みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

[和書]読書中:クリスアンダーソン『ロングテール』3 WEB検索は辞書の頁上でのキノコと音楽の偶然の出会いのように美しいか

まだ読んでます。

ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略

ロングテール―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略

特に「前置フィルタと後置フィルタ」のくだりを読んで、だからどうしたという部分に、あえて、つまづいてみました。
「キノコの音楽家」であり、相当なキノコ通(クイズ番組にも出演)だったジョン・ケージがそもそもキノコ好きになった理由を冗談めかして語った有名な台詞
「辞書でMUSICの一つ前がMUSHROOMだったから」*1
音楽を、不確定性という広い庭に連れ出して、偶然性という風通しの良い場所に置いたことになっているケージとして、あんまりわかりやすいので、後になって考えた話かもしれない。話半分にしとくのがいいのだとは思うけれども、もしかして今やつまらない以前に下手な冗談としても通じないものになりつつあるんではという危惧が。
というのも最近こんな番組をみたからで、それはNHKの特集で、うろおぼえだが「WEB2.0は本当に便利か」というありがちな趣旨のもので、WEB検索に対置して、旧いメディアである辞書をひくという行為の持つ長所を芥川賞作家の町田康にきく、というもので、そこで町田康は、自分が辞書派である理由は、同じページの全然関係のない単語に目がいき、それは新しい言葉=新しい世界の発見になるから、というような意味ことをしゃべっていた。
WEB2.0を検索エンジンだけの話にしてしまっていいのか、また「言葉の剰余で生きる」かなり特殊な職業人である小説家が、現実問題としての「検索の有効性」を語るに適役なのかも僕には全くわかりません。ただ、これはただの文学者のスノッブで安易なレトロ・バックラッシュではなくてもっと微妙な問題でもあるんじゃないかと。
この検索万能時代に、分厚く重い辞書をわざわざ引くというレトロな手法をとる意味が、ビブリオマニア(書痴)以外に何かあるのかと問われたら、少なくとも僕には即答はできません。
一般的に検索者は、その語がどんな意味であり、どんなカテゴリ、タグそして活用を持つのかが、ピンポイントで知りたいのであって、そこから新しい関連が芋づる式にでてくるのは大歓迎だとしても、ケージや町田康が言うような寄り道や偶然の発見は、暇なときにやるべきものであって、検索という行為おいては邪道だ、といわれれば、それはその通りだとは思う。それにWEBなら古くなった情報は改版を待たずにすぐ書き換えられるし、新しい単語は適時追加できるのだから即効性と経済的という意味では信頼できるというのも、それもそうだと。
ちなみにクリス・アンダーソンによれば、GoogleやAmazonのカテゴリ機能である「フィルタ」がユーザーにとってのS/N比(Signal to Noise ratio)の整理を行い、ノイズとなってしまう情報を前もって排除し望みの商品への到達を容易にしてくれるし、特にAmazonにおいては、おなじみの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」機能があり、ちょっとおせっかいだが、世界をさらに広げてくれはする。だから、WEBでの検索に、偶然の出会いが無いといったとしたら、それは間違っている。
また、Googleでは、誤入力しやすい綴りのデータベースがちゃんとあるのか、綴りの近似値を検索しているのか、詳しくはよくわからないが、たとえば「schizophernia」*2とあやふやな記憶で入力すれば、ちゃんと「もしかして: schizophrenia 」という正規の綴りでの検索をナビゲーションしてくれる。ここまでくれば、神林長平の言語SF*3『言壷』ISBN:412002380X「ワーカム」(ワーカムは入力間違いの訂正だけでなく、使用者の思考を読んで、「創作」までしてくれる)までほとんどあと一歩なんじゃないだろうか、とさえ思う。
これらに代表される機能の総体がすでに回収・整理・確立された「後置(ポスト)フィルタ」(反対にレコード会社、映画製作会社は、リリース前の段階でコンテンツを吟味するため、「前置(プレ)フィルタ」とされる)であることは確かで、これこそが集積者=アグリゲータ帝国(あ、やっぱり言っちゃった)の寡占性を保証する絶対的なインフラであることはいうまでも無い。
でもそこから自然に漏れてしまうような動きが、無意味であるとも思えない。
しかしそもそも検索という行為は、あらかじめ何を検索するのかわかっていなくてはできないし、検索エンジンを使うなら、あらかじめ「何を検索するのか」少なくとも検索窓に打ち込む言葉は自分で考えてもらわなくてはならない。重ねてそもそも、そんなことから考えていてはまともな生活は送れなさそうだ。検索することを避けて生きてはいけない。正確な意味の欠乏は真空状態かもしくは未開状態に等しい。

例えば、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』でいえば、「音楽」と検索してみると、検索結果の1ページ目はこんな感じになる。まあ、こんなもんでしょう。「音楽」という言葉の正確なところから、多岐にわたるサブジャンルまで、ほぼ入り口としてほぼ不満な点はあろうはずもない。でもここから「キノコ」に出会うのは不可能に近い。そのためには少なくとも「実験音楽ジョン・ケージ」としなければ、別の系に属するキノコに出会うことはない。
また、指向性の強い辞書ツールとは違って、語と語の関連性をアルゴリズムに含みこんで検索するGoogleで、「キノコ 音楽」とすると、少なくとも現時点では、「X51.ORG : 音楽はキノコより生まれり チェコ」というページがヒットし、ジョン・ケージという名前に出会うことができる。
しかしこれは、もちろん「キノコ 音楽」の連関の中にジョン・ケージの名があることを、あらかじめ検索者が知っていての話。冒頭の「辞書でMUSICの一つ前がMUSHROOMだったから」というチャンス・ミーティング的な現象ではありえない。
フィルタ機能そのものが、検索の指向性を前提としているし、その機能の中で演出される偶然の出会いは、例えばAmazonのおすすめ一覧へのヒット商品のいきなりの闖入(反応のデータベースを収集している)や、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を通してであるように、アグリゲータのマーケティング戦略と検索アルゴリズムに委ねられている。つまり、過去の膨大な知識の集積である「後置フィルタ」は、そもそも演繹法的色彩が濃いということではないだろうか。
辞書だって編纂者の手による網の上での予想できる「偶然」じゃないか、というなら確かにそうなのかもしれないが、少なくとも、何も考えずに辞書のページを開いてみる、という荒業が可能だ。反対にWEBの検索ではこれはありえない(Yahoo!やRSSリーダーはまた別とさせてください・・・)。
そもそもノイズや偶然が不要なのだという意見にはうすら寒いものを感じるし、冒頭のケージの冗句のような、同じページに互いに無関係な言葉を発見し興味にまかせてランダムに「跳ぶ」ような体験は一体どこで補完できるんだろうか、ということを考えると、結局、代用不可という極めて普通なオチがついてしまいそうなので、この辺りで止めておこうかと。

Obras De John Cage

Obras De John Cage

バロック期の作曲家フレスコバルディの曲と20世紀アメリカのジョン・ケージの「44のハーモニー」から選曲を交互に挟み込んで、アコーディオントロンボーンというおもしろい取り合わせで編曲・演奏。どっとがどっちか聴いているだけではわからないところもあるが、ため息が出る程ゆるやかで柔らかな楽音と静寂の見事なバランスが最後まで続く。

何も共有していない者たちの共同体

何も共有していない者たちの共同体

「すべてのクズ共のために」という帯の惹句が素晴らしすぎる。まさか、ブルーハーツか?
哲学論文というよりも奇跡的に言語定着した哲学的思弁といった趣きで、特に「世界のざわめき」の章で書いていることは、ノイズとフィルターの話に通じているようで興味深い。

*1:ちなみに手元のジーニアス英和辞典改訂版p.1176には、MushroomとMusicの間には、形容詞のMushy(柔らかな、(けなして)感傷的な、涙もろい)が挟まっている。これは何かを意味しているのでしょうかか?(いやそれこそ偶然だが、そう想像してみたいのです。)

*2:そもそもなんでこの単語かというと「書痴」を、最初「biblophrenia」という単語があるかと思って確認のため検索してみたがなかったので「phernia」つながりでどうかと思ったのだ。正確にはビブリオマニア(bibliomania)でした。

*3:言語SF、というジャンルがあるようです。山田正紀の「神狩り」や森岡浩之「夢の樹が接げたなら」など?