みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

SI PUO FARE!:『人生、ここにあり!』

公開中の話題のイタリア映画『人生、ここにあり!(原題『(やればできる)』)』を先週の土曜日に観てきました。


これは、特定の話題に関心がある人向けではなくて、まず観てみたらとおすすめしたくなる佳作映画。最近のイタリア映画って観た覚えが無い・・・という僕のようなひとにもまずおすすめしておきたいです。
簡単にあらすじを書こうとすると、どうしても1978年以降のイタリアでの精神医療事情に言及しなければならず、また、その歴史的事情から不離であることがまたこの映画の感動的な健やかさの原基ともなっているのですが、イタリアでは1978年に「条例108(通称「バザーリア法」)」が施行され、基本的に「精神病院」がなくなった。これには劣悪かつ抑圧的なものであった精神医療、精神病院という装置から、患者を開放して、医療センターや地域のネットワークをセイフティネットにしていこうという方向があったらしく、少なくとも脅迫的な拘束環境が精神病(と医療者が一方的に名付けるもの)自体を捏造し続ける悪循環は断たれるという目論見があった。しかし、当然社会に放り出された患者たちがどう生活していくか、という問題があるのであって、この映画はその舞台を1983年のミラノにすることによって、その問題を真正面から描いている、と言えるかと。
労働組合で煙たがられた主人公が、そういった元患者たちの組合を任されるのですが、そこで自由市場で仕事をしてみないかと、元患者=組合員たち説得し成功していくかに見えるまでに、ちゃんと元患者たちと社会の痛ましい軋轢が不可避なものとして描かれている。その終盤の悲しい出来事にしても、観ているこちらも共に乗り越えたいと感じさせてくれる。結果的にすべてが「生きる」ことに向かって開かれている、と書きつつ、トータルとしてそれほど「重い」味わいではないところがこの映画の優れて「佳作」である点だとおもいます。
監督が単なるバザーリア礼賛を描きたかったのではないことは、映画を観ればわかる。その意味でも、原題である『SI PUO FARE!(やればできる!)』の方が、やはり映画の本質に沿っていると思う。
本作、製作は2008年で、本国イタリアでもロングランのヒットになった、とのこと。 バザーリア法という通称のもとになったのが、精神科医フランコ・バザーリアを筆頭にした「赤い精神科医」や看護師たちやそのほか無数の人たちによるかの国での精神病院解体の動き、であると知って、職場近くのジュンク堂でおもわず入手したのが下の書籍。

自由こそ治療だ―イタリア精神病院解体のレポート

自由こそ治療だ―イタリア精神病院解体のレポート

邦訳されているバザーリア関連唯一の書籍だと思われます。バザーリア本人との対話もあり、またバザーリア医師の本拠地だったトリエステ、そしてゴリツィアといった精神病院から、オットネット、パルマといった各地の当時の取り組みを当事者とのインタビューという形で取り上げている。状況のドラスティックな変化は、たとえばフランスのラ・ボルド精神病院などの例よりも「わかりやすい」印象がある。
そこからは、ソ連共産主義ともフランスやドイツとも異なった道を歩んだかつてのイタリア共産党(今はややこしいことになっている)の社会改革のひとつのモデルとして精神病院の解体があったことが濃厚に伝わってくるが、たとえば以下引用のようなエピソードには、イタリアらしさを感じてしまう。

 去年の、数人のコロルノ退院患者が住んでいるボルゴ・バリアのことだった。そのうちの一人、マリアはある朝突然教区を真っ裸で歩き回った。センターの看護者が恐ろしくビックリした。彼らはコロルノへ電話し、マリアを迎えにくるよう外来に頼んだ。そして何がそこで起こったか、おわかりだろうか。外来の職員がやってきた時、もうマリアはそこにいなかった。教区の女性たちが彼女をアパートにもどしていたのだ。しかも神父は彼女を再び病院へ入院させられないことに気づいた。彼女は結局何も危険なことをしていなかったのだ。
――ジル・シュミット『自由こそ治療だ イタリア精神病院解体のレポート』p.183

日本だと「傷」は「傷」としてすぐさま有徴化されて客体化されてしまう。そうすると、結局じぶんの「普通感」や「健常感」というのは痩せ細っていく、あるいは「病」を植民地化しようとする(あるいは「病」の顧客になろうとする)。
この映画が示しているのは、「傷」「病」を普通のものとして日常に内包していこうという社会(ということは個人ということである)、そしてそこに向かっていく精神的な態度であると思う。



Badlands

Badlands

カナダ在住台湾人Alex Zhang Hungtaiによる本盤。凄い。このタイミングでこの音とは! もちろん大好きです。
冒頭一曲目まさにアラン・ヴェガという感じのヴォーカリゼーション。もろスーサイドな曲があるんだけれど、照れや無理や痛さは皆無。大時代なリーゼンドも嬉しくなってくるのが不思議。裸のラリーズの曲をループに使用しているとか。
エレキング」のインタビューを読んだかぎり、このひとには明らかに先達から影響を受けてイメージしている音があるし、それを意識的にやっているけれど、それ以上のものになっている。上質のサンプリング感覚が沈潜している感じ(でも、それって何度も当たり前に繰り返されてきたことなのでもある)。
自分のインスピレーション源についてもかなりマニアックに、かつ明瞭に語っているのが頼もしいしこういう人は好きだな。

あんたに似た奴を知ってるマーク・サンドマンっていうやつだったよ。ステージの上で死んじゃったんだ。または、ダークサイドのベン・ヴォーンにすらなり得るような予感が。

テープレコーダー録音による粗い音像が、ローファイ回帰であるとかはほんとにどうでもよい話。本人の語るとおり、ローファイ的な感性というか「あらわれ」もしくはこちらの受容というのは、90年代の一時期に限られた話ではなく、それを欲したアーティストとそれを受け取る聴き手の問題。



Biophilia

Biophilia

円高還元ってことで非常に安くお求めできたビョーク新作。そうですか、ノンサッチからですか。こうなりましたか。お、1曲目のハープは、ジーナ・パーキンスですか。
なんか一時期ビョークを、遠ざけてきたというかあんまり意識しなかったというかな時期が続いたので、ちょっとドキドキしてましたが、歌唱と音楽の関係がそれほどアヴァンギャルドでもなくなってきた、のかな?甘い毒はそこかしこに潜んでいそうだけれども。ビョークが「POST」以降、リリースのたびに歌とアートを掛け合わせてきたのは、はしっこから横目でみていても大したもんだと思っていたけれど、個人的にはそんなに音に尖鋭性を求めてなかったような気がする。というか「シュガーキューブス」以前の「KUKL」がすでにいくところまでいっていたと思いますし。ビョークの歌がのびのびと聴こえればいいかなあという、その程度のファンだった者として、このアルバムは好きです。
でも一番好きなのは、PJハーヴェイとのこちらのデュエット、なんです。

これ聴いたあと、数年ミック・ジャガーの「サティスファクション」聴けなかった。