みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

心の社会のうちゅうの旅:グレッグ・イーガン『ディアスポラ』を読む

nomrakenta2008-01-31


年末に図書館で借り出して、昨夜読了(完全に延滞です。貸出し延長というのが電話で出来るらしいが)。ひさびさのSF。しかも「本格ハードSF」ですと。わくわくしながら読みましたさ(初イーガン)。
とりあえず感想としては、ふーっです。
とにかくワームホールだのガンマ線バーストだの、宇宙物理とか数学的な抽象論が果てしなくハイレベルで展開され、冒頭から(冒頭はソフトウェア生命の孤児(ヤチマ)が誕生するところ、ここの描写も興味深い)正直ついていけない・・・。いけなかった。
では、なぜ読了かというと、理解できないところは正直に「飛ばし」ました。うははは、ふーっ。

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

訳者さんのあとがきによると、この作品に寄せられた賛辞の中には「これはなんのためにSFがあるのかを雄弁に物語る作品だ」という最大級、といっていいものがあるとか。それもたしかに頷けるほどの科学(数学?)への信仰が奔流になっています。
自分の乏しいSF読書歴からいうと、ちょっと違うかもしれませんが、これほどワクワクさせられ、かつ「まっとう」さを感じたのは、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後』以来(1992年くらいに読んだ)でした。

まず、主人公達が、すでに肉体を捨てたソフトウェアのような仮想現実的な存在(ポリス市民)であるという設定からしてのけ反ってしまいますが、仮想現実への「移入」を拒絶して地上に残った「肉体人」も各々鰓呼吸や有翼にしたりと自由な肉体改変を行っていたり、それとはまた別にかなり人格に近いものを持ったロボット達(グレイズナー)がいて、これは主に太陽系で何かの研究をしている、と。三者三様の「人類」はお互いに干渉せずにすでに気の遠くなるような年代を過ごしている。

こんなてんでバラバラな30世紀に、「とかげ座」の双子中性子星の融合によるガンマ線バーストという未曾有の大厄災が地球を襲うわけです。肉体人はもちろんほとんど死滅、運のいいものは地下シェルター。中には生命パターンをデータ化されてポリス市民となって生き延びる者もいますが、これはこれで本人にとっては運がいいのかどうかよくわからないわけです。
なぜガンマ線バーストは起きたのか?なぜ予期できなかったのか?そもそも宇宙とは何なのか?数千億年後にまたバーストが起こらないとも限らないとすれば、「人類」は避難先を宇宙に求めなくてはならないのではないのか?
こうした意識が引き金となって、ポリス連合の中の一つのポリスが、ワームホール航法を研究して深宇宙への旅に出ます。このあたりの理論的な描写がもう・・・・わからんのですね(苦笑)。この探検隊はもちろん一つの船ではなくて、ソフトウェアのクローンを駆使して、同じ人格が数千にも分かれて銀河に散っていく(←これが<ディアスポラ>)のですが、こういう自分がいくつも「複数同時存在」な感覚も、この作品の魅力的な骨格のひとつだと思います。
中でもオルフェウスという惑星で遭遇する「絨毯」という生命体が、多分この物語の折り返し点にもなっていて、すこぶる面白い。オルフェウスにはこの海底でじっとしている「絨毯」以外に生命らしきものはないのですが、「絨毯」は呼吸も捕食も生殖もない単分子(!)の巨大なシート状のもので、一定の大きさになると切片を切り離して増殖するという謎めいたものなんですが、主人公のひとりカーパルはこの「絨毯」の二万種類の「タイル」が、実はスーパーコンピューターの素子のようなものとして機能していることを発見する。で、何を演算しているのかというと、極度に濃厚な生態系なんですね。つまり、オルフェウスには現実界には生命と呼べるものは「絨毯」しか見当たらないけれど、来訪者であるポリス市民とまったく同じように、仮想現実的な世界を持っているということなんです。
この仮想現実の中にも互いに対話しているような存在がいて、カーパルはそのうごめく様子から「イカ」と呼び相互コミュケーションをとる存在だとしますが、もう一人の主人公パオロはこんなものに「意識があると思っているのか?」と、自分たちを棚上げして認めない。それに対するカーパルの説明のくだり。

 この構造すべてには、記憶検索や単純な向性、短期目標などを意味するゲシュタルト・タグがついていた。それは、存在と行為ということが、おおよそ意味するところにほかならない。
イカはほかのイカについて、体のみならず、精神のマップももっている。どのようなかたちであれ、ほかのイカが考えていることを知ろうとして、そして」とカーパルは、ほかの一連のブロック間の線が、さっきのよりは精妙なイカの精神のミニチュアにつながっているのを示して、「イカは自分自身が考えていることについても、やはり考えているのだ。わたしはそれを、意識と呼びたいのだが、どうだろう?」

--P.322

この宇宙の見方の変換が物語に一気に拍車をかけているように思います。
この後、惑星の大気を変成しそのあと何処かへ去った「トランスミューター」という存在に気付いた人々は、その痕跡から、すでに銀河の核が大バーストを起こしおり、その影響で千年後には全銀河の生命が一掃されるという事実を知る。これから逃れるには、もう空間的な避難ではなく「トランスミューター」が辿ったであろう跡を追って、その世界のと特異点が形成するマクロ球体の扉をくぐって「次元」を登っていく方向しかないことになる(このあたりの専門用語的描写も、すいません十分理解は到底できませんが)。ここから思いっきり乱暴に話をはしょると、主人公のパオロとヤチマは、故郷の「宇宙」から二百六十七兆九千四十一億七千六百三十八万三千五十四のレベルの次元(といって間違いではないんだろうか)を上昇して最終的な目的地に到達することになります。
下はその過程の割合早い段階の描写。

故郷の宇宙とスケールを比較しても意味はないが、<C−Z>の人々の選んだ五次元身体を物差しにするなら、ポアンカレの超曲面には地球の百億倍の生物が生息可能だった-あるいは、森とされる部分と広大な砂漠の隙間に数千の産業文明が隠れている可能性があった。この星の全体を、上海規模の<移入>前の都市が判別できるかつぶれてしまうかという解像度でマップ化するのは、天の川銀河のあらゆる地球型惑星をマップ化するのも同然の作業だ。
--p.408

どうです、わかりますか?(ヴォネガット風)
読了後、この世界の意識の描かれ方に、何か懐かしいものを感じたら、イーガンはマービン・ミンスキーの『心の社会』を参照した、と書いてあった。なるほどなあやはり、と思った。ミンスキーの『心の社会』は、「心」の働きを細かなエージェントに工学的な細かさで分け、詩人のような文章で表現した本でしたが、そのひとつひとつのエージェントが構築するという心の世界は、壮大かつ繊細で、ある種清潔なロマンティシズムといったものを感じるのであって、ネガティブな惰情を遠ざけてくれる効用(高揚)があり、それと同じようなものが、この物語のなかの、たとえば孤児ヤチマのひたすら真面目で「人間的」な態度に漲っていると思う。

読書中、取り留めの無い部分はこれと

Cage:Australe Works

Cage:Australe Works

さすがに落ちつかなくて、これを。
バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年モノラル録音)

バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1955年モノラル録音)

しかし、やっぱりバッハかつグールドの「音楽」なのでこれも落ち着かない。
最後はこれ。
Patterns of Plants

Patterns of Plants

藤枝守が植物の葉の微小な電差を基にして作曲したもの。これを箏、笙、ハープシコードヴィオラなどが点描的に奏でる微小な世界が、後半読み進むうちに極大に拡大していくような(というかサイズが無効になっていくような)そんな感覚に叙情が加味され、かなりはまる。