みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ポール・モチアン・トリオ『タイム・アンド・タイム・アゲイン』と佐藤優『国家と神とマルクス』

nomrakenta2007-04-25


本日は口座振替の契約計上の〆日。しかもGWに始期がかかる契約も26日までに計上しなければならないという規定と、GW前に仕事を片しておきたいという事務職のかたがたの思惑が交差し、電話殺到。中には保険料をいくらにしたらいいのかと訊いて来る代理店までいて驚く。
最後にヤフオクで入札していたものをチェックすると、DVDのボックスの値が5000円くらい吊りあがってしまったので、アホらしくなって降りる。これでは近所のブックオフの値段より高い。梅田の紀伊国屋前のスタンドで生ビールを飲むくだすと、喉から胃にかけての不快感が解消。浮いたお金で気になっていた本を数冊購入。箕面駅に着くとどっと疲れているのがわかる。

今週は帰宅してもどうも落ち着けず音楽を聴くことに注力できずで、CDトレイにはずっとビル・エヴァンス・トリオなんかがのったまま。それをかけたまま、スコット・ラ・ファロのベースがうねるのを聴きながらいつの間にか眠ってしまう生活でした。
今日はとりあえず一山越えたような気がするので、先週末に買っていたポール・モチアン・トリオのCDを聴いてみた。
ビル・エヴァンス・トリオのドラマーだったモチアンと、ギターのビル・フルゼール、テナーのジョー・ロヴァーノのトリオ。
10年以上前に出た同じトリオでの『サウンド・オブ・ラブ』をよく聴いていた。
今回もはずれは無くて、ふわっとしたシルク地の気体を思わす演奏で、しかしとりとめないわけではなくて、その空気のかたまりはメロディーの形をしている。それをギターとサックスが交互にしっとりとした残響でもって、点描的演奏で補いあっていくような印象を持った。
まったりと聴き流せるのかといえば、そうでもなく、絶えず不穏さのあるゆらゆらしたムードなんだけども、ロヴァーノのサックスの音色はあたたかくて文句ないし、フリゼールのギターもソロ作よりむしろ満喫できるかもしれない。作曲を手がけるモチアンのドラムはというと、背景に引っ込んだ気配のような演奏で、ビートを刻んで曲を進めるのではなくて、全体をブラッシングして伸縮性を与えているような感じ。
モチアンの書く曲はどこかモンクの曲に似ているような気がする。

Sound of Love

Sound of Love

帰りの電車の中で読んでいた佐藤優の『国家と神とマルクス』は、前半部分に以前の著作で出てきたフレーズの繰り返しが多いものの、後半の対談はいきおいがあっておもしろい。

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

貪欲な「読書人」としての資質と要約・編集能力は、松岡正剛に通じるものがあるような気がします(・・・というか「インテリ」とはそういうものなのかも)。

国家の暴力性に対して、効果的に対抗できるのは人間のコミュニケーション的行為、それも発話主体の性格について相互に認識できるような小規模のコミュニケーション空間だと思う。顔が見える範囲が限度だと思う。それを超えると、対抗運動にも類似した暴力性が出てくると思います。

佐藤優『国家と神とマルクス』p.206

これなどは、最近、反グローバリズム界隈でメキシコのサパティスタの在り方を経由しながら「自律性」を主張する人たちの見解とも共通しているように思えるのが不思議。

 私は新自由主義に対する違和感がとても強いのですけれど、伝統的自由主義愚行権はとても重要と考えます。各人は、他者や社会全体から見て、愚かな行動をする自由をもちます。愚行権の唯一の例外は他者危害排除の原則です。愚かなことをしてもいい。ただし他人の愚かなことも認めると。多少、迷惑をかけられてもそれは甘受する。ただ、唯一駄目なのは他者に危害を加えることです。この他者危害の範囲をできるだけ狭めることが、国家の暴力性を暴発させない担保になる。

 同p.206

短絡的に解釈すると、佐藤優の考える日本の特性の中で、唯一あってはならないのは、他者を許容しない原理主義的な態度、ということになるのか。10年前くらいまでの日本が原理主義的な視野狭窄もない形で「寛容」だったのかといえば疑問だし、個人的にはたた無防備だった気もする。佐藤優がいうような「不寛容」の払拭には、当然、絶え間ない自分の防備のボトムアップと、他者に対する「お勉強」と思考の積み上げが必要なのでは、ある。