みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

素晴らしいアフォリスムの豊かなばらまき、それと即興からの距離:ギャビン・ブライヤーズ初期実験音楽集:Gavin Bryars『The Marvellous Aphorism of Gavin Bryars The Early Years』

nomrakenta2008-02-03


現代音楽ですとか実験音楽というのは、基本的に前世紀にその役目を終えた、みたいな位置づけが優勢というか常識であって、ノスタルジー以外の目的で、「なぜあんたはそういう類の音楽を聴くのか」と時々訊ねられることがありますが、そういうときは、詩人の小笠原鳥類氏が「いん/あうと」で書いていた文章のなかの「詩」や「言語」といった言葉を「音楽」あるいは「音」と置換したような意味のことを言ってみることにしています。

なぜ詩を読むのか。という問いに対してはいろいろな答えがあるだろうけれど、答えの1つとして「変な言葉を読みたいから」があると思う。変な語彙、変な文法、変な文章が次々に登場するのを見たいのである。そこで面白い面白い、楽しい、ということを言いたいのである。特徴のある言語が、奇妙な装飾の多い置物のように、あるいは怪物のように、そこにあるのを見て喜んでいたい、ということである。まともでまっすぐな言語ばかりが集められた詩集を読んでも、そういう喜びはない。独特な、特徴のある言語、そこで何かが起こっているということを感じさせる言語を、重視したいのである。

--小笠原鳥類【過剰に大量にいろいろなことが起こっているので、白い詩集】
http://po-m.com/inout/id135.htm

それだと、ただのキワモノ趣味では、と早合点されそうになると、そうではなくて、ほんとうはありえないのだけれど、音がそれ自体で説明不要のおもしろさを十全に備えているさまをいつも聴きたいと思っているのです、それが割と現代音楽実験音楽には多いような気がするのです、と云い濁すことにしています。
それともうひとつ、大学の頃に読んだマイケル・ナイマンの『実験音楽 ケージとその後』(椎名亮輔氏訳、数年前遂に本に署名を頂きました)という本。これが装丁も含めてあまりにも刺激的で、その雰囲気実像を少しでも知りたくて典型的な後追いリスナーになっていった、ということもあります。当時(1990〜94)はまだパルコ文化、のようなものの残り香があったように思います。

英国の作曲家ギャビン・ブライヤーズについては、青山真治の『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』において印象的に使われた『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』(1971年)についてのエントリーで書いた覚えがあります。
ブライヤーズで最も有名なのは『タイタニック号の沈没』だったそうですが、少なくとも自分にとってはブライヤーズは、感動的な『イエスの血は決して私を見捨てたことはない』(トム・ウェイツは年老いた浮浪者が歌うオリジナルバージョンを深夜ラジオで聴いて号泣、1993年の同曲リメイクでのボーカル参加を熱望したらしいです)の作曲家として、それと、作曲家として本格的活動する以前の1960年代にデレク・ベイリー、トニー・オクスリーらと組んでいた世界初のフリー・インプロヴィゼーション・トリオ「Joseph Holbrooke」での活動、このふたつが個人的な関心ごとでした。

『イエスの血・・・』http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20060206
『エリ・エリ・レマ・・・』http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20060204
『Joseph Holbrooke』http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20060411
http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20060419

Marvellous Aphorisms of Gavin Bryars - The Early Years

Marvellous Aphorisms of Gavin Bryars - The Early Years

昨年MODEから遂にお蔵出しされた本作『The Marvellous Aphorism of Gavin Bryars The Early Years』は、ブライヤーズが実験音楽の作曲家として作品を発表し始めた1970年とその翌年の71年の間の4つ作品の音源から構成されています。お蔵出し・・・と、書いて確認したら、Ulrich KriegerとSeth Joselが中心になって行った再演でした。しかも初録音の作品が二つ。
ちなみに冒頭の『イエスの血・・・』もオリジナルは1971年なので時期的にはまさに同時期。しかも興味深いことに、ループ手法を駆使しながら極めてシステマティックで、作品の「基底材」がしっかりした(というか基底材が音楽作品となる)『イエスの血・・・』と真逆に、本CD収録の4作品は、モンティ・パイソンの如き(って、あんまり知らないのですが)ナンセンスなパワーで、音楽の素地を「脱臼」させていく(ように聴こえる)。そのためのプログラムとしての「作曲行為」。ブライヤーズが参加していたポーツマスシンフォニアも斯くやと言わんばかりの、いってしまえばフルクサス風味満載なCDとなっています。

1. The Squirrel And the Ricketty-Racketty Bridge(1970年)
これは当時自身の「Incus」レーベルを開始したところで、レーベル第二弾として片面「即興」そして片面に「作曲」を収めたいと考えていたデレク・ベイリーのために書かれた作品とのことです。演奏方法がかなり突飛なもので「ひとりのギタリストが同時にふたつのギターを演奏するための作品。しかもそのギターは2本ともギタリスト自身の背中に水平に付けられているので、ギタリストはキーボードプレイヤーが一本の指で二つの音を弾くときのハンマー奏法を持ちいることになる」となっていて、ちょっと演奏風景が想像しにくい。音楽的には、演奏方法からくる「たどたどしさ」自体を作品の構造に盛り込んでいつつ、Incusからリリースされる即興演奏っぽくもある(当然か)。1972年クイーンエリザベスホールでのブライヤーズ作品の上演会でも、『タイタニック』『イエスの血・・・』と共に二人バージョン(ベイリー+ティルベリー)で演奏されたのだとか。当時はさんざんな酷評だったらしいですが・・・聴いてみたいですねえ。

2. Pre-Mediaeval Metrics(1970年)
世界初録音、とのこと。ライナーにこの作品の「スコア」の1頁目の写真がありますが、4列の段落に、点と短い線がランダムに並んでるだけで、それだけみていると、何かのミニマルアートみたい。音も、なるほど、点の部分は複数の楽器による単発的なユニゾンで、短い線は「ぶーん」とこれもユニゾンで伸ばす部分に対応している。この「ぼンぼン、」と「ぶーん」がランダム(に聴こえる)に展開されて時折「ぼンぼンぶーん」が「ぼンぼぼぶぶーん、ボッ」と聴こえたりする。楽器の変成はまったく自由らしく、ここではサクソフォン3種とトムトム、エレクトリックギターと12弦ギター、それからベースが使用されているのですが、制約として「どんな楽器を使ってもよい、ただし各楽器はそれぞれ<ひとつの音>しか出してはいけない」というのがあるので、単調さが担保され「音楽的な展開」から逃れている、といった感じです。

3. Made In Hong Kong(1970年)
これは「おもちゃの楽器」を使う作品。当然淵源にはケージの「トイピアノのための組曲」なんかがある模様。なぜ「香港製」なのかというと、ちゃんとした説明がライナーに書いてありまして、1997年まで英国領だった香港は、あらゆる世代の英国の子供のためのおもちゃの生産地でもあったのだとか。「香港製」は時として「帝国製」となり、ながらくチープさといらいらするくらい短命なおもちゃとしてのクオリティの代名詞だったのだとか。
「上演」に対しての指示としては、

  1. 楽器は、自動・手動、目的が楽器としてであろうとなかろうと「おもちゃ」を使用する。
  2. 演奏時間は時計に準ずる
  3. 重奏・互いの役割交換は自由。
  4. できるだけ多くのまたバラエティーに富んだおもちゃを用意すること。
  5. おもちゃはその所有者たる子供の同意を得、またなぜその特定のおもちゃを使用したいのかを所有者たる子供に十分に説明し得たときのみ、借用できることとする。

なかでも最後の5.の指示が一番素晴らしいと思いますが・・・かわいさあまってダダ百倍・・・といった感じでしょうか。世界初録音。

4. 1,2 1-2-3-4(1970年)
イーノの「オブスキュア」シリーズに入っていたらしいですが、見たことがありません。CDは無いのかも。以下は『実験音楽』からのこの作品の説明です。

各楽器奏者たちは、自分自身のカセット・テープ・レコーダーを持っていて、それをヘッドフォンで聴く。それぞれのテープには、街でよく聞かれる音楽のいくつか、主に、ポップスとジャズのスタンダード・ナンバー(どんなジャンルのヴァージョンでもよいのだが)が、入っている。その各テープの音楽は、与えられたスピードで始まり、徐々に遅くなり、一つの和音コードにまでなってしまうこともある。各奏者(テープに入っているものを、ちょっと知っているだけという者もあれば、ヘッドフォンを聴きながら何週間も練習したという者もいるだろう)は、テープから聞こえてくるものにできるだけ基づいて演奏する―バス奏者は、バスのパートを取り出し、トランペット奏者は、トランペット・パートを取り出す、等。各テープの最後の和音は、異なっており、奏者が演奏する音は、それに基づいたものである。しかし、彼が演奏しているものは、異なった(構成の)和音の一部であり、聞こえてくる和音に異なった和音を、「演奏者が自分が演奏していると信じているものと、彼の演奏として聞こえるものとの間の、異名同音的な最に由来する、奇妙なイントネーションを伴って」、付け加えるものである。

--マイケル・ナイマン実験音楽 ケージとその後』p.180

ここではビートルズのメドレーを演奏。「合奏」なのか「非合奏」なのか。意図された統一のなさは、聴者に「原曲」を補いつつ聴くという参加を要請します。
Help/Helter Skelter/Glass Onion/Fixing a Hole/I Want You/A Day In a Life/Sexy Sadie/Good Night
おもしろいのは「HelterSkelter」が一番「原曲」らしく聴こえてしまうところ。原曲もギターフィードバックが特色の歪みきったナンバーですから、各楽器が少々ずれていても「原型」を保っています(笑)。
音響面から言えば、コンセプチュアルなディシプリンをかけたもの、と解釈できそうですが、どれも、一聴しておもわず吹き出してしまいそうなオマヌケぶりの裏に、それでは済まされない音楽への諧謔的なスタンスがあることに気付きます(それは多分に「政治的」なものだったかもしれませんが)。
この頃のブライヤーズの作品で、こういうものもあります。
タイトルは『素晴らしきアフォリスムが、これらの頁を通じて、豊かにばらまかれている』(1969年、『タイタニック号の沈没』と同年です)

いかなる数の、いかなる種類の静かな音源でもよい
[それは]その動きや操作が、観衆の視線に触れないように、
衣服の内側に隠されている。
[例えば]靴・帽子・コート・ズボンの内側に。
[そこは]膨れ上がって見えるだろうが、[音は]静かなぶんぶんいう音である。
無用な情報の底のない鉱坑。
第一に、それは、ハーポ・マルクスのようであった。
ジョンには、それが、公演のベンチに座っている一人の老人のように見えた。
私には、それが、詩人たちの間にいて、素晴らしいアフォリスムを常に探している、
一人の貴公子のように見えた。


―ギャビン・ブライヤーズ:Marvellous Aphorisms Are Scattered Richly Throughout These Pages.『素晴らしきアフォリスムが、これらの頁を通じて、豊かにばらまかれている』
マイケル・ナイマン実験音楽 ケージとその後』p.184より

本CDのジャケ写の異様な風貌のブライヤーズは、まさにこの『素晴らしきアフォリスムが、これらの頁を通じて、豊かにばらまかれている』を実演しているものかと思われます。また本CDのタイトル『Marvellous Aphorism(素晴らしきアフォリスム)』の出典もこの作品のようなので、この作品が含まれないのは少し残念ですが、説明によるとパフォーマンス色が強いようで、収録はかなり難しかったのでしょう。


1970年代からのブライヤーズが、なぜ「即興」を捨てて現代音楽の、しかも因習破壊的な実験音楽へとシフトしていったのか、その辺りがとてもおもしろいので、ちょっと書きます。
旧友デレク・ベイリーの著書『インプロヴィゼーション』に収められた当時を振り返るインタビューの中で、ブライヤーズはあるベース奏者(ブライヤーズもまたスコット・ラ・ファロに影響を受けたベース奏者でした)があきらかに自分が何をしているか全く自覚することなく「ノリノリ」で演奏している様子があまりにも道化ていて、それに幻滅してまったくベースを弾かなくなった、と回想します。

一九六七、八年ごろロンドンに復帰し、ライブ・エレクトロニクスなどで何度か演奏に参加したが、そのころはインプロヴィゼーションに対して思想的にますます反撥を感じるようになっていた。行きどまりとしかおもえなかったんだ。自分がもちこんだものしかえられない感じがした。
〜(引用者による中略)〜
グループといえどもパートの集合以下のことしかできなかったとおもう。しかも、自分が演奏していたまわりの状況を超越しようとしても、それは不可能だった。
反面、作曲ならそれができることに気付いたのだ。かぎられ、きめられたパフォーマンスの時間内ではけっして到達できなかった概念に、作曲でなら行きつくことができた。作曲ほどの概念の域に即興演奏で達しえたためしがないんだ。問題は私自身にあったのかもしれないが、そうだとしたら、私はそれを即興演奏のせいにしていたことになる。即興演奏の場合、道具や武器弾薬をたくさん開発しておいて、それを使う。順序に変化をつけることはあっても、自分のやれることに制約されてしまう。

--デレク・ベイリーインプロヴィゼーション』p.235

ここでの「即興」への批判には異論もあろうかと思いますが、まず、疑いなく真性の即興演奏家であり続けていたデレク・ベイリーの質問に答えて為されている。そのことが一番重要なのかと。いうまでもなく、これは生半可な一般論である筈はなく、互いに音楽の語彙を探りあった仲でありながらもその後進む道を違えることになったブライヤーズの個人的体験の爆心地であった筈です。それは、一方的な聴き手(わたしのような)では決して関知できない問題を指してもいるようで、なるほどとも思います。これにはケージの、安易な即興に対する批判的な態度も多少は影響していそうな気がします。

いま私がインプロヴィゼーションに反対しているおもな理由のひとつは音楽とそれを創造している人物とがかならず同一視されてしまうことだ。二つが同義的なものとみなされる。目の前に音楽を生みだしているつくり手がいるために、人物と言葉、音楽と人物が同一視される。まるで絵の脇に画家を立たせて、絵を見るとかならず画家が目に入るようにするようなものじゃないだろうか。画家抜きで絵を見ることはできない。そのためにインプロヴィゼーションでは、音楽じたいが自立することができない。身体をともなっていないとだめなんだ。禅やケージを研究した私は、自分のつくったものから離れるという立場をとる。自分のやっていることとの間に距離をおく。ところが、インプロヴィゼーションではそれができない。作曲なら、書いたものが演奏される現場にいなくてもかまわない。もう概念化されてしまったものなのだから。現実より概念のほうが私には興味がある。具体的現実でないものでも、考えることはできるのだから。ところが自分がそれを演奏し、その現場にいるとなると、これは現実だ。概念ではない。

--デレク・ベイリーインプロヴィゼーション』p.237

60年代の末にブライヤーズはインプロヴィゼーションに、少なくとも自分の即興に関しては、まったく不自由を感じていたということであり、そして音楽作品と演奏者も分離してもよいはずだと思った。ここのあたりはおそらく個人としての音楽家の生理的な要因が多くを占めるのでしょうが、とにかくそのあとブライヤーズは「作曲」することがそのまま「音楽すること」自体を標的にすることが可能だと気付いていったのだと思います。そのきづきの振幅の広さと豊かさは、そのまま本CDと例えば「イエスの血・・・」の間のギャップでもあるのではないか、と。

http://www.gavinbryars.com/
こちらのサイトで完全な作品リストが見れます。

The Sinking of the Titanic/Jesus's Blood Never Failed Me Yet

The Sinking of the Titanic/Jesus's Blood Never Failed Me Yet

インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ

インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ

即興について最後にフォローめいたこと書くと「自分がもちこんだものしかえられない感じがした」と過去において言い切ったブライヤーズですが、1999年に復活したJoseph Holbrooke Trioの『The Moat Recording』の柔軟な気配が詰まった演奏を聴くと、その感慨で終わってしまったものとは決して思えません。なるほど確かに、即興は現実であり、概念ではない。演奏者と作品も切り離せない不自由なものでありその制約自体を演奏として生きるものといえるのかもしれない。しかし現実の3人の優れた演奏者(ブライヤーズ×ベイリー×オクスリー)による当為即妙な間合いの取り合いがそれぞれの「パートの集合以下のことしか」できないわけでは決してないのだ、と1999年のブライヤーズなら感慨を新たにしていたのではないでしょうか。音楽の「分有」あるいは「散有」の現場として聴きたいものです。

Moat Recordings

Moat Recordings