みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

箕面山野猿観測所の放送を録ってみた〜ル=グウィンの想像力〜パティ・スミスの歌

nomrakenta2008-12-07



瀧と紅葉。
われながら実に「箕面」的、な写真だと思うんですが…。

昨日、朝のうちに、瀧の上まで登って帰るときに、箕面野猿観測所(という小屋みたいなものがあるんです)の放送が、30秒くらいの間隔をあけて流れていて、「猿をみても驚かないでください」(人が驚くと猿も驚いて攻撃モードになるから)とか「小さな子どもにビニール袋を持たせないでください」(間違いなく食い物だと思われてひったくられるから)などと丁寧に注意している。数分聴いているとなかなかリズミカルなので、たまたま持っていたR-09で10分くらい録音してみた。行楽客の話声とかの音が時折混ざって、結構いい仕上がりなんでは、と思って、帰宅後聴いてみたら、入力レベルが半分くらいになっていたみたいで、放送がかなり弱々しい。
ざんねん。


梅田へ行って本を買った。

ジョイスのパリ時代―『フィネガンズ・ウェイク』と女性たち

ジョイスのパリ時代―『フィネガンズ・ウェイク』と女性たち

ジョイスが「フィネガンズ・ウェイク」を16年かけてパリで書いていた時代、彼を支えた女性たちの話が中心で、独自の装飾文字をつくりだした統合失調症の娘のことも書かれている様子。
バレンボイム/サイード 音楽と社会

バレンボイム/サイード 音楽と社会

こないだ平井玄の『千のムジカ』を読んでから、何度も立ち読みしていたが、とうとう購入してしまった。原題は『パラレルとパラドックス』。サイードバレンボイムの関係を示唆している様子。
ジャン・ジュネのデビュー作『花のノートルダム』が文庫化されていた。とはいえ、新訳になっていて、昨年、古本屋で昭和30年に発行された堀口大學訳のものとは印象がかなり異なっている様子。ちなみに堀口大學の「ノートルダム」はこんなふうに口火をきる(というか流れだす)。

ヴァイドマンの写真がみなさんの眼にふれたのは、花のノートルダムの名が評判になったと同じような、九月の或る日の夕刊のおかげでした。

新しい訳では、この「です・ます」調が簡潔な表現に改められていた。いいのかどうかはわからない。読みやすくはなっているのかもしれない。でも、「ノートルダム」を監獄で書き終えたジュネの精神状態としては堀口大學の調子は素晴らしく適合していたようにも思える。

花のノートルダム (河出文庫)

花のノートルダム (河出文庫)


今日、昼間、寝ころびながら、本を読んでいたらル=グウィンの『ファンタジーと言葉』というエッセイ集でこんな文章をみつけた。

ファンタジーと言葉

ファンタジーと言葉

アース・シーの世界でゲドが各地を帆走してまわったのは、経験を―わたしの経験を反映していません。反映されているのはわたしの想像力だけ。高校のときに乗ったあのヨットと、他の人たちの経験―わたしの読んだ小説の数々―、若干の調査(わたしはなぜ<はてみ丸>が鎧張りなのかちゃんと知っています)、友人たちにした質問、そして何度か乗った遠洋定期船は使いました。でも、基本的には全部作り物です。
『闇の左手』の雪と氷の世界も同様です。わたしは十七歳になるまで雪を見たことさえありませんでしたし、そりを引っ張って氷河を横断したことも当然ありません。スコットやシャックルトンなどの探検家と一緒にした冒険を除いては。もちろん本の中でですよ。そのアイディアはどこからとったのか?もちろん本からです。他の人たちの書いた本からです。だって、何のために本があるんですか?本を読まなかったら、本が書けるはずないじゃないですか。
わたしたち作家は全員お互いに肩車しているのです。わたしたちはみなお互いのアイディアと技術とプロットと秘密を使いあっているのです。文学というのは共同体による事業です。「影響への不安」なんていうのは、男性ホルモンが言わせているだけですよ。(中略)わたしが言いたいのは、他の人たちの書いた本はわたしたち自身の経験と同じように、わたしたちのなかにしみ込んでいくということです。そしてそれは現実の経験と同じように、想像力によって堆肥をほどこされ、変化させられ、形を変えられて、まったく違ったものになって、わたしたち自身の心という大地から芽吹いた、わたしたち自身のものとして現れるのです。

――アーシュラ・ル=グウィン「わたしがいちばんよくきかれる質問」

「本を読む」という営みの総体は、じつのところ「頭の中で本を書く」という極私的な日常作業までも包み込んだうえでの、それ自体が「ファンタジー」を現実に打ち立てる試みなのよ、ほんとうはあなただってわかっているんでしょ?と、ル=グウィンが囁く。

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若い頃の、じゃなくて最近のパティ・スミスが観たくてYouTubeをうろうろしていたら、脱力具合がいいライブを発見しました。

ニール・ヤングの『Helpless』。パティ・スミスの歌い方って、驚くほどパンク時代からまったく変わっていないように聴こえますが(…なんでここで?というようなとこでしゃくりあげたりするところ、とか)、最近の歌声は、柔らかな厚みが出てきているようで、好きです。
スプリングスティーンとの共作の『Because The Night』をやっているのですが(僕はこの曲を1,000マニアックスのアンプラグドではじめてちゃんと聴いて、そのあとUAがライブ盤でカバーしていた)、最初のMCが「この曲練習するのはとっても大変だったの」「なぜってジャクソンはノルウェージェシーはNY、わたしはモスクワでしょ」「だから皆さん(聴衆)にほんとに助けてほしいのよね」と、いい具合なんですね。

出だしで戸惑ってしまうのも愛嬌。「だめよ、怖がっちゃ」とかいって聴衆の和やかな笑いを誘っている。パンク時代の彼女の映像よりも遙かにいいですね。コーラス部分は客に丸投げしちゃうとこがまた…。

夜の帳も降りて、グローリア。
パンク時代の映像を観ると、少なからず客と対決しているような印象があったのですが、復帰してからのパティ・スミスって本当に歌を楽しんでる、というのが伝わってくる。