みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

いくつかの環状島を、音楽がななめにつないでいると、かんがえてみる。:平井玄『千のムジカ』、ポール・D・ミラー『リズム・サイエンス』、宮地尚子『環状島』

nomrakenta2008-11-12




平井玄の『千のムジカ―音楽と資本主義の奴隷たちへ』は、「ミル・プラトー(千の高原)」から本歌取りされているのであろうとは誰もがすぐさま納得できると思いますが、個人的には、書店で見かけた瞬間、副題の『音楽と資本主義の奴隷たちへ』に正直、後退りしてしまいました。自己分析してみると、どうやら、まず第一に自分が「音楽と資本主義の奴隷」そのものであるに間違いないという思いと、第二に、それでは著者は「そうではない」とでもいうのであろうか?という疑問でした。しかし、後者のやや子供っぽい反駁は、内容を読むにつれて気にならなくなり、つまるところ著者ご自身があとがきしている通り、

千のムジカ―音楽と資本主義の奴隷たちへ

千のムジカ―音楽と資本主義の奴隷たちへ

 「音楽と資本主義の奴隷たち」とはまず第一に自分自身のことなのである。自分は自由の身ではないこと。音楽に対しても、この世界に対しても。それでは一体、どのような奴隷なのか?そして「主人」とは誰なのか?
――平井玄『千のムジカ』あとがきより

ということであり、それでこそ本書に集められた文章に込められた不安感、とそれをなんとか潜り抜けて「音楽」が響く場所へ辿り着こうとする期待感が、読者と共有され得るものにもなっているのだと思います。実際、前作の『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』よりも、個人的にはその危機感≒期待感が、より腑に落ちてくるように感じます。とくに、ジョン・ゾーンマサダにあてた長文の章「マサダ/音楽のディアスポラ」と、エドワード・サイードからチャールズ・ミンガスに激しく反幅しながらD+Gの「リトルネロ」とオーネット・コールマンの不安定に脈動する旋律まで突っ切っていく冒頭の「ドゥルーズ/サイード/マルクス 音楽と資本主義」は、本書の白眉。「後ろに向かって前へ聴く」は、歳時的な構成になっていて、それぞれ読み応えあり。

反則的に付け加えると、「リトルネロ」に関してだけいえば、市田良彦ランシエール 新<音楽の哲学>』の第三章「鳥たちのブルース」の「2 リフにはじまる」を読むのがいちばん良いかと思います。本書は「ランシエール哲学」の解説書でありつつ、ロバート・ジョンソン裸のラリーズ遠藤みちろうまでをも論じてしまう稀有な書物でもあります。

ランシエール―新〈音楽の哲学〉 (哲学の現代を読む 5)

ランシエール―新〈音楽の哲学〉 (哲学の現代を読む 5)

前作ではチャーリー・パーカーとアイラーが著書全体を通じての基本旋律だったのが、本書ではミンガス、オーネット・コールマン、クレズマー(ジョン・ゾーンを含む)に置き換わったような印象もあって、そこが個人的なジャズ・リスナー歴に相当する部分が多かったので、それも、本書によりすんなりと入っていけた理由のひとつでもあるのでしょう。

で、前回のDJスプーキー著『リズム・サイエンス』との共通点、ということで前回のエントリーを終えてましたが、それは、両書ともが、以下の、チャールズ・ミンガスの自伝『敗け犬の下で』の書き出しを引用してみせている点、だったのです。

 つまり、俺は三人なんだ。一番目の奴はいつも中心にいる。頓着せず、動じず、見守り、あとの二人に視たことを打ち明けられるまで待っている。二番目の奴は襲われる恐怖から逆に攻撃に出る。不意を衝かれた野獣のような男だ。それから三番目の奴は愛し過ぎてしまうやさしい人間、自分の存在の内奥まで他人を入れてしまい、侮辱を甘受し、信じこんでろくに読みもせずに契約書にサインし、口車に乗せられて安売りやタダ働きをし、どんな破目に陥ったかに気づくと、今度は逆に周りの何もかも―大馬鹿な自分もひっくるめて―撃ち殺し、打ち壊したくなる人間だ。
――チャールズ・ミンガス『敗け犬の下で』――平井玄『千のムジカ』から孫引き

ミンガス?自伝・敗け犬の下で (晶文社クラシックス)

ミンガス?自伝・敗け犬の下で (晶文社クラシックス)

『千のムジカ』では、この言葉は、同時代の黒人公民権運動を表象するジャズとしての側面、それを割引いたとしても際立って聴こえてくるミンガス音楽の、切断面の粗さ(断層の不整合さ?)そして、葛藤の複雑さの根拠として引用・参照されつつ、やがて、本書全体の重要な縦糸の一本である、中世ユダヤ/アラブ的な痙攣するヴィブラートとも共振するようなヘテロフォニックの根源として示唆されています。

では『リズム・サイエンス』ではどうなのかというと、

リズム・サイエンス

リズム・サイエンス

 DJカルチャーは単に技術的に複合体/多様体というだけでない。そこには個人のアイデンティティにまつわる全ての問題がある。
――ポール・D・ミラー『リズム・サイエンス』p.73

という文句ではじまる「多重意識」という章で引用されています。
ここでDJスプーキー(ポール・D・ミラー)は、ミンガスのなかの三人という告白を、
ディボイスの「二重意識」

(「アメリカ人であり、黒人である―彼はつねに自己の二重を感じるのだ。一つの黒い身体の中に、二つの魂、二つの思考、二つの相容れない希求、二律背反する理想…」

のあとにくる「三重意識」として捉えていて、この「三重意識」とは、ここからは僕の推論ですが、おそらくアメリカ人である②黒人である、に③音楽家である、を加えた段階として捉えられていて、論旨的には、21世紀を生きるDJスプーキー自身の時代の音楽家は、少なくとも上記①〜③に、④技術・情報リテラシー、が付け加えられることになる、ということになるのかと。

つまり、両書ともミンガスのこのオープニング・ステイトメントを、国家的、人種的、職能的…と否応なく複層化・多重化していく音楽家アイデンティティの表出の、アーティスト本人による告白というかたちをとった好例として位置づけていることに共通しているわけで、時代も国も異なる二人の論者の視点から挙げられているあたり、そしてミンガスが残してきた録音が、今の耳にも十分に強靭に、そして繊細に鳴り響くことからしても、おおかた異論はないのではないか、と僕には思われます。
そしてもちろん、「僕らには、ミンガスが必要なんだ」。

ちょっと収斂してきてしまったので、ここでやや脱線してみると(といっても両書とも大まかにいって文化圏の真っただ中にいらっしゃるので脱線でもないかと思いますが)、どこかに上のミンガスのことばと似たような感触のセリフがあったよなあ、と思ったら、これでした。

 われわれは『アンチ・オイディプス』を二人で書いた。二人それぞれが数人であったから、それだけでもう多数になっていたわけだ。
――ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ千のプラトー』p.15

あまりにも有名な序章「リゾーム」の書き出しの一文です。

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

今、書き出してみるとちょっと座りが悪いものがあります。個人的な感触ではそれは、スラヴォイ・ジジェクが後年、下のように批判を加えた部分なのかなと思う。

 なぜなら彼らには(ドゥルーズ+ガタリ 引用者注)資本主義の分裂症、悪いパラノイアという観念があり、それが良い革命的な分裂症へ爆発すると考えているからです。しかし、思うにドゥルーズガタリは、狂気を、ある種の擬似−精神医学的に称賛することに危険なまでに近づいているのではないでしょうか。狂気とは人々が苦しむひどく恐ろしいものであり、そしていつも思うのですが、狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っているのです。
――スラヴォイ・ジジェクジジェク自身によるジジェク』P212-213

ジジェク自身によるジジェク

ジジェク自身によるジジェク

例えば、芸術の分野で、アウトサイダーアート「であるからこそ」、無垢な芸術性や真の個性が表出しているのだ、というような安易な解釈が芽生えやすい土壌があったり、少なくとも前衛芸術を許容しうる文化や68年対抗文化の影響を蒙っている領域では、伝統的に、分裂礼賛傾向があるのではないかと思っていて、それは自分自身のことを考えると、とても身につまされるわけです。
けれども、上記のような多重性と分裂は、文化的な論点と必対処の要件として、きっと線引きしなければ視界が冴えることはないのではないかなあと、今は思うようになった。
ここでの必対処の要件というのは、それは単に「分裂している」とだけ言って済まされるわけもなく、例えばそれは、宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』で丁寧に説明されているような抜き差しならないくせに常態化し、空気そのものにさえなってしまっている状況そのもののことなのでなないかと思われます。
おそらく。

 一つの事件や一人の人の体験についても、いくつもの異なるイシュー化のあり方があり、同時に複数の異なった環状島を想定することができること。そして、ある環状島においては被害当事者同士だった人が、別の環状島を想定すれば、被害当事者と支援者になったり、被害者と潜在的敵になったり、潜在的敵と被害者が逆転するなど、二人の位置関係が簡単に、かつドラスティックに変わりうるということ。環状島の上ではつねに被害や生きがたさの重さ比べが起きてしまうこと。これらのことを冷静に、また丁寧に考えていくうえで欠かせない概念がある。それが「複合的アイデンティティ」という捉え方である。

 複合的アイデンティティとは、ひとりの人間がさまざまな属性や帰属集団、さまざまな役割をもっていて、アイデンティティを一つにくくることはできない、という捉え方である。人は皆、いくつもの集団に帰属し、同時にさまざまな役割を担っている。現代社会においては、帰属集団や役割の多層性も増し、場面場面で自分が異なるふるまいをせざるをえない状況が常態化している。そのため、アイデンティティを単一のものではなく、ときには矛盾し、葛藤し合う役割の束のような複合的なものとして捉えたほうが、現実に起きていることも理解しやすい。
――宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』p100-101

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

ちなみに、宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』は、これまで極端に個別的そしてさらなる軋轢を誘発しやすい関係性で、見取り図を描くことが難しかった被害当事者から研究者、加害者までトラウマをめぐる関係者の位置づけ(ポジショナリティ)と力の作用の問題を、はじめて「環状島」というわかりやすいモデルを持ち込んで、説明を試みた良書です。少なくとも僕個人は、こういった苦手な問題系に関して、はじめてイメージするための道具をもらったような感じがしました。
「環状島」というモデルは、大海に浮かぶドーナツ状の孤島で、ドーナツの内部は、トラウマの原因である「事件」に比される「内海」となっていて、「内海」(つまりトラウマの核心)から、被害者は島の内斜面を登る過程で開放に向かい、峰で自分の陥っていたトラウマ=内海の形をいくらか客観的にみることができ、外界から島の外斜面を登ってやってきた支援者・研究者と出会い、「外海」へと連れ出されることもあれば、また内斜面を「内海」へと滑り落ちていく可能性もあるとされてます。また、環状の丘を越えてやってきた支援者・研究者自らが「内海」へ落ちてしまうケースももちろんある、ということになります。

結論めいたものには実は上手く辿りつけてなくて恐縮なのですが、つまり可能性として音楽は、『千のムジカ』や『リズム・サイエンス』でのミンガスの引用から敷衍されるように、複数の層が重なり合う意識≒文化≒言語の軋轢の火花のようなものとして知覚されるのかもしれないし(その場合、アーティストと市場、その双方からの「芸術化」の過程の幸福な結合が、そこにある)、あるいは『千のムジカ』でも、「パラレルとパラドックス」という章で紹介されているエピソードで、ブエノスアイレス生まれのユダヤ移民でありイスラエル人の指揮者ダニエル・バレンボイムエルサレム生まれのエドワード・サイードとの試み ― ドイツのワイマールで、イスラエルを含む中東の各地から若い音楽家たちを集めてひとつのオーケストラを作っていこうという共同プロジェクト ― に描かれるように、いうなれば複数の(時には激しく対峙すらする)「環状島」同士が共有し、そこから同時に複数のドアが(どこに出るのかは通る者次第)出現し得る場所、そのものでもあるのかもしれないし、あるいは、回復しがたい程に「ねじれの位置」関係にある「環状島」同士を、短い時間だけであっても、ななめに繋いでみせることができる唯一の方法として、ある種の音楽は、「音楽と資本主義の奴隷」である僕たちの耳に響いてきているのかもしれない、と想像してみます。

 それから覚えてて―ジョージ・クリントンが何年も前に言ったように……
思考しろ! それはまだ違法じゃない!
――ポール・D・ミラーも『リズム・サイエンス』著者あとがきより

 ガレー船の船底だからこそ聞こえる、遥か遠い大洋を渡ってくる音がする。そういう低く鈍い物音を聴き分ける「聴取態勢」や「思考態勢」の転換が必要とされているのである。陸の上で騒めく声たちを操るのは容易いだろう。魂を洗浄してくれる澄み切った声ではなく、海の底を流れ逆巻いている濁った音を聴きたい。
――平井玄『千のムジカ』あとがきより

下記、本文に関係あるというより、書いている間に聴いていた音楽です…。

Charles Mingus Presents Charles Mingus

Charles Mingus Presents Charles Mingus

ポートレイト

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Imaginary Landscapes

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Faithful

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Remark Hugh Made

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