんくらいしか知りませんでした。
それが多少、興味を持って向き合うようになったのは、「極私的」というベタ/メタを究極的に無効にしてしまう切り口が蠢いていた鈴木志郎康さんの作品群(初期のプアプア詩の爆発から、最近の「声の生地」の率直さまで)を通すようにして読む経験をしてから、でした。それは或る意味、詩集って、頁を小難しい顔しながら読み込むのではなくて、隣の生身の人の発する「声」のように接する回路なんだ、という発見でした。と、書いたからといって、隣の人の普通なつぶやきに驚きを感じるという牧歌的もしくはニュー・ミュージック的なものではなくて、隣にいる人がこんな言葉を話始めたらきっとおもしろい、そんな風に感じてみないと、殺ぎ落とされてしまうニュアンスが多いのだ、というあらためての発見で、それは、その後ひきつづくようにして読み・聴いた藤井貞和さんの作品群にもいえることでした。
そういう自分の成り行きの中で、小笠原鳥類さんの詩がどんな風に読めたのかというと、ひとことでいうと「書き言葉への揺り戻し」でした。
それらの詩は、音声化する契機を甘やかに封じられているように読めたのと同時に(僕が自分が知らないだけで、これらの作品は朗読もされているのかもしれませんが)*1、「書き言葉たち」の密度が、緊張を音楽をしている、とも読めた。
上に書いた詩のモダニズムの方法の、その先にあるもの―動物や怪物たちが密集/集積することで互いの意味を剝ぎとり合う、もしくは輪郭を強調し合う―多分に不協和を含みこんだ共鳴(ともなり)状態―エクリチュールの生態、というか―から、何か新しく立ち上がってくる欲望の動線―としか拙くも今は表現できないようなもの、それを小笠原鳥類の詩に感じている気がします。
それは字面だけ眺めると、セリー音楽の楽譜の密林と通じる気配がしますが、ここで小笠原鳥類の詩は音楽的だ、とはあえて言わず、むしろ、或る種の「匂い」を醸す言語態だといってみた方が、詩が動いていく先を見通せそうな気がします。
視界を掠める映像は、時には、腐敗した水族館の暗いガラス棚かもしれないし、直線的に鳴くマイルカかもしれないし、あるいは「動物飛翔」でありすべからく「動物圧縮」であってのかもしれない。また時折、鼓膜には「軟骨魚類音響」や「内臓音響」、「歯音響」等々が介入してきたりして忙しく、どうやら「敵が増大」している気配がするのだけれど(このああたり、もちろん小笠原鳥類さんの詩からの「引用語」です)、それは像を結ばない。感覚は乱されるけれど、イメージはもどかしさを一括前払い全納して意識野から遠ざかる。
確かなのは、詩人が選んだ単語のひとつひとつが強烈な「嗜好≒思考」を放っていて、読者はそれを感得せずにはおれないということ。残像ではなくて残り香を辿る動機を、読者に残すということ。たしかに一瞬、鼻腔を突き刺したのに、その実態そのものは姿を現さない。小笠原鳥類の新しい夢の言語がもたらすのは、<
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最後に、メールでやり取りさせていただいた中で、どうしてもこれだけはご本人におききしたくて、図々しくもお訊ねしてしまった(同じ質問を、「手帖」のインタビューで佐々木敦氏もしておられて、ああ、気になってしまうのは、僕だけではなかったと感じ入った)質問と、小笠原鳥類さんの回答を書いて、今夜は終わりにしたいと思います。
僕:いつも感じ入ってしまうのですが、この文章は、いったいどうやって書いておられるのでしょうか!段落ごとに、一気に書いてしまわれるのでしょうか?
小笠原鳥類さん:最初から書いて最後まで数分で書いています。普通に文章を書くように書いています。書いている姿を傍から見てもさほど変哲はないだろうと思います。
*1:朗読は、やはりなさるそうです。