みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

クリスチャン・ウォルフ『Burdocks』

『Burdocks(ごぼう)』(70年)は、クリスチャン・ウォルフの代表作といってもいいのだろう。ソニック・ユースの『Goodbye 20th Century』でも採り上げられていたが、本CD収録の演奏は、アザーマインズ・フェスティバルでのもの。ライナーではウォルフ自身は、初演はスクラッチ・オーケストラによる演奏を想定していたらしいが、こちらは、作曲家本人(ピアノ)のほか、フレッド・フリス(ギター)、ゴードン・ムンマ(ホルン)、ボブ・オスタータグ(サンプラー)、ジョーン・ジャンルノー(チェロ)、現代音楽作品の演奏でいつも絶妙の冴えを聴かせるウィリアム・ワイナント(パーカッション)など錚々たる面子。
この作品は、ト音記号でもヘ音記号でも自由に演奏できる一つのメロディーが与えられている10のパートでできていて、その中からいくつかを選んで任意の組み合わせで演奏するが、これはリズムパターンの示唆もあるが基本的に好きなように演奏できるようだ。(ワイヤー誌のインタビューより)ちなみに、マイケル・ナイマンの「実験音楽」では以下のように説明されている。

『バードックス』Burdocks(1970年)の一つの「楽章」は、少なくとも十五人の奏者から構成されるオーケストラのためのもので、各奏者は、一つから三つのの非常に静かな音を選ぶ。いつも、それらの一つを用いながら、一番近くにいる奏者の出す音とできるだけ同時にそれを演奏しなければならない。そして、次に、二番目の近くにいる奏者の音と、さらに次に近くにいる奏者と、というように続いて行って、最後に他のすべての奏者(そのオーケストラの、あるいは、あらかじめ指示されている場合は、そこにいるすべての奏者)と一緒に、一番遠いところにいる奏者と合わせて、演奏するようになる。
マイケル・ナイマン著『実験音楽―ケージとその後』p.22より引用)

このように奏者の即興性が尊重されているが、無制限ではないように思える。というのは、強制的に可変プロセスの中に置かれることで、個人の嗜好などで停滞してしまわないような仕組みになっているようだし、最少の構成要素の<非常に静かな音を選ぶ>という点からも*1、とにかく<非常に静かな>というトーンに関する制約があるわけで、最低限ガチャガチャのカオスにならないような配慮(あるいは美意識)がちゃんと想定されているように思える。
とはいえ、このCDでの演奏のように、一つの音それぞれがこれ以上ないほど断片的であるにも関わらず開放的で、全体的な爽快感があるという、実験音楽ではまことにレアなクオリティが実現されるには、やはり、各奏者が相当<即興>自体に熟練し、かつ作品の目指す世界を理解していることが必要なのは確かなことだろう。ゴードン・ムンマは71年のロンドンでの最初の演奏(40人での!)から参加していたらしい。

他の2曲は、『Tuba Song』(1992)と『TrioⅢ』(1996)で、『Tuba Song』は、チューバのふくよかな音色そのものを<作曲>という行為が全く邪魔せずに、浮き彫りしてくれているようで、これもウォルフの詩的な感性を強く感じさせる。『TrioⅢ』は、アベル・スタインバーグ・ワイナント・トリオのために作曲された室内楽という趣。

クリスチャン・ウォルフは、ジョン・ケージモートン・フェルドマンのいわゆる「ニューヨーク派」と出会った当時、まだ16歳だった。そのため他の作曲家が、そこから逃れることに注力した音楽のバックグラウンドというものが初めから存在しなかった。これは多分非常に重要な点で、ケージやフェルドマンにとっては文字通り「実験的」で「破壊的」な方法論だったものが、ウォルフにとっては、新鮮な言語習得過程だったのではないかと想像できる。加えて、一貫して生楽器の演奏にこだわり、優れた<奏者>との信頼関係を重視し続けてきた。だからこそ、近年にいたるまでの作品が、稀有なほどに自然な形で禁欲的なリリカルさを瑞々しく放っているのではないだろうか。

*1:この<音>というのは上述の<パート>のことを指すのだろう