『死なないための葬送―荒川修作初期作品展』@中之島 国立国際美術館
荒川修作はこの二回展ではじめて棺桶の作品を作った。棺桶状の箱の中に絹で覆ったクッションがあり、その上に薄い綿で覆われたセメントの死体的な物体が恭々しく供えられている。
荒川にしても私にしても、その時期に展開していく自分のスタイルをその二回展のときに見つけていた。
――赤瀬川源平『反芸術アンパン』ちくま文庫 p.149
上のような記述に触れてから、荒川修作の初期作品(通称「棺桶型作品」)は見たいと思っていたのですが、ちょうど中之島の国立国際美術館で初期作品を集めた初の展覧会『死なないための葬送』が開催されているというのに、死に抗してきた作家自身が帰らぬ人になってしまった。
壮大なアイロニーに押しつぶされて一種の悲痛さが会場を包みこんでいるのではないかと怖々国立国際の地下1Fに足を踏み入れると、そんな思いこそ、荒川修作がたたかった「死」の思うつぼなのであり、いくぶんは確かに下卑た期待だったのだと知った。
終に一堂に会した荒川修作の初期作品が与えるものは、物語的な感傷とは程遠い、喉元に差し迫ってくる「絶句」だった。
たしかに、うわさ通り、エロスよりも明らかにタナトスに振り切った(この分類、大嫌いですが)セメントオブジェは、不気味な印象を与えずにいられない。
でも、単純にネクロフィリアな嗜好だけに基づいたものではないことは何点か続けてみると気がついてくる。「最期のオブジェ」というのにふさわしいものが繰り返されている迫力というものもある。
これらの作品の強烈さは、もちろん鎮座するセメントのことごとくの異形さにもあるけれど、「棺桶」という、あまりに意志的形式をとっていることで、作家の身振りそのものが伝わってくるためだとも思う。かつて、画廊ではじめて展示されたとき、棺桶作品の木箱の蓋は閉まっており、観人は自分で蓋をもちあげてやっと中の「もの」をみることができたともいうし、すでに作家・荒川修作の表現・語法が、「コンテンツ」に自家撞着するのではなく、見る者の「コンテクスト」にまで及んでいた、ということなのかもしれない。
その意味で、棺桶作品群は、作家が提示することと観る者とのあいだに永続的な運動を残しているのであって、それが、全体的に「死なないための」という表現が当たっていないように感じる要因かもしれない。
ここで文学的に言ってしまっていいのであれば、棺桶に収まっているセメントの造形物は、産まれる前に死んでいるように見え、その意味で葬送の予定からは免れているから。ひとつの箱毎に終わりを告げられているのは、対象に理解可能な表現内容をみようとする芸術作品への接し方、そのものなのかもしれない。
荒川修作は、その最初期にして芸術の「文学的なもの」に別れを告げていて、木箱の底、鮮やかな色の絹やコーデュロイに深々と沈むように置かれた物体は、名前さえつけてもらえなかった蛭子たちのようにも、痛みや悲しみが感情の域を通り越して凝固してしまったもののようにも見えた。
B2Fの同時開催がルノワールということもあって、入ってくる客のほとんどが素通りしていく雰囲気と、若干効き過ぎの全館冷房を差し引いたとしても、展示スペースに入り棺桶作品群を見渡したときには、すくなくとも2度くらいは気温が下がっているように感じた。
たぶん、これら荒川修作の棺桶たちの、ここまでそろった状態を観ることができることは、二度とないんじゃないだろうか。
*
美術館を出たら12時前。完全な夏日だったけれど、淀川沿いに歩いて梅田まで戻ることに。
ドーチカに辿りついてからは、梅田第一ビル地下のクラシック・ジャズ系レコ屋さん「ワルティー」で涼んでいた。すると、棚の一角に現代音楽系のレーベル「コルレーニョ」のCDが揃えてあるのでびっくり。コルレーニョ盤2枚購入。
- アーティスト: G. Scelsi
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- 発売日: 2003/05/01
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同じく、第一ビル地下の純喫茶「マヅラ」に久し振りに入ってアイスコーヒー。前の勤め先の頃、営業の合間によく使わせてもらっていました。お客のビルがすぐそこだったし(今はハービスエントのテナントに入ってしまった)決して「カフェ」でなく「喫茶」であるという、60年代な内装が自分のような人間には安心感を与えるお店だった。たぶん4年ぶりくらいに店内に入ると、さすがに土曜日でガランとしていたけれど、あのころもいた老ウェイトレスがてきぱきと席を案内してくれた(空いていても、一人で4人席に座ろうとすると別料金をとられたっけ)。まだ健在なんすね。