みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

コラージュ酔いのあと、ハーフ・ジャパニーズ酔い

nomrakenta2008-07-22


3連休の前半は、だるくて部屋の籠っておりまして、友人間で編集しあってかれこれ2年強経過するコンピCDを編集し、ケース用のデザインやライナーの作成などを行っておりました。このコンピ、各々その時点のよく聴いている曲をもちよったりしていたんですが、だんだん編者がテーマ指定をしだしたりして、自分の番である今回で早11枚目(2枚組以上になるケースが多いので「枚目」というには語弊がありますが)。いまやネットラジオとかSNSで音源をアップするとか(よく知らないので表現が拙い)いろいろ音楽の共有方法がありますが、時代に逆行するかのような、「もの」に収斂するやり方。とても面倒でもあるんですが、実は思い入れをもって音楽に向かうにはこういうやり方が一番効くのだとも思います。

で、そのコンピに向けて、ジャケットをどうしようかと、昔の写真や自分のドローイング(というか落書き)を「封印BOX」から数年振りに書き出しての突貫作業でしたが、フォトショップで加工しだすと、この作業が心地よい酔いのような感覚。昔、美術がやりたかった頃、自分にはデッサン能力がなくて、それからきっちり奇麗に素材を仕上げるというのにも不向きだとわかった時、唯一自分の言葉を持てているような気がしたのが、古雑誌の写真やタイポグラフィを使ったコラージュでした。高校の美術の授業でも必ずやるんだろうし、今では「コラージュ療法」とかもあるらしいので、別に特別なことではないわけですが、一見何も語っていないような写真の切れ端や英字新聞の見出しの単語が、自分の画面で置き換え・ズラし・衝突させてやることで、別の言葉を語り始めるような気がして、これって、ダダやシュヴィッタースが絵画の中に切れ端を組み込むんではなくて、初めてコラージュとしてのコラージュを始めてたときの感覚なんじゃないだろか、などと夢想を楽しんだりしていたのでした。コラージュといってもマックス・エルンスト的な幻想的なイマージュ(のパーツとして異物感が機能するもの)ではなくて、シュヴィッタースからラウシェンバーグの流れのように、画面の中に絶えず現実が流れ込んでせめぎ合って奇跡のバランスで合唱しているようなそんな種類のコラージュが好きだった。
そんな懐かしい酔いの中で、昔の落書きなんかを貼り合わせたり、レイヤーを隠したりしていると、だんだん描いている時は聴こえなかった声がきこえてくるような気がしてきた。要するに、描いていたころとは別の人間になって、距離ができてきたということなんだろうと思う。描いていた頃に戻れといわれたら絶対無理だが、この感覚はこれで面白い、そう思うことにしました(長くは留まれないのだし、ね)。

そんな心地よい酩酊の後に、本日は連休明けで、仕事はまたもやてんてこ舞。
しかし、次第にこちらのてんてこ舞いの酔いも心地よいものになってきた。
帰りにK2レコードまで寄って何枚かレンタル。
カウンター奥にP−MODELの、リリース当時はカセットブック(なんと80年代的なメディアでしょうか)だった『スキューバ』を発見して、「その奥のは借りれないんですか?」とお姉さんにおききすると、「実は…」とCD本体を見せてくれて、唖然。クレバスのような割れ目(というかはっきり割れていた)が走っていた。「聴いてみます?」といわれて、「…無駄でしょうねえ」と了解しあってスゴスゴ帰ってきました。…ひどい、酷過ぎる。

帰宅して借りてきた中の一枚ジャド・フェアの「Half Japanese」の『Heaen Sent』を聴いてみて、軽い眩暈を覚えいるところです。

Heaven Sent

Heaven Sent

まず1曲目が一曲60分(!!)の1995年アムステルダムでのライブ音源にオーヴァーダブをしたもので、そのあとにそれぞれ1分程度のスタジオ録音のトラックが添えられているもの。
どうなのかというと、実はこれが、ハーフ・ジャパニーズを聴き始めるなら(そんな人いるのかな、この頃は)この盤からゼヒとお薦めたしたくなる出来になっています。一曲いきなり60分はないだろう、と引かれるとは思うのですが、一時間、と身構えることとは対極の極上のユルユル・グルーブ。
元が2トラック録音のようで、どうしてもモコモコした部分がありますが、そこに適度なダブが加えられていて、逆に手を加えた跡がわかりにくくなって(いや、もちろん判るんですが、気にしなくてもいいかな、という気にさせてくれる)心地よい酩酊状態が延々と続くミラクルになっている(のかも)。
強いて言うと、この「ユルさ」は、ジョン・ケイルが抜けた後のヴェルヴェッツのライブ演奏が一番近いといえますが、この例は、ほとんどのロウ・ファイ系、一部のネオ・サイケに該当するかと思いますのであまり適当ではない。
ジャド・フェアは、その切り絵のセンスも丸ごと大好きだったんですが、スタジオ作ではジャドの時折キンキンする声質についていけなくなって次第に遠ざかってしまっていたんですが、ここでのジャドの歌は憂いを帯びたフラジャリティが持続して、ちょっとでもジャドに興味のある人ならば絶対聴いてほしいと思います。
サイケな酔いを強制するものでもなく、ダブによってアーティスト自身からも距離を取られた演奏が、聴くものも共有できる距離≒視線にもなっている。聴きながすこともできるし(しないけど)、歌心に浸り続けることもできる。これは昔やっていたコラージュの「仕上がった」と思えたときの感覚にも、限りなく手前味噌ながら、貫流するものがある。

その他借りたもの

Dance Hall Style (Reis)

Dance Hall Style (Reis)

いい声・いいトラック。