みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

日曜日は無題:エンデ『鏡のなかの鏡』、Loren Mazzacane & Suzanne Langille『Come Night』

nomrakenta2008-03-30


目が覚めたら予報通りの雨。
さすがに今日は瀧道歩きは止めようと思う。

代わりといっては何ですが・・・昨日、百年橋から正の茶屋に抜けようと思って山道に入って、心臓破りの階段を登ったところで遭遇した「半ファウンド・オブジェ
誰かが、棒っ杭の一本一本に花を置いていた。
以前、この山道が斜面から流れる土砂で、半ば以上自然化している、と書いた覚えがありますが、ちゃんと整備されてました。大変な労力だったかと。お疲れ様でございます。


昼に家人がいなかったので、久しぶりに外でラーメンでも食べようと思ってすたこら出てみたらば、市役所通りのラーメン屋は全部外で人待ちが出てきていた。なんと恐るべし。箕面池田線にあった濃い味のラーメン屋が市役所通り沿いに移転して新装開店のイベントを打っているようで、その余波か?というか、いつもこうなのか?ブックオフ前の割と空いていたラーメン屋に入れたが、麺が苦手な細い麺だった。でも接客の女の子がドアの外まで出てきて通りかかった見込み客を「すぐご案内できますから!」と頑張っていて、食事中も「言うのが遅れましたけど、下に荷物がありますから」など、普段ならうるさく思うようなおせっかいを元気に無駄なく満遍なくやっていて、そこはポイントUP。このへんのラーメン屋さんの競争は激しいのだな・・・と、こちらはのほほんと、生ビール小。


その後、ブックオフで立ち読み。デトロイト・メタル・シティを3巻まで読破。

デトロイト・メタル・シティ (2) (JETS COMICS (271))

デトロイト・メタル・シティ (2) (JETS COMICS (271))

・・・おもしろい。しかし主人公「クラウザー」が好きなアーティストがカヒミ・カリイって・・・。微妙に今読むにはずれてる感がするが。
その影響で、帰宅してから、なんかないかとCD棚を漁ったが、メタル方向はもともと手薄で、出てきたのはこれだけでした(・・・笑ってもらうところなんですが、いちおう)。
No Sleep Til Hammersmith

No Sleep Til Hammersmith

デスメタルじゃないけどね。でもレニーは永遠ですし。JOJO広重氏が思い入れたっぷりのレビューを書いておられて、それで聴きたくてたまらず中古屋さんで探してきたのでした。モーターヘッドって確か、ホークウィンドと縁があったような・・・。そしてホークウィンドは、マイケル・ムアコックと・・・。



岩波現代文庫ミヒャエル・エンデ『鏡のなかの鏡』の第一章『許して、ぼくはこれより大きな声でしゃべれない。』を読む。

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

エンデといえば、「果てしない物語」ではなくて、『ネヴァー・エンディング・ストーリー』を観に行ったのは小学生の頃だったなあ・・・。一緒に観に行った友達は、原作を読んでいたようで、観る前から物語についてやエンデの『モモ』について、熱心に話きかせてくれたのだけれど(ほとんど覚えていない)映画を観終わった時は、微妙な反応だった。子供心にも微妙な出来だったよな。しかし、すごい友人だったと思う。今何をしているのやら。
さて、『許して、ぼくはこれより大きな声でしゃべれない。』。わずか7ページの超短編だけれど、けっして溶けない氷を舌のうえで転がすような感触あり。
この『鏡のなかの鏡』の構成は、各短編の最初の一文がそのままタイトルになっているのだけれど、この最初の章の「ぼく」というのは、どうも「ホル」という人物のようなのだけれど、大きな無人の建物の中をさまよい暮らしていることくらいしか、状況的なところは読みとれない。むしろこの話の語り手が、「ぼく」であったり、ところどころで「ホルは」と、三人称に切り替わったりと、ミニマルな構成の中での語り手の問題の掘り下げが、シュールな効果というよりも、簡単に孤独な情景といわせない感じがする。解離性障害を甘美な印象にしているのでは?というのは、この場合興醒めな読みだろう。
下記引用はひどく気になったところ。

いろんな広間やいろんな廊下を毎日のように歩きまわっているのだが、あいかわらずときおりホルは、あちこちさまよっている残響に出くわすことがある。ずっと昔、軽率にもはりあげてしまった叫び声のようなものの、残響だ。
--ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』p.2

これが、どうも単なる比喩ではないような、そんな雰囲気なのである。



昨日のエントリーで、HISATO HIGUCHIのギター即興作『Butterfly Horse Street』に触れたら、 Loren MazzaCane ConnorsのCDもひさしぶりに聴きたくなった。

Come Night

Come Night

これはLoren Mazzacaneのソロではなくて、シンガーSuzanne Langilleとのコラボ作(何作かあるみたいだが、これだけでいい、自分的には)。コナーズのソロではなくてSuzanne Langilleの朗読というか、自縛霊のつぶやきのような歌に、これもNYの地霊のようなコナーズのギターがゆらゆらとまとわりつく。
ギターを演奏しているのではない。震える空気をかろうじて彫刻しているのだ。
とても家族で一緒に聴ける音楽ではない。親しい友人でも無理がある(その理由は最後に書く)。無難に聴こえるのは降霊会くらいだろう。それでも、掬い取れないその空気の底に、情感の沈殿が感じ取れてしまうのだから、手に負えない。
コナーズの他のソロでは、痛みのなかに底なしに沈み込んでいく「耽溺感」がどうしても感じられて、時として受け付けられないことがあるのだけれど、本作は、いちおう「歌伴」的なスタンスも感じられるためか(割り切れる演奏ではもちろんありませんが)何かが中和されているような気がして、そこが気に入っているのかも。
今アマゾンの情報を見たら1998年とあるけれど、手元のCDは1991年。リイシューしたんだろか。リイシュー盤がどうかはわからないけれど、自分が持っている盤のジャケットは、トレーシングペーパーに意匠が印刷されていて、アルバム全体の「幽かな」感じを予想させて、また裏切らない格好になっている。
91年だったかどうかは記憶がないけれど95年くらいまでには、僕は梅田にあった「フォーエヴァーレコーズ」で見つけて買った。その頃「フォーエヴァーレコーズ3メタリック・ワックス店」は、とにかく主流でない(メジャー流通しない)音楽を率先して仕入れていて、何か変わったものを探しにいくなら「フォーエヴァーレコーズ」だった(アメリカ村にタイムボムやアルケミーが出来るのはもっと後のこと)。有名な東瀬戸悟さんが店員をやっておられた頃。東瀬戸さんはひそかに僕の音楽の師匠でした(と、今なら言える人が、結構いるのでは)。その後、そういった興味深い不定形な音楽たちの流れは、「モンド・ミュージック」などといって回収消費の方策がたてられたが、あの頃の「フォーエヴァー3」の棚を埋めていた音楽の印象は、今も僕の中で鮮烈です。
で、そんな中でも、このCDを聴いたときは衝撃だった。こんな音楽があるのかと思った。というよりこんな音楽が存在していいのかと思った。その頃、こいつらこそ「音楽」の極北と思っていた、セバドーやら、キャロライナー・レインボーやら、ハーフ・ジャパニーズやら「音楽以下」「ロウファイ」「スカム」「ジャンク」やらいう細分化されたものが、一気に「ただの心優しい青少年のまともなロック」になった。
当時、友人達と古い、それこそトキワ荘みたいなアパートに部屋を借りて、絵を描いたり、話し込んだりしていて、そこに特に絵を描いたりしない知人も来て、夜中にただぼんやりと過ごしていったりしていた(彼は近所に住んでいた。僕は4駅離れていた)。その時に、買ってきたばかりの本作をボロボロ(でアクリル絵の具で汚れた)CDラジカセでかけたのだった。
多分、こんな音楽がこの世にあることさえ、想像もしなかったろう知人は、最初を抵抗感を示したけれど、その後なぜか神妙になって、黙って帰っていった。僕は、すまないことをしたなあ、と思いつつ、目の前の何も描けていないボードを見つめていた。貧弱な明かりにたらされた真っ白な画面だけ、やけにはっきりと覚えている。
そんな落ちのない夜が、もっとも似合うのだ、このCDは。と今になって思える。