みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

「ぼくが軋轢ってやつに夢中だって、知ってるだろ」:テレビジョン『マーキー・ムーン』

およそ同情というものは買えるものではなく、かといって売れるものではないから、要するに同情に似た感情を他人に対して抱いてみるものである。それに価値がないわけでは、もちろんない。ちょっと仕事の疲れが出てしまいましたが。


昔、大槻ケンジのエッセイで、神経症になってしまったとき、思春期に聴いた音楽(たとえば「INU」や「あぶらだこ」である、オーケンの場合)を聴くことでセラピーに似た効果があった、みたいなことが書いてあったように思いますが(自信がないので敬語)、神経症でもないしセラピーほどでもでもないが、確かにどんな歪な音楽であったのだとしても、そこには甘美な予定調和が期待できて、しかも久しぶりに聴く音源にはある種のちからがある。

Marquee Moon (Dlx) (Mlps)

Marquee Moon (Dlx) (Mlps)

そんな風に思っていたのは今日にはじまったことではありませんが、今夜は気が向いたので、テレヴィジョンの『マーキームーン』を聴いてみる。
いまさらNYパンクの名盤とかソニック・ユース(サーストンの)の霊感源とか、持ち上げてみる気がさらさらなくて、ただ、この盤にこもっている「いきおい」に触れたくなる時がある。一曲目の「See No Evil」だけでもいい。

おれが欲しいもの
今、欲しいもの それは
曖昧な言葉じゃとても届かない
まったくそれ以上のもの
たとえばおれは、飛びたい
源へと、飛んでいく
山だって跳び越える
すべて/了解済み/の破壊衝動/申し分ない
不吉な感じなんかどこにもない

と、ちょっと歌詞を訳してみると(かなり意訳)、歌ってることは青臭いポーズといっていい範囲のものだが、いつ聴いても、変わらない疾走感、それも「痙攣的」な美しさを保ったものが、やっぱり否定できないかたちで刻まれていることに、こちらとしては、いやらしい言い方かもしれないが安心するのである。
トム・ヴァーレインとリチャード・ロイドの二本のギターの絡み合い(と、いってもヌタヌタした感触はまるでない、未聴のひとのために、念のため)を聴いていると、これはほんとにギターなんであろうか、と思ってしまう。
マーキームーンの、ほとんど機械的に爪弾かれて「ホテル・カリフォルニア」の壁を切り崩しているかのようなリフも、鶏を絞め殺しているようなヴァ―レインの唄声も、CANの次に完璧なリズム隊のつくる土台のうえで、艶めかしくて、「夜想」的で、電気的で、もう視覚的なレベルまで達している、と思ったもので、その感慨はいまでも中学生の頃と全く変わらない。結局これほどのアルバムは、彼ら自身も作ることはできなかった(とはいえ、セカンドの『Adventure』は決して不出来なのではなくて、別種の潔さがあるので大好きですが)。

リチャード(・ヘル)は好きだったけど、彼はその頃大量のドラッグをやってたんだ。それに、あの頃のヘルは「俺達はカルト・バンドになるのかなあ、それとも2年もすればローリング・ストーンズくらい大きくなれるのかな」なんてことばかり話したがった。でも僕はそうしたことは全然考えてなかった。「この曲をよりよくするにはそうするか」ということで頭が一杯だったんだ。つまり、何かを伝えられる音楽を作り出すには、バンドのサウンドをどう展開されせばよいのか、ということしか関心がなかったわけさ。肝心なのは音楽やパフォーマンスであって、写真の写り具合なんてどうでもよかったんだよ。
――クリントン・ヘイリン『From The Velvets to The Voidoids』 p.176

仲井戸麗市のソロ「THE仲井戸麗市BOOK」(なぜか再発されない)が確かテレヴィジョンにインスパイアされた、とクレジットがあったかと記憶しますが、あのアルバムもかなり聴き狂いましたが(カセット、でね)、テレヴィジョンの『マーキームーン』のアンサンブルは奇跡なのである。ライブがどれほど凄かったのであろうと、今聴くことのできるライブのブートレッグのどれよりも、やはり本盤の音像こそ、他人にも薦めたくなる(未だに)し、なんども立ち返りたくなる。ロックへの愛情と音楽への愛情、それから最も重要なのが「今/ここ」感だが、それがこのアルバムまでに積み上げてきたバンドの情熱と一緒にパッキングされているという、最高のかたちである。でもやっぱり、パンクなんですけどね。

僕とロイドとフレッドがどこかを歩いている時だった。僕が「何か他のことがしたいな」と言うと、ロイドが「うん、他のことをすべき時が来たのかもしれない」と言ったので驚いたよ。それがバンドの終わりだった。フレッドは「信じられない」というふうに頭を掻いていた。ビリーに知らせてくれたのは彼だと思う。
――クリントン・ヘイリン『From The Velvets to The Voidoids』 p.346

これがバンドの終わりだったらしい(少なくとも第一期の。決して取り戻せないものは確かに、ある)。この夜がマーキー・ムーンの満月だったのかどうかは、この本には書いていない。

From the Velvets to the Voidoids

From the Velvets to the Voidoids