みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

神林長平 『言壷』

実は「戦闘妖精 雪風」を読んだことないんですが、以前から書店で見かけて気になっていた文庫本を読了。


小説のOSであり、ツールでもある「言葉」をネタにした連作。


94年に発表されているため、作中「ワーカム」という文意を指導できるほど高性能なワープロがネットにつながったようなコンピュータが現実を侵食していくさまが、ある意味インターネットによる知識の即時的な共有化と、WEB固有のコンセンサスといわゆるネチケットなんかの成立に似ていないこともないな思う。
今書いているブログだって、「ブログ」ということで書き方をある程度意識して、少なくとも友人と喋るようなゆき方とは違う。その意味ではツールによる方向付けというのはどんな局面でも現実的に多少は存在するとは思います。
ところがこの作品の「ワーカム」は、ワープロがネットにつながった、データベースが豊かになった、というレベルを逸脱して、「本当はこういうことが書きたいんじゃないか」というガイドをしながら、エスカレートして「そんな文は認められない」「こうではないのか、いやその筈だ」までいってしまう。未来の創作者たちもそんな言語世界に慣れ、空気のように自然になってしまう。そしてそこに一つのワーカム文法上存在を許せない一文が紛れ込みウイルスのように侵食が進むことで、その言語世界ごと破綻に向かってしまうというのが筋で、言語の共有のされかた自体をテーマしているといえます。

全体は、いくつかの読み易い短編に分けられて、段階的に場面を切り取る体裁になっていて、それぞれ異なる語り手、異なるスタイルで意識的に書き分けられていますが、冒頭のエピソードの

「私を生んだのは姉だった。」

という、殆どシュールレアリスムの詩のような一文が、一人の作家の執念によって「ワーカム」に紛れ込むことで生じる歪みは、エピソードを追うごとに(エピソード毎の時代設定は数十年か世紀単位で隔たってます)、回復不可能なものになっていくのが読みどころです。


その社会の行く末は、「栽培文」というエピソードで詩的な形で昇華するのですが(ここで語られる世界では、「言葉」は、そのまま「言」の「葉」です)、そのあとの数編で、この「栽培文」の世界以前に「ワーカム」文明が崩壊にいたる顛末を遡って描き出していて、これが実に甘酸っぱい感傷を生む、気の利いた編集効果をあげているとも思いました。タイトルの「言壺」もこの「栽培文」に登場する言語を光る結晶として表示するポットのことかもしれない。


「言葉」は、物語の創作者にとってはツールであり、生命線でもある筈ですが、その「言葉」を追い詰めて大胆に展開する方法には、「言語」しじんが自己を食い破ろうとするような勢いがあり、たとえば方法論は全然異なりますが「同時代ゲーム」や吉増剛造やある種の現代詩なんかも想起させ、全く僕の好みのSF小説です。
というより、小説のスタイルを使いこなした魅力的なテキスト論ではないかと。