みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

秋なので文学:モーリス・ブランショ『書物の不在』

nomrakenta2007-09-26


今日は涼しいですね。
汗かかなかった日なんて何ヶ月振りなのかと。
頭の中に余裕もできるってもんです。
文学でしょう。ここは。
文学です。

通好みの専門書を出す出版社、月曜社さんから出たモーリス・ブランショ『書物の不在』asin:4901477366という本が書店の棚に並んでいました。確か前もっての予告が月曜社さんのサイトになかったので、えマジ?と多少驚いてしまいました。
実は最近、内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』を遅ればせで読んで、その中のブランショのエピソードが気になって、ちくま学芸文庫の『明かしえぬ共同体』を読んでいたのでまさにグッドタイミングでした(というかブランショ生誕100周年らしいです)。
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『明かしえぬ共同体』は私の浅い頭にはかなり難解ながら、おぼろげに理解したところでは、ブランショがナンシーの『無為の共同体』という著作に影響されながらバタイユの生き方やデュラスの小説を辿ることで読者に想像させてようとする「共同体」とは、通常の理解される社会的構成としての諸力を「内在」させる共同体とは真逆で、通常の社会構成が所々で凸を為しているのだとしたら(イメージでしかない)、それは、凸側からは認識できないような形(しばしば他者の「死」に立ち会う時に感得される無力感のような形)で、凹が輪郭に寄り添うようにしてかぶさっていて(さらにイメージでしかない)、それが自らを語ることもなくまた語り終わる終点もない「明かしえぬ」共同体としてあるのだ、みたいなイメージでした(・・・ずれてるかも)。

この『書物の不在』も、タイトル通り「書物」というまことに魅力的な概念を巡って禅の公案のような独白を繰り広げる思考のスケッチ的な本です。
つまり、論文という程に強固なロジックを隙間無く組み上げているわけでもなく(とはいえある種のテンションは高いです)、短い章立てでアフォリズム風の文章が綴られていきますので、酷暑に疲労した頭にも滋味深く響くんじゃないかと。

書物の不在とは書物の内部性ではないし、たえず問いからすりぬけていく書物の意味でもない。書物の不在とは、書物のうちに閉じ込められていながら、書物の外部にあるものである。
『書物の不在』p.16

とか、

書き始めるとき、わたしたちは始めるわけでも、書いているわけでもない。書くということは、端緒とはそぐわないものなのだ。
『書物の不在』p.32

ですとか、

読むということは、書物のうちに書物の不在を読みとるということだろう。
『書物の不在』p.35

などなど、ここだけ取り出せば「出来すぎ」とも思えるフレーズが何故か納得せずにはおれないような文章の流れには、単純に感銘を受けてしまいます(論理を抽出できない自分の頭の悪さが嫌になります・・・)。

書物に関する断章が冴え渡る前半から、後半は「聖書」を起点にして、「十戒」の石版を経由して「法」というものに話が及び、突然話は宙吊りのまま打ち切られてなんともいえない余韻が残ります。
正直、聖書以降はこちらにキリスト教の素養がゼロのため字面を追うのが精一杯でしたが。

『書物の不在』的なことを卑近な例で考えてみますと、誰でも、ある書物を読む前には、まさにこの本こそ読みたいものだと思っていて、読み終った後には何か違った感じがする、そんな違和感が割りと気のせいでもなく『書物の不在』なのかもしれません。
①人が想像する書物と、②そこで書かれている文章のパフォーマンスと、そして③そこから受け取るものは、本来別個のものなのかもしれません。
それがあたかも一緒であるかのように振舞わせるのが「書物」というものの魅力なのかも。
例えばそんな気持ちにちょっとでもかするものを感じる人ならば、きっと、何をいっているのかさっぱりわからないにも関わらずゴニョゴニョと口ごもるその様子がとても美しい(そして装丁も美しい)この本は、多分一生楽しめるんじゃないかと。そう、思います。

製本がまたとても思い入れのある作りになっていて、赤い上質紙のカバーに本文ページも赤い紙で、洋書でよくみる上製本になってまして背には「blanchot l'absence de livre」と銀箔タイトルが。気合を感じます。
本フェチな心をくすぐります。
月曜社さんのサイトによれば、発売数日でもう版元には在庫がないのだそう。ネット書店か店頭在庫をあたるしかないようです。・・・凄い。
しかもこの本、同社の「叢書・エクリチュールの冒険」の第一回配本ということらしく、今後も楽しみです。