さようなら、ブルーマンデー。もしくは単時点的にアウフ・ヴィーダーゼーン?:カート・ヴォネガット『チャンピオンたちの朝食』
カート・ヴォネガットがこの11日に死去した。
なにも、爆笑問題の太田だけがカート・ヴォネガットのファンなのでは、ない(悪意はないよ)。
いつもの事ですが極私的なことから書くと、小学6年か中学1年くらいに『タイタンの妖女』を読んだのが、初めてのヴォネガット体験だったです。
その頃は恥かしながらヒロイック・ファンタジーなんぞ(まいける・むあこっく、とか)を読んでいたので、ヴォネガット作品の味わいというやつは、はっきりいって最初、殆どわけがわからなかった。
だけども、音をたべる生物ハルモニアたちと水星に残る決意をした時のボアズが主人公(というか物語の被害者)アンク/コンスタントに、
「おれはなにもわるいことをしないで、いいことのできる場所を見つけた。おれはいいことをしているのが自分でもわかるし、おれがいいことをしてやってる連中もそれがわかってて、ありったけの心でおれに惚れている。アンク、おれはふるさとを見つけたんだ。」
『タイタンの妖女』p.229
っていうところや、最後の夢の中で
「おれが-このおれが天国へ行けるのか?」
「おれにそのわけを聞くんじゃないぜ、相棒」ストーニイはいった。「だがな、天にいるだれかさんはおまえが気にいっているんだよ」『タイタンの妖女』p.340
とかいったヴォネガット節炸裂の部分ではやはり「うぐっ」と来た(この引用だけでは文脈が伝わりません。是非ご一読を)。
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そして辛辣さを含んだユーモアが作品の根本にあって、「SF的なもの」を目的としないSF小説がありうるのだということを初めて知ったのでもある。
それまではSFやファンタジーというある種の「可能世界」に耽溺することがそういったジャンルの楽しみ方なのだと思っていた(というか、自分にとっては「何が、どうして、こうした」という事を追っていくのが小説への接し方であって、それらの「書かれ方」や作家の「立ち位置」というものを意識することが、全くなかったように思う。筒井康隆と安部公房は別として)。
ところが、ヴォネガットの「可能世界」は、作家の現実世界と遊離しないどころか、愛憎・諦め・義憤・呆れ・皮肉に満ち満ちた眼差し自体が「可能世界」に転化されるとき、それこそ「単時的」-パンクチュアルにあらわれていて、それはむしろ逆説的に、「不可能世界」(不都合世界?)といっていいものになるのである。多分。
要は作家の-ヴォネガット自身のユーモアとかペーソスとか皮肉とかが伝わってくることに面食らったのだと思う。今読み返してみても、すでに決定してしまっている未来を知る語り手が、過去・現在・未来をとびとびにつないでいく独特の書かれ方がそんな皮肉っぽいやさしさの表現と分かちがたいように思えて、愛おしい。
当然のようにヴォネガット中毒となり、すぐに『スローターハウス5』を読み、それと多分同時期にジャリたれ映画「フットルース」でケヴィン・ベーコンが『スローターハウス5』はいい本だ、と言って大人たちからひんしゅくを買うシーンを観て、「あ、そういうカウンターなアイコンなのね」と思ったり(『スローターハウス5』の映画も2000年になってやっと観る機会があった。チープなSF感覚が見事な傑作だった。思うにヴォネガットの書き方は、映画のカットアップと類似性が高いように思うが、ほんとに映像化するとなると大変なのだろうと思うが、この映画はとてもとてもよかった)、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』と読んで、バロウズの「裸のランチ」を読む女が出てきたりするのを確かめ、『猫のゆりかご』を読んであまりのうすら寒さにふるえ、『母なる夜』(ニック・ノルティが熱演した映画化もありました)を読んで、もはや俺はふつうのSFは読めんよな、とかうそぶいてみた(もちろんその後もSFは読んだ、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』って、あれはSFなんだぜ)。『プレイヤーピアノ』はデビュー作で分厚かったけど結構おもしろかったように思う(これを書いている今、コンロン・ナンカロウの『プレイヤーピアノのための習作集』のCDを(Wergo盤。Vol.5。)聴いてます・・・うわ書いちゃった)。
『スラップスティック』と『ジェイルバード』は、今手元にブックオフでも100円で売らないような状態になった文庫があるので、読んだ筈だが、あんまし印象が残っていない。
かなり後になって読んだ中では、『ガラパゴスの箱舟』よりも『タイムクエイク』よりも、『デッドアイディック』が個人的には一番いいかと。
でも、たしかどこかその辺りで、なにかのあとがきで高橋源一郎が「僕はもう、ヴォネガットを読まないだろう」とかなんとか書いているのを読んで、なにか水を差されてしまったような気がしたおぼえがある。そのときまでヴォネガット作品は俺の中では自然にアクティブな小説なのであって、日本の(比較的?)若い世代の作家がヴォネガットに対して持っていた距離感など知るはずもなかった。そんなの俺には関係ないはずだったのに。
でも実は、今でもまざまざと、それを新幹線の中で読み終えたときの、ヴォネガットの徹底的なペーソスの後味に呑まれまくって陶然となっていた感触を思い出せるのは、実はこの『チャンピオンたちの朝食』なのです。
これは2000年(だったかと)にブルース・ウィルス主演で映画化されたが、かなりお話が甘くなっていた(とはいえ、いい映画とは言えた)。
この小説は、2作ほども読めばいいかげん異色慣れするだろうヴォネガットの読者の中でも、好き嫌いが分かれる作品らしい。
というのも、この全編コラージュのような作品(作家のフェルトペンによるイラスト付き)を通して、ヴォネガット(作家自身も作品の中に登場してしまう)の自分が創造した登場人物に対する無慈悲といえるような態度がもはやシニカルという表現では済まされないくらい徹底的に貫かれているからかと。
しかも小説の「語り手」がこれまでは一応「架空の語り手という第三者」だったのが、この作品で、ついに「俺だ。俺が書いてんだよ」と、「語り手=ヴォネガット」とはっきり明示されてしまう。
ヴォネガット自身が冒頭からかなり正直にこう書いている。
わたしは自分の頭の中にあるガラクタのすべてを、取り除こうしているらしい-けつの穴も、国旗も、パンツも。そう-この本の中にはパンツの絵がある。これまでの自分の小説の登場人物も、ついでに外へほうりだすことにした。もう、これ以上人形芝居を続ける気はない。
『チャンピオンたちの朝食』p.18
また、こうも書く。
その男は非常な老人に見えたが、実はまだ三十前後だったかもしれない。彼は考えに考えた。それから、コーラス・ガールのように、足を二度けりあげた。
少年だったわたしの目に、彼はまさしく機械のように見えた。わたしは人間を巨大なゴム製の試験管に見立てることもある。その試験管の中では、ぶくぶく化学反応が起きている。〜(中略)〜
気分が落ち込んだとき、わたしは小さな錠剤を一粒のむ。すると、けろっと陽気になる。
その他いろいろ。
そんなわけで、小説の登場人物を創りだすとき、わたしはある誘惑にかられる。その登場人物をそんなふうな人間にしているのは、配線の欠陥か、でなければ、その日食べた、または食べなかった、微量の化学物質のせいだと、つい書きたくなる。『チャンピオンたちの朝食』p.16
『母なる夜』でも展開された「人間=機械」観で、これにはドレスデン爆撃を体験したヴォネガットの国家なんかに対する諦念と、ギリギリのラインで裏返ってしまった人間愛があるわけだが、しかしこれでは、なんだかんだいって「愛とペーソスのヒューモアマジック」を期待してしまう甘ちゃんな読者(わたし)も興ざめ以前に、ゲンナリとしてしまう可能性がある。
いってみれば、これまで自分の書いてきた世界にウンザリし尽くしたとのっけから宣言し、上のようなドライ極まる世界観でもって、あらゆる登場人物をクソミソというかほんとに無慈悲に扱っていく小説なんです。自分が圧倒的な有利なことにも倦みつかれながら、登場人物たちと「ケリ」をつけるためにだけ書いているような勢いがある。
有名なキルゴア・トラウトなどは最後まで報われず「こてんぱん」(って、いい響きやな)だし、ほとんどの人物が、発狂したもうひとりの主人公ドウェイン(映画ではウィルスが演じた)によって、痛い目にあわされる。
その他いろいろ。
読者にしてみれば、そこまでドライで手の内まで全部ひっくりかえして、「おはなし」っていう約束事まで半分反故にしてくれちゃって、これ全部読み通せとは、一体どうなのよ、ということに当然なるが、この作品を読み終わったとき感じたのは、実は、壮絶な誠実さだった。
この作品の、掟やぶりなところはポップ小説として理解できんこともないとしても、それでも残ってしまう、ある種の「ひっかかり」が、ヴォネガットに長い間飽きなかった動機になっていると、今になって、思うわけです。
それはそれとして、この作品にはとても好きなシーンがあって、それは物語のハイライトといっていえなくもないシーン。
小説の舞台となるミッドランド・シティで開催されるアートフェスティバルに招かれたモダンアートの画家ラボー・カラベキアンが、カクテル・ラウンジで地元の有名人をくさして、ウェートレスの逆鱗に触れ、自分の絵を「5歳の子供でも書ける」と地元民の公衆の面前で糾弾されるところがある(もちろん周囲の無意識にはそれを期待する空気が充満している)。
その絵というのは、「聖アントニーの誘惑」というものすごい題で、
幅二十フィート、高さ十六フィートだった。地は<ハワイアン・アボガド>で塗りつぶされていた。ペンシルヴェニア州ヘラータウンのオヘア・ペイント会社で作っている緑色をした壁用塗料である。縦に入った一本の線は、オレンジ色をしたデイグローの蛍光反射テープだった。この絵は、建物や墓石は別にして、また、古い黒人ハイスクールの前にあるエイブラハム・リンカーンの銅像は別にして、いちばん値段の高い美術品だった。この絵がいくらについたかは、一つのスキャンダルだった。
〜(中略)〜
ミッドランド・シティはあきれはてた。わたしもだ。(p.262)
という表現からも察しがつくように、多分にアメリカ抽象表現主義の、とりわけその後のミニマルアートの呼び水になったようなバーネット・ニューマン・タイプの「冷たい抽象」絵画を念頭において、さらにカリカチュアしたような作品と思われます。
Barnett Newman: A Catalogue Raisonné
- 作者: Richard Shiff,Carol Mancusi-Ungaro,Heidi Colsman-Freyberger
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「聞きたまえ-」と彼はいとも平静にいった。「ぼくはこの町のすばらしい新聞で、ぼくの絵を攻撃した社説を拝読した。また、諸君が親切にもニューヨークまで送ってくださった多数のいやがらせの手紙も、一字一句あまさず読ませてもらった」〜(中略)〜
「あの絵は、ぼくがそれを描くまで存在していなかった」カラベキアンはつづけた。「いまそれが存在している以上、この町のすべての五歳児が、何度も何度もそれを複製し、そして改良を加えてくれるなら、ぼくにとってこれ以上の幸福はない。〜(中略)〜ぼくの名誉に賭けて誓おう。諸君の町が買い上げたあの絵は、人生の中で本当に重要なものを、なに一つあまさず表現している。あれはあらゆる動物の意識を描いた絵だ。あらゆる動物の非物質的な中核-すべてのメッセージがそこに送り込まれるところの“わたしは存在する”の絵だ。それだけがわれわれの中で生きている全てなんだ-ネズミの中でも、鹿の中でも、カクテル・ウェートレスの中でも。それは、どんな途方もない冒険がわれわれの身にふりかかろうと、揺るがずに純粋なままでいる。聖アントニーを神聖な絵にすれば、それは一本の、直立した、揺るがぬ光の帯だ。もし、ゴキブリが彼のそばにいたなら、それともカクテル・ウェートレスがいたなら、その絵には二本のそうした帯が表現されるだろう。われわれの意識は、だれの中でもただひとつ生きているもの、そしてたぶん、ただ一つ神聖なものだ。それ以外のあらゆるものは、死んだ機械にすぎない。
いまさっき、ぼくはここにいるカクテル・ウェートレス、この直立した光の帯から、彼女の夫と、シェパーズタウンで死刑になる直前の白痴についての話を聞いた。よろしい-五歳の子供に、その出会いの聖なる解釈を描かせようじゃないか。その五歳児に、愚かさや、鉄格子や、待ち受ける電気椅子や、看守の制服や、看守の銃や、看守の肉と骨を、すべて剥ぎとらせようじゃないか。どんな五歳児でも描ける、その完全な絵はどういうものか?二本の揺るがぬ光の帯だ」
『チャンピオンたちの朝食』p.278-279
今読むと多少出来すぎ感があるかもですが、「人間は機械だ」とうそぶかずはおれなかったヴォネガットのタールのような諦念に、それこそオールオーヴァーに塗り尽くされた小説のフィールドの中、この台詞だけがかろうじて穿たれた通風孔ように感じた。
ヴォネガットがこの本を出したのは1973年。アメリカ現代美術はポップアートさえ経験してまさに百花繚乱だった。と、同時にヴォネガットはひらたくいえば自分の世代の芸術感が時代遅れになっていくような、でもそれだけでは済まされないような予感も持っていたのではないかと思えもする。この小説自体が、アメリカへの不信と、報われない人への同情で出来た、ひとつのアッサンブラージュ(寄せ集め)作品のように感じれないこともない。
もしかしたら、もし彼らが掲げるアートのどれもが、嘘でもいいから、自分のつくりだしたラボー・カラベキアンの演説のような精神性をもっているのだとしたなら、自分は小説を書くのをやめてもいいのかもしれない、とヴォネガットは思ったのかもしれない、というのは完全に僕の勝手な妄想・希望のたぐいですが。
この後随分経ってから、ヴォネガットは、今度は、このラボー・カラベキアンを主人公に据えて『青ひげ』という作品を書いている。
今日はちゃんと文章になってなかったかも(いつも?)。正直にいえば、随分前から、わかってはいたけれど、もう新しい小説は読めないんだね。
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