みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

月曜が月末っていうのはどうなんでしょう:読了『大吸血時代』、フリー・キトゥン『Inheit』

週明けが月末というのはやはり、しんどいものであった。
こればかりは「慣れ」でなんとかなるものではなく、殺到する問い合わせに回線がパンクするので物理的にとりきれないというこちらの状況に、またこの末日になんとか滑り込ませたい、という架電者の焦りが相乗効果で余裕のない状況を一気に組み上げてしまう。いつも受電状況をマップで見ているのですが、10時10分前にいきなりすべての受電区分がレッドゾーン(待呼状態)になります。それに加えて同僚がいきなり体調不良で午後から戦線離脱。残った二人で、オペレーターさんたちの対応に追われ、ててんてこ舞しながら、そういえば「てんてこ」ってどういう意味なんだろう、とかすかに思ったり。人数も増えたのだが、やはり新しい人に数をこなせというのは難しい部分があり、それよりは間違いなくやってもらったほうが、間違いなく良いのです。今は。

大吸血時代

大吸血時代

読了(以下ネタバレ注意)。
要するにこれは、ヴァンパイヤ版『花嫁のパパ』であった。設定からいっても、吸血鬼族と人間族の差異・軋轢をいかにしてアウフヘーベンするのか、というところが最終的に人間の少女である「イスズ」が人間として成長していけるのか、もしくは物語世界ともなっている「大吸血時代」の変質(もしくはその予兆でもいい)へ至るのか、実はそのあたりは読み進めるうちは期待していたのですけれど、作者はそういことはまったく気にならないらしく、いとも簡単にイスズはヴァンパイヤとして幸せな結婚をしてしまったのだった。つまり、ヴァンパイヤの支配する世界、という設定を現実との対立項として描こうとしたのではなくて、あくまで人間世界の感情を特異な設定をバイアスとして透かし見せたかった、とうことかとも。
年をとることができないヴァンパイヤが、人間の娘を育てるという経験を通して、自分が人間だった頃(第二次世界大戦前)のことを想起し、またはじめて「父親」としての感情というものも知ってしまう。花嫁として送り出したパパではあるけれど、自分も永久に魅力のある20代の姿なので、ヴァンパイヤ同士の恋愛にまた火がついていく。
先日も書きましたが、小説の語り口自体は、翻訳の良さもあって軽妙で、退屈しない。でももうちょっと厚みがあってもよかったのかも・・・。
この小説で一番いいなあと思ったのは、最初のほう、主人公ヴァンパイヤ・マーティなんとか人間の娘を安心させようとするマーティと、心を許しているようで動物的な過敏さを見せるイスズの掛け合いだったんですが、特にマーティがイスズをとりあえず自分のマンションに隠して、殺そうか、いやもう少し待とうかと迷っているところで、ふいにイスズの歌う歌をきいて、とても殺すことなどできないと観念してしまうシーンで、書いてしまうとありがち過ぎるのですが、イスズは「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を歌うのですね。イスズを油断させようとして一緒にマーティも歌いだすんですが、これがヴァンパイヤ的には致命的だった。

 イスズの秘密の歌に、俺はなんだか温かくなってきた。ぽかぽかしてきたような気がする。俺のなかで、なにかが大きく広がっていく。
「♪ユール・ネヴァー・ノウ・ディア ハウ・マッチ・アイ・ラヴ・ユー」
 いっしょにうたううちに、俺にはつづけられそうもなくなってきた。俺のなかでなにかが大きくなってきて、窒息しそうになる。そこへ、次の歌詞がレンガの壁のように立ちはだかった。すでにしゃがれている俺の声が、さらにひびわれた。
「♪プリーズ・ドント・テイク」
 ひびわれたのは俺の歌声だけじゃない、俺の生活も、俺の世界もひびわれていく。それもこれも、あいつを家に入れてから・・・。
 俺は歌うのをやめた。イスズもやめた。最初からやりなおす。俺はひとりでもう一度うたいだした。
「♪プリーズ・ドント・テイク・・・・・・マイ・サン・・・・・・シャイン・・・・・・ア・・・ウェイ」
 イスズが不思議そうに俺を見ていた。心配そうな顔になっている。俺が下を向くと、イスズは丸めたティッシュをさしだした。さんざん使い古した、見たこともないほどぼろぼろのティッシュだった。〜(中略)〜
「なんで?」俺はたずねた。
「泣いてるでしょ」
「泣いてないよ」
「泣いてるもん」
――『大吸血時代』p.112

歌詞の「太陽」のところで思わず感極まってしまうヴァンパイヤほど笑えないものはなさそうですが、逆にこのシーンを観るだけでいいので映画にしてみてほしいもんです。
 

音盤も何枚か聴いてはいるのですが、とりあえず最近出ていた、これ。

Inherit (Dig)

Inherit (Dig)

すでに「懐かしい」といって差し支えるところはまったく無いのであろうほどにご無沙汰だったソニック・ユースのキム・ゴードンとボアダムズのヨシミさんとジュリー・カフリッツの「ロウ・ファイ」ユニットの新作。何年ぶりなんでしょうね。もしかして10年くらいになるのでは?1995年頃、ソニック・ユースの各メンバーとその界隈の人脈はとにかく入り乱れてユニットを形成し、あっという間にシングルを出してアルバムを作ってしまうという理想的かつ遊興的な「リゾーム状態」で、そのシーンが毎月毎月派生していく様をチェックするのは輸入盤さんに通う愉しみのひとつで、シングル一枚一枚・アルバム一枚一枚への彼らの軽やかさがとても心地よかった。それだけに、音楽的には「ロウ・ファイ」「垂れ流し」「ゴミ」というファン以外の評価もあったわけですが、こうして年数経ったうえでのフリー・キトゥン「での」新作を聴いてみると、かつての音源から印象付けられていた取りとめのなさは後退していて、むしろソニック・ユースがどこかで取りこぼしてきてしまったような音を出すことへの無邪気さ、というのが、ここでは保持されているように思えます。なにもかもが一通り済んでしまっても、なお、彼女らの音は、良い意味での「インディー臭さ」を普通な感じで纏っていて、これはライブで是非浸りたいと思わせてくれました。
さらにいうなら、彼女らを「フェスティバル・ビヨンド・イノセンス」で観たかったですね。