みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

無限とは中くらいのものである『ノルウェーのジョン・ケージ』

nomrakenta2011-01-23



昨日ひさしぶりに瀧道を登りました。
年始に勝尾寺に詣でなかったので、じつは今年に入ってはじめての箕面山でした。最近の寒さが少し緩んだといっても瀧の上までくると、さすがに喉が痛くなるよな冷たい空気だった。
ガードレールの脚元の苔溜まりに未だ白い雪の名残があって、ああさすがに積もったのだなあと思った。

1月の週末は何をしてきたのかちょっと覚えていない。Iさん夫妻のお友達で、広島から出てこられた夫妻を出迎えてのパーティに寄らせていただいたのが、たしか先週末だったようにも。そこにおられたフランス人アーティストが宗教に詳しい方だった。
こちらがフランス語を解さないのでそのひとは英語で話してくれたのですが、日本人にとっての、というより、自分にとっての宗教というのは、仏教であろうと神道であろうと、平素意識はしないけれど薄い大気のように常に存在しているものです、ということを片言の英語で伝えようとしたのだけれど、上手くいったのかどうかわかりません。それにしても自分の(日本人の、とは一般化できない)宗教観を言葉にするのは難しい。

仏教と神道のどちかがベースにあるのか?ということすら口にしようとした途端に、どこか唇が寒くなる思いがする。

1月の初めに取り寄せた音源のなかにあったのが、Prismaというはじめてきくレーベルから2010年にリリースされたCDJohn Cage in Norway』

In Norway

In Norway

  1. First Construction (in Metal)
  2. Second Construction
  3. Music For Marcel Duschamp
  4. Third Construction
  5. Branches

これは2010年にバルセロナノルウェー「Henie Onstadアートセンター」で開催された『The Acarchy of Silence.John Cage and Experimental Art』という展覧会に合わせてリリースされたものであるらしく、音源は、1983年にケージが初めてノルウェーを訪れた折に、同じく「Henie Onstadアートセンター」で開かれたレクチャーとコンサートからのものである様子。
しっかりとした作りのライナーブックレットを読むと、このときのコンサートはもともとカセットテープのボックスとして35部限定で存在していたようす。ブックレット掲載のそのカセット集のプログラムにはケージのレクチャーや、「フリーマン・エチュード」と「プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード」の演奏が記載されているのだけれど、今手にしているCDに収められれているのは上の5つの曲だから、もともとのそのカセット集からパーカッション系の演目のみ抜粋したのがこのCDともいえるし、いやむしろ、ハードカバー仕様で60ページ以上もあるブックレットのほうがメインで、付録に5曲入りのCDがついたものといったほうがいいのかも。

このCDが抜粋版だから、なんともいえない感じなのかというとそんなことはなかった。
手元の白石美雪氏の本の作品年表によると、「First Construction (in Metal)」は1939年、「Second Construction」は第一番につづく1940年、「Third Construction」は1940年、というふうに3年連続して作曲されかつ初演されていて、ケージの打楽器時代を代表してもいるシリーズだと思う。棚のどこかに眠るWergo盤でいちどは聴いているはずなのですが、この盤で初めて聴くような鮮烈さを感じる。それはいたずらに激しいのではなく、また沈黙が多いわけでもなく怒涛のように鳴らされる金属楽器があるのにも関わらず、細かに分割されたリズムに関わらず、思考を促す静謐さを伴っている。
途中で挟み込まれるCD唯一のピアノ曲マルセル・デュシャンのための音楽」は写真をみるかぎり、ケージ自身がピアノのプリペアを行ったようす。あらためてこの曲の異国風の憧れとも倦怠ともつかないメロディーが面白いと思う。

このCDに手を出した大きな理由のひとつに、5曲目の「Branches」がありました。「枝々」。これは、不特定の人数で、演奏時間も易経で決定された8分の整数倍の時間であった場合の名前で、8分間の即興のためのシングルユニットとしての曲目は、もちろん「木の子供」。
独りでこの「Branches」を録音してみようと思いたって楽譜まで取り寄せたり、コンタクトマイクやらミニアンプなども購入したものの、このブログでも音沙汰しておりませんが、流れてしまったわけではないです。証拠に(といいますか)、昨年末は、付き合いの長いサボテンのてっぺんから数房を切り取らせてもらい、日影干しにして「楽器作成中」です(このエントリートップの画像)。しかし、さすがサボテンで、なかなか水気は抜けません。
このCDでの「Branches」は32分となった演奏のようす。ブックレットでは演奏者とインタビュアーとのこんなやり取りがあります。

Q:その時点で『Branches』のことを知っていましたか?
A:ストックホルムでそういう曲があるときいてはいました。
それは植物素材からなる「楽器」、とくにサボテンを使うことを企てられた曲です。
ところで、ケージのアパートメントはサボテンでいっぱいでした。彼はそれを「サボテンたちは演奏されるのを楽しんでいるようだ」といいました。しかしこの作品には同様にほかの植物も入っています。たとえばトウダイグサ(Mexican fireplant)の鞘で作ったガラガラです。私は「そんなものノルウェーでは手に入りませんよ」と言いました。すると彼は「じゃあ、ノルウェーの典型的な植物はどんなものなのかな?」ときいてきました。彼はトウヒ(エゾマツ)などをつかって『Branches』のノルウェー版をやるというアイデアにわくわくしていたみたいです。
『Third Construction』を演奏するために、私たちにはホラ貝も必要でしたので、彼は私がそれを仕入れにいくのに付き合ってくれましたよ。これらの準備は、ノルウェーで行うよりニューヨークでやったほうが簡単でした。ニューヨークで彼はクイーンズにある彼の作品の出版社「エディション・ピーターズ」に私を連れていきました。そこで私はすべての楽譜を手に入れたんです。
Q:楽譜、と仰いましたが…。『Branches』の場合は手書きのテキストのことですよね?
A:その通り、手書きで、しかも訂正がいっぱいしてあるやつです。それは基本的には「楽器」を選択するにあたっての方法と、どうやってそのすべてを組織するかについて書いてあるのであって、何がしかの音楽が記譜されているわけではありません。
そこにはどのようにして各演奏者がそれぞれのチャンスオペレーションに基づいたタイムテーブルを作成し、どの部分でどの楽器を使用するべきなのかが書いてあるだけなのです。そしてその最後の最後のしたのほうに「楽器による時間の構造を明確にするために、演奏者はストップウォッチを使って即興する。この即興はパフォーマンスである」と書いてあり、それが全てです。

ここで話題になっている『Branches』の楽譜がただの手書きのテキストであるというのは本当のこと。実際エディション・ピーターズから取り寄せてみると、楽譜を挟む厚手の紙の中にはカラーコピーのA4の紙が一枚。それもケージ独特の飾りの多い手書きの文字で訂正がやたらとしてあって読みにくいのなんの…。

ほかにもインタビューから抜き出しておくと…

僕らは自分たちの即興に夢中になって演奏を彼がどう思うか知りたがった。はじめの通し練習のあと、彼はただあそこに座っているだけだった。
黙ったまま。そして僕らは「彼は何を考えている?」と思っていた。何かがとても良くなかったことにだけはみんな気付いていた。でも彼は何も言わなかったんだ。

僕が演奏していた大きな木の幹にケージが「ほらここはとても美しい音がするよ」と言いながら近づいてきたのを憶えているよ。
僕にこうしろああしろという代わりに彼は木の幹にまっすぐ向かっていって、木の幹をこすったりコツコツやったりして耳をそばだてていた…それはとてもなく誘惑的な光景だった…というのも彼はとても美しい指をしていたし、そして彼の耳は今にも成長していくかのように大きな耳だったから。その大きな耳で、彼は幹の音を聴き、音の可能性を聴いたんだ。
これには自分の欲求を刺激されたね!そういうやりかたで彼は自分の考えについて教えてくれたわけだ。

もうひとつの問題は「即興」という用語だった。

僕たちはこの用語をジャズミュージシャン的に理解していたと思う。しかし、だんだんと注意の中心にいるべきなのは「僕ら」なのではなくて「音たち」なのだと気づくようになった。僕らがやるべきことは、葉っぱや小枝や木の幹やその他もろもろのもの達が、確実にそれら自身の音を表現できるように手助けしてやることだったんだ。

しかし「即興」という用語は、おもに演奏者に向けられていて、演奏者を指さして「さあやれ!」と言っているようなところがある。

ケージも、この用語については少なくとも議論の余地があることに同意したよ。

ケージとオーディエンスとのあいだで持たれた質疑応答の記録もブックレットは掲載していて、それをばらっと眺めるかぎり、ケージ独特の笑いがところどころで差し込まれた良い雰囲気のものだったのかもしれない。冒頭にアメリカでの芸術の実験の本拠だったブラック・マウンテンカレッジに尋ねられたときの返答は、とてもケージらしい。

ブラックマウンテンで一番重要だったと思うのは、人々がみな共に食事をしたという事実です。たとえば、あそこで私は作曲を教えましたが、誰も私と勉強をしたわけではないのです。しかし私は、ダイニングルームで、食事をしながらや食後適当に座りながらほとんどすべての人と話しましたし、それこそが、あそこでいろんなアイディアが交換されたやり方であったと同時に、あの場所に活気があった理由だと思っているのです。

ケージ関連では、今月ほかに2枚の新譜(といっても昨年…)を発見。

Etudes Boreales Harmonies

Etudes Boreales Harmonies

WERGOからピアノとチェロによるデュオ。星座を楽譜に用いた(という表現が正しいかのかどうか…)曲のひとつである『Etudes Boreales』と『Apartment House 1776』からの抜粋である『Harmonies』を交互に挟んで収録している。WERGOらしい真面目な演奏だと思う(のですが)。
Melodies & Harmonies

Melodies & Harmonies

こちらは1950年作の『6つのメロディー』と1985年作の『13のハーモニー』を交互に演奏したもの、だが、『13のハーモニー』はそもそも1976年に『連歌』と同時に演奏されるために作られた『Apartment House 1776』を1985年にR.ザハブが抜粋しヴァイオリンとキーボード用に編曲したものだから、上のWergo盤の『Harmonies』と、おそらくは同じ曲だと思う。どちらも『Apartment House 1776』を源としているのは確実で、もうひとつ書けば1976年は『Branches』が作られた年でもある(『木の子供』はその前年1975年)。『Harmonies』を演奏し録音することが、もしかしたら現在のケージ演奏者たちにとって重要なことになってきているのかもしれない、と思った。少し前の晩年の「ナンバー・ピース」がそうであったように。そしてこちらcol legno盤のほうは鍵盤楽器としてフェンダーローズを使用していて、その音色がとくにケージのCDでは異色のようで面白くなおかつ不思議と馴染んでも聴こえるのが5曲目「Melody3」あたりではないだろうか。

The Works for Violin Vol.6 / The String Quartets Vol.4, 44 Harmonies From Apartment House 1776; Cheap Imitation

The Works for Violin Vol.6 / The String Quartets Vol.4, 44 Harmonies From Apartment House 1776; Cheap Imitation

話は逸れますが、こうやって織り込むのではなくてガチで44個の『Harmonies』を取り上げたのが、もう5年も前になってしまうこのアルディッティの盤。たしかこの頃アルディッティカルテットは来日しており、金沢21世紀美術館で僕はダンスととも演奏されたのを聴きました。

話を戻して、この二つの盤のそれぞれの『Hamonies』や『In Norway』盤での『Music For Marcel Duschamp』のどこにも向かおうとせずただ発せられるままにたゆたおうとする音楽を聴いていると、「無限に中くらいのもの」というル・クレジオの長いエッセイのタイトルがとても似つかわしいもののように思えてくる。

物質的恍惚 (岩波文庫)

物質的恍惚 (岩波文庫)

このエッセイは最近岩波文庫になった『物質的恍惚』に収められている(と、いうか分厚いページの大半部分がこの「無限に中くらいのもの」になっている)

 ぼくの真実に近づくために、ぼくには直感および言語という貧しい道具しか持ち合わせがない。だがある程度は、これらの道具でぼくにとっては十分なのだ。確実性におけるそれらの貧しさは、偶然性における豊かさである。ぼくはぼく個人として語るべきではない。ぼくの中にいる他者たち、がらくた=他者、物体=他者たちを語るがままにすべきなのだ。ぼくの道具が合理的でないにしても、少なくともそれらが与えてくれる感動のおかげで、ぼくはぼくの意識の未知の領域を、これは半ばは喜び、半ばは苦労なのだが、ジグザグに進むことができる。人は知を持つと同時に強くあることはできない。ぼくはといえば、弱さを、眼差と言葉の孤絶、甘美なる埋没、滅亡の豊饒さを選びとる。
――ル・クレジオ『無限に中くらいのもの』岩波文庫「物質的恍惚」p.134

引用した文の頭の「言語」を「音」と読みかえてケージの音楽を語るのは、明らかに安易であざとい所業だ。しかしいくらかの心残りも確かにあることを認めて、そして「言葉」と「音」の重なりと異なりに思いを馳せてみるのもいいのかもしれない。

ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー

ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー

この本が出るまで、僕はケージの作品年表を確認するのに、1993年のケージ没後すぐに出た『MUSIC TODAY』(監修は武満徹)のケージ特集号の年表に頼っていた。もちろん間違っているわけではないのだと思うのだけれど、経年のため印刷インクが滲んできて読みにくくなっていたところに、この限りなく正しいサブタイトルを持った良書が出て、その年表には未発表曲のものさえあったのだった。


**
上の『John Cage in Norway』と一緒に届いたのが、下の2本のカセットテープ。

『Knit Prism / Growing
エレキギターの爪弾きとフィールドレコーディング。ギターは、たとえばソニック・ユースのアルバム『Badmoon Rising』の一曲目『Bravemen Run』という曲が始まる前に、穏やかなギターによるイントロが入っているが、それをもっと遅くゆるやかにして延々とやったような感じ(と書いてわかるひとは何人いるのか?)Knit Prismはカナダのオンタリオに住むMichael W. Pouwというひとの変名プロジェクトの様子。ブログスポットをみるといろんなカセットが出ているようなので、聴きたくなってしまい、いくつか注文してみた(届くのはいつになるやら)。海外の(日本も?)カセット・レーベルというのは楽しいことになっている様子。


『Nobuto Suda / Sensitive Fields
ギターによる音素材を何重にもループして重ねて作りだしたドローン、とのことですが、植物的な感性を感じます。これも当たり。

どちらもまったく予備知識のないアーティスト。
これらを僕は、とても小さなカセットプレイヤーで聴いた。


***

牛心隊長は高校生のころに「鱒仮面複製」を聴いてからずっと大好きですが、サッパはなぜか聴いてこなかった。作品数の膨大さにどこから聴いたらいいのかわからなかったのが主な理由でしたが、和久井光司さんの渾身の本ディスクガイドのおかげで少しずつザッパの森に分け入っていけそうな気がする。今までは隊長絡みの『ボンゴ・フュリー』やとりあえず最初からということで『フリークアウト』などの数枚しか聴いてこなかったのだから印象も何もない状態だったのです。
さっそく聴いてみた『ズート・アリューズ』と『シーク・ヤブーティ』。メラメラのギターがいいなあ。これがザッパのギターか…。とくに『シーク・ヤブーティ』。ポストパンク時代まっただ中にドロップされたことを思って聴くと楽しみも倍増でした。
Zoot Allures

Zoot Allures

Sheik Yerbouti

Sheik Yerbouti

本書の最後のほうになるけれど、ビーフハート関連者のアルバムということで、昨年も触れたモリス・テッパーの『Big Enough to Dissapear』そして『Eggtooth』もあげられていた。この二つのアルバムを僕は昔「クロスビート」誌のレビューで読んで知ったから、ベーシックな情報が和久井さんのそのレビューの文章だったのだなあとあたらためて思った。ミシシッピ・フレッド・マクダウェルのエピソードもそこで読んだのだ(今回も取り上げられています)。このエピソード、隊長らしくてとても好きです。