みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ロマンティックな音楽への補遺:崩壊し続ける「新建築」

さすがに3連休明けだけあって、今日は問い合わせに忙殺。
帰社時、梅田の紀伊国屋に辿り着いた頃には頭がくわんくわんしていました。

先日完成した『Mag For Ears』の3号を読みながら、あらためて自分が、自分にとってのロマンやファンタジーを感ずる音楽については隔靴掻痒感から抜けれなかったなあ、と感ずる。それは自分が音楽作品に接して出てくる語彙と強く関係していて、要するにロマンチシズムを感じる作品について書くことを避けてきているようでもある。

リーベスリーダー [DVD]

そんな事が考えつつ月曜に以前買ったDVDで、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン Einstürzende Neubauten*1の最初期の映像を観ていると、虚弱体質でヒトラー・ユーゲントに入れてもらえなかったような若いブリクサの痩せこけて目ばかりギロギロしたのが、己の耳と肉体しか信じていないようなアインハイトやハッケのメタル・パーカッションに身を痙攣させて虚空を見つめて歌う様などは、もはや逆説的でもなんでもなく、とてもロマンチックというしかないんじゃないかと思った。

個人的な事を書きますと、ノイバウテンの一番盛り上がっていた時期は当然世代的に僕よりずっと前だったので、完全に乗り遅れていまして、有名な石井聰互監督による『半分人間』も、つい最近観たばかり。「ノイズ・インダストリアル」と呼ばれていたジャンル自体に疎外感(嫌悪感ではなく)を感じていましたし、それらについて語られる例えば昔の「フールズメイト」なんかの文章は、もう考え過ぎで意味不明なものが多くて、何やら妙におっかないイメージぐらいしかもっていなかったし、音はといえば、シングルの『Yu−Gung』(エイドリアン・シャーウッドがリミックス)と『ペイシェントOTのドローイング』しか聴いていなかったので、特に後者のアルバムについては、わかりやすいものを求めるガキの耳には「????」という感じだったのですけれど、その後イギリスの音楽誌『WIRE』の名物コーナー「めかくしジュークボックス」で、あのヘンリー・ロリンズが『OT』と前作の『コラプス』を褒めまくっているのを知って認識を改めたもんです(そういう人間なんです私は)。

(『ペイシェントOT』は)大好きなんだ。何度となく聴いたよ。レコードで持ってて、すり減っちまうくらい聴いたね。こいつは最初から最後までひざまずいて拝みたくなるくらい完璧なレコードだ。エフェクトのかかったすばらしいヴォーカルが何箇所かに入ってる。

『コラプス』は、俺にとって史上最高のレコードのひとつ。あの荒々しさを聴くと、『ペイシェントOT』がフィル・スペクターにプロデュースされたかのように聴こえてしまう。『コラプス』では、電動ドリル、電気ヤスリ、ギター、鉄パイプ、それにベースの代わりに大きなバネが使われていて、レコード・ジャケットの裏側には、彼らと、これらの楽器がニュルンベルク・ラリーの路上に並べられているのが写ってるんだ。ものすごく強烈なレコードだよ。ブリクサは、トランシーバーを通してひたすら絶叫してヴォーカルをとっているんだ。本当にマジックとしか言いようがない。

『めかくしジュークボックス』p.261

ノイバウテンの場合、わかりやすい「破壊」ということばだけ取り出して、それにロマンを感じてしまうのは非常に他愛のないものではないかと思います。
もちろん初期ノイバウテンのギリギリで切迫した音像は規制のロック美学を破壊しようしたものと、本人達も言っていたようですが、それ以上に「ドイツのバンドは音楽の構造ばかり気にして、歌に関しては苦手だった」というコメントにもありますように、自分たちの(特にブリクサの)「うた」の方向に音楽の組成自体を変えてしまいたい、という語彙構築への志向を感じましたし、実際今のノイバウテンの完成しきった音楽を聴くと、まさにそういう実践的な過程だったのだなあと納得できます。
例えば、

Kollaps

Kollaps

ですとか
Drawings of Patient Ot (Dig)

Drawings of Patient Ot (Dig)

では、ベルリンの気の触れた少年たちが、まさに音楽を一から作り上げようとしている様子が聴けますし(このコメント自体がヘタレおロマンスですが)、どうしようもなく寒々とぶっ壊れた音像の彼方から熱い「うた」がちゃんと聴きとれるかどうかが、リスナーとして分かれ目なのだろう、と最近は思うようになりました。
それが、
1/2 Mensch

1/2 Mensch

などでは、
もはやほとんど音楽言語は完成していて「ロック」として聴きやすいのはもちろん、金属ジャンク・ビートの『Yu−Gung』(「エゴを育てろ」というメッセージを何故か連呼)の張り詰めたテンションはもちろん、『Seele Brennt』や『Letztes Biest (am Himmel)』(天上の最期の獣)では異様な文学性を醸している、のではないのかと。

80年代に、数多のバンドが「ノイズ・インダストリアル」と括られたわけですが、ノイバウテンがいつも消化不良を起こさせたのは、多分、唯一彼らが「文学的」といっていいような表現自体へのロマンチシズムを「うた」でも「おと」でも体現していたからだと、個人的には思います。

自らの方法論を信じて止まなかったノイバウテンは、その実、古典的ともいえる「表現」へのこだわりを、例外的な様相で「新しく建築して」しまったのだなあと思う。新作も遂にリリースのようで。

Alles Wieder Offen

Alles Wieder Offen

もうひとつ、ロリンズも似たようなことを言っているし、サウンドの要を握り「俺はどんな音も聴き逃さないよ」と言い切るFMアインハイトも先のDVDの中で、「俺には何よりも沈黙が大切なんだ」とコメントしているように、ノイバウテンの音楽では、サイレンスや弱い音が、実は耳をつんざく金属ノイズと対置されるくらいに重要な要素となっている。そんな事にも彼らのCDを何枚かちゃんと聴けば、すぐ気付くでしょう。

*1:・・・今さら書くなという感じですが意味は『崩壊する新建築』です。DVDで初めて知ったんですがドイツで『新建築』というのは単に新しい建築物という意味ではなく、第二次世界大戦後に建てられたまさにドイツにとっての「戦後」の象徴だ、との事