みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

アンビエントって盛り上がっているか?

とても久し振りにスタジオボイスを買ってしまいました。

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2008年 08月号 [雑誌]

STUDIO VOICE (スタジオ・ボイス) 2008年 08月号 [雑誌]

アンビエントとチル・アウトの特集ということなんですが、同誌の特集の場合、いつも感じることではあるけれど、豪華な執筆者陣と特権化されたレビューの群れに羨望と畏敬の念を感じつつも、うーん、これもか、これもなのか…え〜?という腑に落ちない感も拭えないのです。


結局、湯浅学氏と大友良英氏の対談内容がいちばん自分にとっても馴染むもので、

湯浅 ある時に逆転していったんだよ。イーノの『ミュージック・フォー・エアポーツ』は「アンビエントを作る」材料として作られたアルバム。多分、イーノの発想は『ENSENBLES』と同じで、ヒースロー空港で何かできないか考えてできたもの。実際、スピーカーをどこに配置するかを考えて作った。でも、それが試金石にされて、似たようなことをやればアンビエントだというイメージがものすごく作られた。
(〜中略〜)
大友 イーノの飛行場の作品が鋳型になってアンビエントってスタイルが出来たのかもしれないけれど、問題はそうしたスタイルじゃなくて、そういう空間や場を考えた音楽のあり方は無数に考えられる
――スタジオ・ボイス2008年8月号 p.58

そういえば僕はイーノの『ミュージック・フォー・エアポーツ』も、それをそっくりカバーした「バング・オン・ザ・カン」のCDも大好きなんですが、それを「アンビエント・ミュージック」(環境音楽)つまり家具のように無視することもできる音楽(エリック・サティ)と思って聴いたことは一度もない。とても美しい音楽だと傾聴しているし、実際上手く出来過ぎてすらいるのだと思います。そういう聴き取りかたは、後追いするものの特権でもあるし、限界でもあると思うのですが、「アンビエント」や「チル・アウト」、「ドローン」っていうある種嗜好的なリスニングが確立していると、最初に持っていたであろう社会的(芸術的)なベクトルというのは様式の中に霧散して割と顧みられない運命にもあります。
大友良英氏が仰っているのは、たぶんそういう固定的なリスナーとそれを供給するアーティストがいる一方で、最初の社会的(芸術的)ベクトルに近いことをしようとするひとも一定数必ずいる筈で、しかしかえってそういうひと達は規制のジャンル分けには参入してこない、つまりそれが「アンビエント」だとは思われない可能性もある、っていうことなのかと思いました。
話の最後に挙げていた梅田哲也というサウンド・アーティストの例が一番わかりやすい。昨年観たブリッジでのパフォーマンスでは扇風機の上に風船を浮かべて空間を演出しつつ、扇風機の壊れそうな旋回音が場の空気を特殊なものにしていた。それは音響的にいえばドローンだったのかもしれないけれど、インスターレーションに付随したものでもあって「演奏」とはいいにくい。かといって、「ブリッジ」という場で行われることの意味を考えれば、音の要素も最大限配慮されたパフォーマンスだったことは疑えない(し実際、梅田哲也氏にはCD作品が数枚ある)。つまり、少なくとも自分にとっては「ブリッジ」という「アンビエント」を完璧に利用しつくした行為だった、と回想できるわけなので、僕としては、こういう「作品(パフォーマンス)」をこそ、「アンビエント的」だと再定義してみたいのですが…。

それと、もうひとつ。
これはある意味、前述の極めて嗜好的なスタイルでもあるし、大友良英氏にいわされば「閉じた」聴き方なのかもしれないけれど、いってみれば、「音の中にアンビントを見出す」と言えるような聴き方(あくまで聴く側の態度)があると思っていて、それについてはまた日を改めます。

とはいえ、このブログでも2年ほど前に作品に触れたイタリアの兄弟ドローンデュオ「My Cat is an Alien」のミニインタビューがあったのが嬉しい(この人たちはぶっ飛んでいます)。


Music for Airports

Music for Airports

スタジオ・ボイス誌特集でアンビエントの源流と位置づけられる作品。一時期、これをかけながらでないと眠れないという困った時期があった。今は自分にとって馴染みが出来てしまった音の変容が気になってしまって眠れない。要は「アンビエント」といえるのは、その作品に意識がフォーカスされないまでの時期でしかないのかもしれない。
Music For Airports

Music For Airports

イーノの30年前の作品を忠実に演奏したBang on a CanのCD。もちろん悪くはないのだが、賛否両論ある様子。
ただし本作を「デュシャンの「泉」を必死に模写する」ような行為と同列には決してできない理由は、やはり『ミュージック・フォー・エアポーツ』自体の古典性にある、と思います。

今日は、絶対ジョン・ケージの名前は出さないでおこうと思ってました。とりあえず、成功。