みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

斎藤環『メディアは存在しない』を読み終わる、とりあえず。

nomrakenta2007-12-04


一昨日雨が降ったので、紅葉はもう駄目かな。
何より路上の落ち葉が汚くなっちゃって。

今年同じ著者の『生き延びるためのラカンasin:4862380069の「電車の中で携帯で喋る人がなぜあれほど腹立たしく不気味なのか」という話がとても興味深かったので、こちらも読んでみました。

タイトルが示すように「メディアは存在しない」というもの謂いがどのように成立するのかを映画「マトリックス」からCG、ブログなどの例にあげつつ、ルーマンなどの社会システム論も参照しながら「内破主義」と著者が名づける言説タイプに対置すべく、一貫した論理構築をしています。あくまで著者専門のラカン精神分析理論が落としどころなので、最先端のメディアがどうとかそういう通常のメディア論を期待すると序文で投げ出すことになる。しかし「甲殻機動隊」とか好きな人は読んでみたらおもしろいかもしれない。

メディアは存在しない

メディアは存在しない

以下はずらずらと自分にとって刺激的だった部分を抜書きさせていただきます(あくまで私にとっておもしろかった部分のみ、ですのでこの引用だけで本書の印象を決定しないようにしてください。個人的に興味深かったけれどこのエントリーではフォローできていない社会システム理論やテクノロジーの部分など、かなり精緻な理論構成になっていますので)。

電子テクノロジーが可能にする仮想的ユートピアを真に享楽するためには、必ずその「外側」に、単一の自由な主体を確保しておく必要がある。
斎藤環『メディアは存在しない』p.19

上記は映画『マトリックス』を経由して「内破主義」を指弾する冒頭。『ウェブ時代をゆく』にも似たような言い方があったような気がする。
しかし、どうなんだろう。かなり重要なタームの「内破主義」は「メディアの介在が人間性を内破したり世界を一つにしたり」するのではないか、というマクルーハン以来の言説を指すわけですが、

それが悲観的であるか楽観的であるかを問わず、あるいは断定的に言われるか懐疑を伴って問われるかにかかわらず、究極的にはナルシシックな万能感からしか可能にならない
斎藤環『メディアは存在しない』p.200

という指摘を待つまでもなく、今やそんなに自分の中で面白みも感じないのが現状。
そういえばこのブログでもラメズ・ナムの『超人類へ! バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』asin:4309906982という本に触れたことがあって、その時の自分の書き様は今読み返すと典型的な「内破主義」的な劣化コピーのように感じますが、その時の自分であってさえ、一種の反語的な想像としてそれならば内面はどうなるのか、という考えをしていたように思います。結局、内面(ありもしない?)を語ろうとする人間の言葉の活動(人間が言葉の活動?)の方がはるかに差し迫っておもしろい問題なわけです。ただ、そう感じるのにも自信があるわけでもなく、この本はとりあえずそんな「人の変わらなさ・複雑さ」と言葉という「内側のメディア」に少なくとも注意を向けさせてくれるのかと。

「メディア=メッセージ」のテーゼを穏当に言い換えるなら、メディアはメッセージの文脈を部分的に決定する、ということになる。同じ報せであっても、それが手紙で届いたのか電子メールで届いたのによって、まったく異なった意味に受け取られてしまうという事実。そう、メディアとはつまり「コンテクストを与えるもの」にほかならず、コンテクストは精神分析的には、その存在を厳密には記述できない。
斎藤環『メディアは存在しない』p.26

で、コンテクストは存在しない→メディアは存在しない、ということになる。もちろん、メディアが存在しないというのは斎藤環氏が批判する「内破主義」と対置しての謂いということは明白ですが、話はもっとリソースであるラカン精神分析の話に深く潜っていきますし、他に興味深い寄り道が多々。
CGの過視性が反転して生命感には届かない、過度の直接性が必ずしもリアルとはならない「不気味の谷」問題に関して、

さらに言えば、「直接的な認識」などはありえない。いかなる認識も言語的な媒介を受けることは、たとえ脳に電極で直接に情報が送り込まれたとしても同じことだ。認識をする「心」にとって、脳も抹消神経も「外部」であることには変わりはないからだ。
斎藤環『メディアは存在しない』p.43

これに対応して以下の指摘はなるほどなあと思わせるものがありました。究極のユビキタス社会を想像するならば、

あらゆるメディアは究極的には、身体的なインターフェイスに適合するような出力装置の多様なヴァリエーションと化すほかはないだろう。ただし、最終的には脳に直接電極を、と言いたい人もいるだろうが、それはありえない。媒介された刺激を楽しみたければ、脳こそは徹底して保護され、外界から遮断された安定したかたちで機能する必要があるからだ。
斎藤環『メディアは存在しない』p.208

最終的には斎藤環氏の結論はこの台詞につきるのではないかと。

要するに、われわれはすでに世界認識のためのこれ以上ありえないほどの高機能メディアを獲得してしまっているのだ。例えば象徴界には、冒頭で述べたメディアの機能、すなわち「変換」「複製」「伝達」「記録」の機能すべて備わっている。それはいわば、最強のCPUエンジンであり、同じく最強のブラウザが「想像界」ということになろうか。いまだわれわれは、象徴界にわずかなりとも匹敵するような電子メディアを獲得するに至っていない。
斎藤環『メディアは存在しない』p.224

メディアは人を変容させる力などもたない(変容する、とするのが内破主義)。なぜなら言語こそが最強のメディアであって、人はそれによってつねにすでに変容しているから、ということ、なのか。
そのあたりはラカン的にいうと以下のようになるようです。いきなり「去勢」とか出てきますが、そのあたりは本文の緻密な論立てに直接あたってください。

言語獲得の契機はこのような「去勢」にあるとはいえ、同時に言語体系そのものは、言うまでもなく学習によって外部から獲得されることになる。その意味で言語とは、もともと主体の一部ではなく、幼い主体が外部において出会う、最初の大いなる他者なのである。このような他者をインストールされた主体は、みずからの中心に他者という欠如を抱えこむことになる。他者としての言語は寄生体のように「無意識」を構成し、そこにはらまれた欠如を埋めようとする一つの傾向が「欲望」と呼ばれることになる。
斎藤環『メディアは存在しない』p.123

個人的に、前半はおおお!とうなってしまうんですが、後半、他者→欠如というところからわからない。欠如?ブラックホールみたいなイメージをしてしまうが。しかしこのメカニズムは、精神分析においてかなり重要な公準のようです。

さらに、もうひとつ大きな地平がたちあがって、本書の理論部分は終了します(後は大澤真幸氏、東浩紀氏との対談)。

言語が情報でないように、われわれの認識を比喩以外の目的でデジタル化することは難しい。言語は「無意味な正確さ」よりは「意味のある不正確さ」を指向してしまうような「記号」である。それが可能になるのは、主として言語の外部から作用を及ぼす「コンテクスト=文脈」が存在するためだ。
人間は言語的存在であると同時に、コンテクスト的存在でもある。
(中略)
要するに、ここで私は「コンテクスト」という新たなメディアについて言及しつつあるわけだ。物自体としての世界を認識する際に、不可視な起源から不意みもたらせる「コンテクスト」。そう、「世界」はさしあたり、コンテクストとシニフィアンによって構成され、それは同時に、われわれの主体がコンテクストとシニフィアンにおいて二重化されているということを意味するだろう。
斎藤環『メディアは存在しない』p.227

この二重化を実現しているのが言語であり、この複雑さ世界認識ソフトを人を手放すことはできない、つまりまずはこの大文字の他者であるメディアが人と世界の間に存在しているのだから。と、そういうことかと読みました。
ほとんど最後のこの文言もまた、「メディアは存在しない」という主張(あるいは仮説)への最高の添え木であるのでしょう。

「コンテクスト」と「シニフィアン」が情報化に対して徹底して抵抗する要素であることはすでに述べた。もちろん電子メディアを通じてであっても、この種の生成は十分に可能であろう。しかし、その生成においては、メディアの特性はほとんど問題にもならない。
人はメディアの媒介ゆえに愛するのではなく、媒介にもかかわらず愛するからである。

斎藤環『メディアは存在しない』p.231

ヴィゴツキーもこんな言葉を書いている。

言葉は、つねに何かある一つの個々別々な対象にではなく、対象の全グループあるいは全クラスに関係する。このために、すべての言葉は、それ自身がかくれた一般化であり、あらゆる言葉がすでにものごとを一般化しており、言葉の意味は、何よりもまずものごとの一般化であるということになる。しかし一般化というものは、容易に知られるように、極度の言語的な思考活動であり、それに直接的な感覚や知覚に現実が反映されるのとは全くちがった仕方で現実を反映する。
ヴィゴツキー『思考と言語』p.19

一般化の定義は置いておくとして、対象の全グループ・全クラスと「関係する」というあたりの表現、「コンテクスト」の話とつながってるんじゃなかろうか。

この本(「メディアは存在しない」)を読み終える頃、BGMが収拾つかなくなってきて最後に落ち着いたのがこれ。

Robert Ashley/ Perfect Lives Box set

Robert Ashley/ Perfect Lives Box set

ロバート・アシュレーのTVオペラ作品。映像でみたいところですが、FoecedExposureでも在庫切れだった。
ブルー・ジーン・ティラニーの擬カクテルラウンジ風のピアノとシンセの効果音が聴き易く、聴取のみでも注意を引っ張ってくれますが、なんといってもナレーションを務めるアシュレー自身のつぶやきのようでいて歌っているようでいて表現豊かな肉声による「語り」が興味深いものかと。映像は以前このDVDでやはりピーター・グリーナウェイの撮ったドキュメンタリーで少しだけ観ることができましたが、マルチメディア的な手法への楽天的な信頼が今みるとずいぶん微笑ましかった。音楽として今聴けば、アシュレーの声の魅力もひとつ引き出せる要素だし、ヴェルヴェッツのセカンドの『レディ・ゴディヴァズ・オペレーション』だったか、延々のナレーションが入る曲があったかと思いますが、そういうアプローチの随分洗練されたものとしても聴けるかと(ちょっと邪道)。