みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

Barre Phillips,斎藤徹、高岡大祐、『ジャズ・カントリー』、蟲文庫

10月13日(土)
先日の天神古本祭りでみつけた状態の良いナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』を読んだ。

ジャズに夢中な高校生が、プロのジャズ・ミュージシャンの世界に入りたくて、人種問題や進学すべきかミュージシャンになるか、音楽を通した本当の自分の声、などを考えていく。年代は1964年くらいに設定されていて、オーネット・コールマンはすでに登場してきていて、それに続く新しいジャズの波が「ニュー・シング」と呼ばれて描かれている。フリージャズ、という言葉は一切出てこない。主人公が憧れて周囲をうろつくようになるピアニストは、「ニュー・シング」ではなくてハードバップ期のミュージシャンのようだ。
主人公に音楽で食っていくことをあきらめさせる役回りで、ダニー・シモンズという名の若い「ニュー・シング」のトランペット奏者がでてくるが、この人物がおもしろい。オーネットやセシルが仕事にありつけないのに、NYで僕に仕事があると思うか?みたいな発言やコペンハーゲンでは「ニュー・シング」にも聴衆がいる、という台詞から、いわゆるフリージャズの第二世代にあたる人のような位置付けなんだろう。

シモンズは、トランペットを取りあげて吹きはじめた。それはブルース、だがひとつの奇妙なブルースだった。やっぱり、例の人間的なひびきに充ちていた―くすくす笑いと、げっぷと、悲鳴と、叱責と。しかしビートは、不気味なものだった。ある種の鼓動をぼくは感ずることができたが、音楽それじたいには、すぐにそれにあわせて足を踏みならすようなものは何もなかった。そして、そのメロディーは、だれか魔法使いがまじないをかけた弦の球みたいだった。それはひろがるかと思うと、また縮み、それからまったく異なった方向に進み、途中でもどってくるかと思うと、また壁の上に昇っていって、部屋の反対側に跳びはね、それから、トランペットのなかへもどっていくのだった。
――ナット・ヘントフ『ジャズ・カントリー』木島始訳P.182

はじめてフリージャズが出てきたときこんな風に聴こえたのだろうなという文章の見事な見本。シモンズは多分、このあと「ESP」からアルバムを出したんじゃないだろうか、いや、ブラックセイントか(妄想)。

10月14日(日)高岡大祐(チューバ)ソロ@堀江Futuro
高岡さんのソロCD「借景・夏」発売記念でした。「借景」だけでなく、そのCD制作の待機中に制作されたCDR「バイノーラルレコーディング・ウィズ・マイヘッド」も同時に発売でした。
この日の演奏はこの『借景・夏』の構成をライブで再現することを念頭におかれたものだった。一部が終わってから、Kさんと煙草を吸いに表に出た。「高岡さんのソロって一部の終わり方がいつも映画の情景にみたいに聴こえる」という意味のことをKさんが言った。自分はただただチューバからこんなに微細な倍音が聴こえてくるのに聴き入ってしまう。

『借景・夏』は今年の夏に高岡さんが京都の田舎に合宿して集中的に録音されたもの。このCDは、強靭な集中力で演奏されているのに、ふと、通りかかった時にふいに聴こえてきて聴き入ってしまうような音の風景にもなっている。高岡大祐という人の耳の良さが、そうさせているように思える。
もう一枚の「バイノーラルレコーディング・ウィズ・マイヘッド」はフィールドレコーディング+チューバ演奏を両耳につけたバイノーラルマイクで録音したもの。公園で遊ぶ子供の歓声からチューバの太い音が立ち上ってくるのが生々しい。居酒屋談義まで入っている。『借景・夏』に比べると奏法は特種なものはないけれど、聴いていて、ライブでの高岡さんのチューバの音やそれに必ず伴って聴こえてくるボタンをカタカタと押す音なんかがかなり近いと思えて「この音、この音!」と興奮してしまう瞬間が何箇所もあった。
これら二枚の作品のあとに、どんな音楽が待っているんだろう?変わり続けている人だから、楽しみでならない。

10月16日(火) Barre Phillips、斎藤徹同志社大学クローバーホール

バール・フィリップスと徹さん、ど真ん前。特にバール・フィリップスのど真ん前で聞けました。
思えば、たしか斎藤徹さんのホームページで「two lions」(お二人のコントラバスのヘッド部分がライオン、という由来だったと思います)の記事を読んだときが、多分バーバーフジでやったときだろうから、その時から12年くらい経ってるのか。やっとお二人のデュオを聴けた。やっぱり生きたら良いことがあるのですね。
バール・フィリップスの音、なんて丸っこいんだろうと思った。丸っこいというか角がない純粋なトーンだけがある、真っ直ぐで何処までも柔らかい音。
爪弾いても、アルコ弾きしても。コントラバスって、こんな美しい音が出る楽器だったのか、とさえ思った。
対する徹さん、バール・フィリップスの弾かない音で付き添って、音の世界を拡げていく。とても静かな演奏だが、あんなに大きなコントラバスを振り回しながら演奏だから、本当は大変な筈だ。
バール・フィリップスの最初のソロで、掌をヒラヒラさせるようにして、弦に触れさせて、かすれるよな微かなハーモニーが、確かに演奏されていて、涙が出そうになった。感情に溺れるんではなくて、音があって感謝、という種類の。
バール・フィリップスがコントラバスの弦もボディも触る何もかものがリズムでメロディハーモニーになっていった。
バール・フィリップスは、そう簡単にはアルコ弾きにいったりはしなかった。勿論弓で弦を擦ったりスティックとして胴を小突いたりはしていたけど。後半遂にアルコ弾きになった時、ぞわぞわするよなハーモニーか奏でられた。
二部の最後の、二人の音は、かすれるような音からさらに微音、さらに微音というよりも沈黙に一刷毛辛うじて載せたものになっていき、斎藤徹さんが静かにコントラバスを横にしてその隣に仰向けに寝る、その様子を先程の減衰し続けるとても微かな音を出しながらバール・フィリップスが見守り、終わった。
満足というか、身体中、何かに満たされて嬉しいのか戸惑っているのかという状態で京都から箕面に帰り着き、また高岡さんのCDを聴いた。ミュージシャンって、凄くなれば凄くなる程、互いに演奏で、嘘をつけなくなる。本当に自分の言葉でしか話せなくなるんだろうな。


会場物販で購入した『Portraits』。2001年オーストリアでのソロ・パフォーマンス。この日のバールの音にかなり近い。

来日が決まった少し後に入手したバールの演奏写真とジャケット写真からなる記録冊子。DVDは最近のバールのインタビューと演奏を収めたもので、CDは、嬉しいことに、『Unaccompanied Barre』として流通したソロ『Journal Violone』。アナログはものすごい高値になっているもの。共演者がスタジオに現れなかったためにソロで録音された、というエピソードをどこかで読んだが、コントラバスのソロの可能性を広げた作品という位置づけがされていもする。ディスコグラフィーのページを順番にめくっていると、ドルフィーコルトレーン、シェップ、サン・ラから始まって、ジャズや即興演奏家たちの歴史が幾層も積み重なっているのがわかる。

10月18日(木)
退社ちょうどにIさんから、東天下茶屋の焼鳥・うどん『讃眞 (さぬま)』に誘っていただく。
天王寺駅から路面電車阪堺電軌上町線に乗り数駅。大阪の路面電車はここだけのような気がする。最近本屋で、1930年代の大阪で路面電車が道をゆく写真をまとめて見たばかりだった。路面電車のある風景は、街に流れる時間がどうも異なるように感じる。もちろんそれだからこそ渋滞の原因とされて地下鉄やバスに代替されていったことも知っているが、どうしても、路面電車がある街というのは時間じたいが魅力的に思える。路面電車に乗ると、街路が動き出して街の風景ごと動いていくような気持ちになるからだろうか。自分の学生時代はギリギリ京都三条路面電車の軌道があった。
さて、『讃眞 (さぬま)』。焼鳥はどれも美味しかったが、鶏出汁の湯豆腐が美味しすぎた。〆のうどんは、三人でざると昆布の冷温をひとつずつ。焼き鳥の盛り合わせ2人前(最初一回しか頼めない。それが納得の一人前の量)と肝さし三種に野菜にイカ、冷奴、湯豆腐にビール3杯、冷酒を4本ほど楽しんでひとり4千円いかなかった安さ。また、来たい。

わたしの小さな古本屋?倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間

わたしの小さな古本屋?倉敷「蟲文庫」に流れるやさしい時間

倉敷の古書肆「蟲文庫」にはこれまで一回だけ行ったことがある。去年、広島の酒祭りの帰りに寄ったのだった。蟲文庫は、美観地区の大倉美術館の前の通りをさらに山の方へ歩いていって次第に観光から倉敷に日常になってきたなとこちらも綻んでくると、左手に通りに溶け込んだような佇まいであるお店だった。ベケットの「マウロンは死ぬ」や串田孫一の詩集を購った。またいつか行ってみたい古本屋さんだ。
本を読むと、店主の田中さんは20歳そこそこで古本屋を開業することを突然決意されたそう。そこからこれまでのことや、古書の取り持つ縁や、著書もある苔観察のことなどがまとめられた本になっていて、とても楽しく読んだ。あっという間過ぎてもったいなく、もう少し量があったらいいのにとさえ思った。友部正人の蔵書だったブローティガンの『アメリカの鱒釣り』のエピソードなんか、好きです。