金曜の夜には土曜の朝が含有されている。土曜の夜には:ニコラ・フィリベール『すべての些細な事柄』
年甲斐もなくお酒が体に残った状態で朝帰りをしてしまったので、帰宅後そのまま瀧道への直行。
強い陽射しで空気のなかにも先週までの湿気が感じられない。明けたか、梅雨(お昼に大阪が梅雨明けしたと知りました)。
梅雨の時期はあまり瀧道に登らなかったので神社の坂を下りて瀧道に入ると耳にはいってくる川の音が新鮮に思えました。そして、今年初めて聴くように思える蝉の声が、谷間の木々の梢のあいだから湧いていた(このあと行った床屋さんできくとすでに先週から箕面では蝉が鳴いていたのらしいが)。
前の夜は、福島のはじめて連れていってもらったイタリア料理屋さんにておいしいワインを飲みすぎてしまったようで、まだだるいものが頭にずうんと残る中なんとか足を進めていると、10分くらいで汗がどかどかと噴き出してきた。
汗の出始めの数分は、我ながら死ぬんじゃないでしょうかと思うが、だんだんと身体にペースが浸透してくると、汗が額を伝うのも気持ちよくなってくる。
瀧から上へ蛇腹になったスロープを登っていくと、もう蝉の声は届かなくなった。ここまで谷間の空気はとても涼しかった。
途中に木漏れ日が溜まっているところが何か所かあって、そういう光の具合はとてもおもしろくて、山の中で海の底にいるような気がする。
木漏れ日を受けた羊歯が神々しいので写真を一枚撮ろうと思うと、羊歯がうっすら白銀の細い霞のような線を纏っているので綺麗だとおもっていると、それは蜘蛛の巣の繊維だった。
傍には中空に見事な網をかけて、真ん中でさかさまになって悠々としているちいさな蜘蛛がいた。
太陽の中で、これほどに美しく白くかがやくロープを、自分のからだの中からつむぎだして、羊歯のあいだに自分の城を編みあげて浮かべてしまうと、きっと蜘蛛は、しごく真っ当な満足のなかに、かすかに透明で誇らしい思いをもっているのかもしれない。きっとそうだ。
下の赤い蜘蛛は、上とは別の蜘蛛。いままさに、空中に身を投げ出して、自分の城をつくろうと糸をかけはじめている、ように見えた。
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汗をどかどか出して気持ちよく家に帰ってシャワーを浴び、自転車で会社に履いていくズボンの類をクリーニング屋さんに持っていく。その帰りに床屋に寄って、ソフトモヒカンをさらに短く刈ってもらうあいだに、駅前のファーストフード「domdom」とカメラ屋兼タバコ屋が潰れて数カ月経ち、今ふたつの店舗の壁を突き崩して改装しようとしているけれども何ができるのかねえという話。阪急駅前からヴィソラ方面に付近住民の暮らしの重点が移動してしまっているので、何をやってもかなり難しいよねえというのが二人のぼんやりした結論(理容・美容院は絶対もう要らん、と店員さん)(追記:後日、デイリーヤマザキになることが判明。…ミクローカルな話しになってしまいました。)。
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Twitterでつぶやいたら見てみたいというひとがいたので、Iさんのお宅でニコラ・フィリベールのドキュメンタリーを観よう、ということになり、数年前に購入していたDVDボックスをカバンに詰めて、のそのそと梅田に向かった。お土産に、阪神のデパ地下でボイルしたズワイガニと子持ちししゃもを一串買って向かう。
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ニコラ・フィリベールはフランスのドキュメンタリー映画監督ということ以外はじつのところよく知らない。若いころ『2000年のジョナス』を撮ったアラン・タネール監督の助監督をしていたというのは最近知りました。
時間はあまりなかったので、観たのは『すべての些細な事柄』だけ。
僕がニコラ・フィリベールという監督を知ったのも、このフィルムを撮った監督だったからだった。
一時期、フェリックス・ガタリが長年精神分析医として「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」の実践の場として携わったラ・ボルド精神病院を撮った映画があると知って探していたときに、ネットオークションで下のVTRを手に入れて初めて観たのだった。
ラ・ボルドは、大戦時のイタリアから患者たちを連れてフランスに脱出してきたという伝説の精神科医フランソワ・トスケルがつくり、ジャン・ウリとガタリが育てた場所、といえるのか。
観る前の自分には、そういうガタリ方面に寄りかかったバイアスがかなりあったのだけれど、このドキュメンタリーはそういう期待に応えるために撮られたものではなく、ただひたすら個性豊かな患者たちとその患者たちとときどき判別が難しくなる看護師たちが、散歩しながら、ご飯をたべながら、話合いながら、一年に一回病院の投資者などの聴衆の前で、患者たちが演じる劇(映画ではゴンブローヴィッチ)をみせる、その「お祭り」に向けての準備、そしてついに上演までこぎつける過程を、自分もラ・ボルドに滞在しているかのような視点で見ることになる。
このフィリベールの映画が優れていると思うのは、意図的な演出を抑えて自然な状態を撮る、というような形式だけのことではなく、「人を撮る」ということに対しての徹底的な慎ましさだろうと思う。フランスの評論家に「正しい距離」と評されたフィリベールの人に向けられたカメラについて、フィリベール自身は、それは概念や手法ではなく、カメラを人に向けたときにどうしても出てきしまう暴力・抑圧性をどうするか、どのようにして自分がカメラを持っていることを、レンズの前のひとに忘れてもらえるのか、ということだと、付録のインタビューで答えていた。
その言葉は、この『すべての些細な事柄』のなかでも、すべての「祭り」が終わったあと、風が吹くラ・ボルドのベンチのひとつに座りながら患者のひとりが、フィリベールの向けるカメラに向けて話しかける言葉「ここは家族のようなものだ。今はあなたもそのなかのひとりだ」に雄弁なかたちであらわれてもいた。
付け加えると、森に囲まれたラ・ボルドの光はとても心地がいい。
ちなみに、数年前に来日したラ・ボルドのジャン・ウリは、この映画に対して日本がつけたタイトル『すべての些細な事柄』に対しては異議を唱えていた。
「些細な」事柄などではない。事柄はすべて些細なことなどではない、といっているのを、どこかで読んたおぼえがあります。
- 作者: フェリックスガタリ,フランソワトスケル,菅原道哉,ジャンウリ,高江洲義英,ダニエルルロ,市川信也,F´elix Guattari,Danielle Roulot,Fran〓@7AB7@cois Tosquelles,Jean Oury,杉村昌昭,村沢真保呂,三脇康生
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