みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

どじょう、藤井貞和、カウシキ、William Parker、ヒップ・ホップ、映画「スタテンアイランド」

nomrakenta2011-08-29


今日、被災したいわきの代理店と電話で話しをしていて、代理店の70歳の社長から、民主党の代表選で野田佳彦が選出されたことを知らされた。
この社長は3月11日から被災地で顧客のために飛び回りながら、この9月末をもって損保代理店を廃業にすることを決めたらしい。前々からインターネットやPCの操作の比重が高くなる業務についていけないと漏らしていて、そのストレスをうちのオペレーターにぶつけてしまうところがあったのだけれど、そういったことの積み重ねに今年の震災が踏ん切りをつけさせたようだった。

自分が今の職に就いてから6年くらい経つが、半年に一回はこの老人と電話で言い合った。基本的に苦情となっても言い分は真っ当なひとだったが、時にはオペレータとしては能力外の規定的な即断を求めてきて、言い淀んだ瞬間に神経質な罵声を浴びせかけたりすることもあった。自分も頭に来て、そのような態度ではどんなにスキルと誠意があるオペレーターでも普通の対応ができないから今後のサポートは考えたい、などとずいぶん偉そうなことを言ったりしたこともあったが、そういうことがあって長時間電話で話すことを重ねてくると、なんとなく自分をひいきにしてくれているようではあった。特に3月11日からはそう強く感じた。

保険の手数料だけで食っているわけではないのでせいせいしていると言いながら、原子力発電の歴史について勉強し始めていて、「稼業」ではないけれど、自分としてはそういう「仕事」が出来たと感じているものに打ち込みたいのだと言った。

そして、代表選のスピーチで自らを「どじょう」に例えた野田佳彦に、原発に対する考え方などわからない点も多いけれど、何か安堵のようなものを感じたのだ、3月からロクな話がないけれど今日はそのニュースで少しは気分がいいのだ、と締めくくった。いわきで被災した保険契約者を訪ね歩くのがどんなものか、あなたたちには決してわからないよ、とも最後に(しかし3月から何度もきいた台詞を)言い置くのを忘れなかった。

社長のどじょうに対する安堵。これが正しいのかどうか僕にはわからない。
たぶん、正しいとか正しくないという事ではないのだ。




藤井貞和さんの新しい詩集『うた ゆくりなく夏姿するきみは去り』。
近作の現代詩を集成したものではなくて、これまでずっと書かれてきた「短歌型詩」を集成したものになっているのだけれど、過去から現在まで日本語による「うた」の在り処をもとめて(「うた状態」の発生を考えつづけて)手繰り寄せられて出来たこの本は新しい詩集の匂いがする。
以前詩集の中で読んだはずの作品が、こうやってあらためて集められたなかで読むとまったく異なった印象を与えてくるのに戸惑う。
1992年の『大切なものを収める家』に収められていた『旋頭歌』は、こんな激しい歌だったか。
古事記の木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)の炎に巻かれた出産(日本最古の火事といわれる)の光景を圧縮しながら、読まれる瞬間のつながりに向けて開かれていく言葉が「うた」なのだ。

この1992年の詩集の最後の「家」(章)を、藤井貞和さんは湾岸戦争に呼応して、激しい怒りと苛立ちに満ちた「イラク」や「ウォー」といった詩を収めた。2011年の本書では、藤井貞和さんはあとがきに以下のように書く。

喪に服する、喪とたたかう、喪自体に抗う、不意に生きのこされた、あるいは詩筆をこれからは永遠に持つことのできなくなった、言葉にならない言葉たちを、このあまりに痛ましい日本風土のうえに、どう共存して、再生させればよいのか。

8月25日(木)、6月にIさんが兎我野町のバーで主催した『グローカル・ビート』のトークイベントで紹介されていた、インド古典音楽の歌姫、カウシキ・チャクラバルティを仕事終わりに、肥後橋の玉水記念館に聴きにいった。
からしていた厭な予感が的中して仕事は定時を大幅にずれこんで、会場に駆け付けたら、これも楽しみにしていた前座のジェンベ奏者・横沢道冶さんとシタールの石濱タダオさんの演奏は終わってしまっていた。カウシキには間に合ったのだから良いとしなくてはならない。
こういう純正ラーガな音楽(?)を生で聴くのは初めてで、昔ヌスラットのCDを1,2枚聴いたくらいで知識もほとんどない。ハルモニウムのドローンがゆるやかに立ち上るなか、そのうえにあるいはそれに寄り添ってカウシキの歌声がだんだんと透明な熱を帯びてみみのなかを満たし始める。迫ってきて何らかの感動を要求するような音楽ではなく、身体を浸しはじめて身体ごと静かに共振させてくるような音楽で、たしかにこういうのははじめてかもしれない。気づけばカウシキの歌の抑揚にあわせて頭のなかが鳴っている。
タブラは拍子というよりメロディアスに隙間を埋めるというか、音が滲みこむための隙間をおしひろげていく。カウシキの節回しと、タブラの打音がバシッツと決まる瞬間が何度もあって、そのたびにおとなしく聴いていた観客が沸いた。歌といっしょにカウシキが胸の前、顔の前にかざす両手は、歌の変化にあわせてさまざまな形に流動していった。それが歌のかたちのように(エリック・ドルフィーが垣間見たような)も思えてしまった。
あとで知ったことだが、インド古典音楽といっても、北インド南インドで異なるらしい。北はヒンドゥースターニー音楽、南はカルナタカ音楽という。カウシキはヒンドゥースターニーだったのだろうか?

演奏のあと、会場であったHさんがCDにカウシキのサインをもらうのを待って、立ち呑み屋さん「わすれな草」に。〆に定番のカレーリゾットオムレツのせ。
地下鉄淀屋橋駅への途でHさんが駅の花壇にサトイモが植わっているのを発見した。

Swar Sadhna

Swar Sadhna

僕が所有しているカウシキのCDはこれだけ。売れているやつではない。プランテーションレコードで購入したもので35分のラーガと15分のラーガの2曲のみ収録されているが、十分に魅力は伝えてくれていると思う。


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Out of This World's Distorti

Out of This World's Distorti

2009年にもライブ盤をAUM FidelityからリリースしたWilliam Parkerのトリオ『Farmers By Nature』の新作が出ていた。Parkerにしては「ECM」なジャケ写真に多少面食らう。冒頭一曲目はFred Andersonに捧げられていて、沈鬱なムードのピアノで幕があく。『Farmers By Nature』は、Parkerの音楽にしては引き絞るような重さがあまりない。矛盾しているかもしれないが柔軟でスタンダートなムードがある。
Farmers By Nature (Dig)

Farmers By Nature (Dig)

William Parkerは、ジャズミュージシャンとして現在最も強靭で豊饒な汎音楽的な活動をしているひとだと思っていて、タワーレコードでWilliam Parkerの新譜を見つけるたびに必ず購入しています。
何より『Scrapbook』が自分にとっては、もういちど(いや、はじめて?)ジャズを聴きなおし始めるきっかけになった。
Scrapbook

Scrapbook

フリーインプロを聴き直し(聴きはじめ)てすぐに好きになったのが、同じベーシスト、ピーター・コヴァルトとの共演『The Victoriaville Tape』で、ベース好きなのでこのアルバムは今でも年に数回聴く。
Victorianville Tape

Victorianville Tape

自分がこのお気に入り盤を見つけてすぐにコヴァルトは帰らぬ人となってしまい下のこのアルバムがリリースされた。
REQUIEM

REQUIEM

Charles Gayleのアルトサックス1管のほかは、Henry Grimes、 Alan Silva、 Sirone、 William Parkerのベース四本という、凄まじく窒息しそうな面子で地の底から天上へコヴァルドの魂と記憶を送り出していた。
このあと、Parkerの作品のなかで最も売れて欲しい豊饒な音楽のルツボ『Long Hidden』が出る。
Long Hidden: The Olmec Series

Long Hidden: The Olmec Series

最近出たカーティス・メイフィールドの作品集も面白かった。


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今年は自分にとって「ヒップホップをちゃんと聴く」元年になっていて、その遅さ自体は弁解の余地を通りすぎているのでどうしようもないが、本人としてはやはり大学時代にロックをまとめてまるごと聴き直したのと同じくらいの豊富なコンテンツと充実したヒストリーがヒップホップにもあるので、楽しくてしょうがない、としか言えない。それが、まとぞろガイド本を参照しつつの「お勉強聴き」、だとしても。

パンク・ニューウェーヴ〜ノイズ回路のリスナーだった頃に引っかかったヒップホップというと、やっぱり多少メロウでメロディアスなアプローチに長けていないと、こちらに「聴く耳」がないといういうか、明らかに聴く素地というものがなかったというしかないが、今年、あえて自分の好みの線、というのを放棄して(こういうことができるのが「楽しい」ということなのでもある)過去名盤を掘り返しながら思ったのは、昔「これなら聴ける」と思っていたデ・ラ・ソウルや当時聴いてはいないが似た位置のブランド・ヌビアンなんかのメロウさ、というかセンスの良さというのが、むしろなにか物足り無いということで、それはあえて言葉にすると「屋上屋」な感じがするということなんである(なにせいちばん「即効性」があると感じたのはNWAの「Straight outa Compton」だったりもするから。自分には口ずさむ歌や瞑想する音ではなくて「戦う音楽」が必要だと思ったのだろうか)。

ただガイド本片手の掘り方も時間の堆積に窒息しそうになることがある。「今の空気が欲しい!」ということなのだと思う。
なにかと話題のOFWGKTA(オッド・フューチャー)のタイラー・ザ・クリエイターなども試聴機で聴いてみたが、自分にはおどろおどろし過ぎたようで硫黄のように噴出してくる悪意に当てられてしまい、隣に置いてあったこのアルバムを購入することになった。

When Fish Ride Bicycles

When Fish Ride Bicycles

このシカゴの二人組は、たぶん、もう新人とはいえないくらいのキャリアなのかな、と思う。良く知らない。まずジャケットが素晴らしい。まるで「東京ロッカーズ」の「シュルツ・ハルナ」氏を撮影した地引雄一氏の写真なのではないかと思ってしまった。
ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン(DVD付)

ストリート・キングダム―東京ロッカーズと80’sインディーズ・シーン(DVD付)

地引さんの写真は魚人がのそりとLOFTを訪なうだけだが(それが良いのだが)、シカゴのガキどもはチャリンコに乗って疾走するのである。
小気味良い手作りのループやビート、サンプリングのトラックにライムが走りはじめたら「止まれない、止めはしない」真っ当なヒップホップの感じ、というのがあると思うのだけれど、そういう楽しさが、このアルバムにはあると思う。
Can't Stop Won't Stop: A History of the Hip-Hop Generation

Can't Stop Won't Stop: A History of the Hip-Hop Generation

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語

この本は、文化史本として必読書であると思う。1950年代の悪名高いロバート・モーゼスのブロンクスを分断する高速建設がゲットーを作りだし、ギャングの抗争に連鎖していく。そこにクール・ハークというひとりの男がジャマイカ音楽由来のサウンドシステムを使ってパーティーをやり始める。最初からそこにはDJとMCとブレイクダンスがあった。グラフィティもまもなく出揃う。文化的な成功がいっときギャングの抗争を時代遅れなものにするが、またギャングスタ・ラップが事態を巻き戻す。そしてシカゴ暴動がやってくる。今年のイギリスでの暴動と比べると色々と興味深い。いやでもそういう読み方になってしまった。


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ニューヨーク、狼たちの野望 [DVD]

ニューヨーク、狼たちの野望 [DVD]

ニューヨークやシカゴなどの大都市を舞台にちょっとでもギャング要素が絡むと日本の配給はなぜか「狼」とか「欲望」とか「野望」といった単語を使いたがるような印象がありそれがまったく理解できないが、この映画もそのひとつ。
しかし今更だけれど内容はとても真っ当な映画。リュック・ベッソンが制作に参加したようだが、ブルース・ウィルスなどが出なくてほうとうに良かった。

邦題は「ニューヨーク、狼たちの野望 」だが、原題は「Staten Island」で、当然だがこちらのほうが映画の内容を表している。
スタテンアイランド統一という野望に目覚めてしまい部下に裏切られたすえ突拍子もなく森林保護に走ってツリーハウス(ともいえない代物)に籠城するマフィアのドン役ヴィンセント・ドノフリオ
このドノフリオの家に押し入って金を強奪し産まれてくる息子の遺伝子治療の費用に充てたまではいいがすぐにマフィアに捕まってしまう運のない汚物処理人役のイーサン・ホーク
そしてドノフリオらマフィアの死体処理を嫌々引き受けてきた聾唖の老食肉店員役のシーモア・カッセル万馬券を引き当てる)。
主役が三人いるわけだが上手く三人の視点を塩梅している。特に、シーモア・カッセルは素晴らしい。孤独と沈黙の世界の充実と感情の浮き沈みを見事に表現しているとおもう。

この映画の物語を走らせる動機は、3人の主人公それぞれが自分の棲息するスタテンアイランドから、憧れや焦りや無感動をこめて見遣る対岸のブルックリンだかマンハッタンの景色だと思う。
同じNYであっても、決して中心とはなりえない土地スタテンアイランド。対岸のマンハッタン(もしくはブルックリン)の夢幻的な夜景は、それを目に入れざるを得ないスタテンアイランドの住人に、疎外感を与えずにいない。
それが少なくともドノフリオとコーエンに関しては「野望」と名付けるのもおこがましいような突拍子もない行動に走らせ自滅する。ドノフリオとコーエンはどこかでスタテンから対岸を眺めなくてはならない自分を受け入れることに失敗していたのだといえる。疎外を自分の沈黙の充実のなかに溶かしこむことが出来たカッセルだけが、明確な意思を持って物語を生き抜けることができた。
そんな筋の通し方の映画だったように思う。