A&B・ストルガツキイ『みにくい白鳥』を読む。
雨の専制帝国/腐りはてた大人たち−子供の反乱
これは、A・タルコフスキーの映画『ストーカー』の原作者として有名なロシアのSF兄弟、アルカージイ&ボリス・ストルガツキイの『みにくい白鳥』asin:4905821347の帯の惹句です。
1966年〜67年の間に書かれたが、ソヴィエト政府によって国内では最後まで出版禁止の憂き目に合って、1987年にやっとラトビアの文芸雑誌に発表されたという小説。しかも発表時のタイトルは『雨季』で「みにくい白鳥」は副題だったと。
先日、佐藤優の『自壊する帝国』を読んでいたら80年代後半からラトビアでは、ソ連旧体制への批判活動が文芸界でも一気に爆発する様子が書いてあったように思うので、その辺りの状況でこの小説も日の目を見たのかな、と想像してみたり。
帯には「子供の反乱」と書いてありますが、内容は対等な敵対関係を連想させる「反乱」という言葉よりも、一地方都市の堕落した大人たちの世界が、新人類である早熟な子供たちによって見捨てられていく様子を、これも酒と女をどうにもやめられない大人である流行作家の視点から数日間のスパンで切り取ったもの。
とにかく降りっ放しの長雨でまるで都市が溶け出しそうな作品世界は、大好きなレイ・ブラッドベリの短編『長雨』にもリンクするような印象。長雨世界で退廃する市民たちと対照的に存在感を増していくのが、論理的で聡明な子供たちと、その子供たちの信頼を集める<濡れ男>たちで、この<濡れ男>たちは、皆溶け出した皮膚を黒い包帯でぐるぐる巻きにしていて、市民からは新種の疫病患者と噂され忌避されながら軍の収容施設に隔離されている「ことになっている」のだが実は・・・というのが、この小説の「仕掛け」。
実は<濡れ男>が、長雨の異常気象や子供達の早熟ぶり、そして軍にも大きく関わっていることが進行につれて明らかになってきます。
子供たちと<濡れ男>たちの関係は、もちろん「ハーメルンの笛吹き」を意識的に「間テクスト」として連想させている。
主人公ヴィクトルの悪態まじりの思考はブコウスキーばりだし、前半の市民の退廃ぶりや、延々と続くようでいて的確に話を進める妙に理屈っぽい会話には、読んでいる間中、ウェルベックの『素粒子』の前半部分がチラつきました。
この作品が、特に派手な道具立てもないのに、単純な「反乱もの」にならずに、最後まで読まずにはおれなくさせている理由があるとすれば、物語の中盤以降、読者に「この世界はほんとうは見た目とちがうのでは?」という疑念を植えつけることに成功しているからではないかと。特に下のような会話がちらちらと要所要所に挟まっているので、だれずに一気に読み通せました。
「恐ろしい病気だな」ヴィクトルは言った。「僕は・・・・・・いずれにせよ分からない・・・・・・全く分からない。何で賢明な人間たちを有刺鉄線の中に閉じ込めておくのか分からない?(ママ)それに、どうして彼らは出られるのに、彼らの所に入ることはできないのか?・・・・・・」
「でも、ひょっとしたら、有刺鉄線の中に閉じ込められているのは彼らではなく、あなたなのかもしれませんよ」アルカージイ&ボリス・ストルガツキイの『みにくい白鳥』p.213
では、単純に新人類が旧人類をうち捨てていく話なのかといえば、旧世界の成功者である小説家が主人公となって架橋していることで、読後感はけっこう複雑な味のあるものに。
主人公ヴィクトルが、朝起きると身体中に斑点が出ていて、窮地を<濡れ男>に助けてもらい、その新しい世界について教えてもらっていたにも関わらず「うわ、俺もついに<濡れ男>か?」とパニックを起こした次の瞬間、単なるイチゴの食べ過ぎによるアレルギーと判明したとき、安堵すると同時に何か「巨大な可能性を失った」ような気になるシーンなどは、皮肉ながら強烈な説得力があります。
この説得力を出現させるために、この小説は書かれているといってもいいのかもしれない。
そうそう、感触としては安部公房の『第四間氷期』に一番ちかいのかも。
旧ソ連という設定なしでは機能しない話しのモジュールも散見できますが、なにより濃密な「おはなし」になっているし、ひっきりなしに雨が降る異常な気象の世界なんかは、『不都合な真実』と合わせてどうでしょう。