みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

新緑、ゲゲゲとリヒトにアペル

nomrakenta2010-05-16



ちゅらさん』のあと、まったく朝ドラを見なくなったのは、たんに自分の勤め先が変って家を出る時間が早くなったというだけではなく単純に興味がわかなかったからですが、今季の『ゲゲゲの女房』は、よくぞ企画したNHK、という気がしていて録画しても全部見たいなあと思っています(すでに何回か見逃して頓挫しましたが)。

そういうわけで、家人に録りためてもらっていた先週分のNHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』を全部観ていたら、ちょうど「墓場鬼太郎」の原稿料がもらえず貸本業界が駄目になっていくのと合わせて、水木しげるが貸本で漫画を描きはじめる前にやっていた紙芝居の親方が金の無心に尋ねてきて、紙芝居というものがなくなっていくときの回想が入るようになった。

基本的に、中学生の頃『ほんまにオレはアホやろか』を読まなければ、違う感性の人間になっていた筈ですので、水木しげるというひとは、漫画という文化の前史から作品のたちあがりを教えてくれる稀有な作家というだけではなくて、人や世界の捉え方自体がおもしろいと思っています。だいたい「ご飯がちゃんと食べれないから、戦争というのは嫌なものだ」という発言には、すべてのバイアスをそぎ落としたうえでの人間の原基があるようにも。
戦中・戦後のエピソードは漫画の中でも繰り返し描かれてきたし、「昭和史」などで読むと時系列でほとんどが読めて楽しいのだけれど、戦争も思想も貧乏も(ついでに眼には見えないけれど「いる」ものたちも)水木しげるを通すと嘘も力みもなく伝わってくる。テレビでたまに目にするあのひょうひょうとした人となりは、納得できないものは絶対納得しないという形で受け入れる芯の強さと度量に裏打ちされているような気がする。いずれにせよ、水木しげるという人の物語が、漫画ファンだけのものであってはもったいないということに数年前から世間は気づいているようで、今回の連ドラがその最終段階というようにも思える。

特にこのあたりの貸本業界の話と紙芝居の話を同時にやってしまうのは、尺が限られているからだろうけれど、乙なことをしてくれるなあと思う。今描かれている時期は、作品でいえば名作『突撃!悪魔くん』の少し前あたりなんだろうか。そんなことを考えながら朝ドラを見るのは、とても楽しいというわけです。

サン・コミックスから出ていた自伝的要素の強い短編集。少年時代から徴兵までを描いた「落第王」、軍隊時代の「にがい朝食」、終戦後のあやしい人間群像「街の詩人たち」、漫画家時代の極貧期を描いた「突撃!悪魔くん」、同じく漫画家時代のホラー仕立ての「残暑」、そして水木プロのアシスタントだった池上遼一を描いた「漫画狂の詩」、戦友とかつての戦地を訊ねた「招かれた三人」。水木しげるの人生を時系列で切り取った短編集ともいえるかと。そういえばここに収録されている短編はほとんどが部分的に『昭和史』のエピソードとして組み込まれていました。

コミック昭和史(6)終戦から朝鮮戦争 (講談社文庫)

コミック昭和史(6)終戦から朝鮮戦争 (講談社文庫)

連ドラをまとめて見たあとにやしきたかじんの『そこまで言って委員会』を見ると、田原総一郎は出ているは、池田信夫は出ているは、北野武は出ているはで、凄い面子。しかも話題は放送と通信。最後に原口大臣まで出てきて、iPadNHK大河ドラマを見て歴史の勉強ができると発言していた。教科書替わりに、iPadを使うというのは結構だし、間違いなくそうなっていく気もするが、史実と脚色の境は誰が教えてくれるのか?そうか、そういうコンテンツをつくれば産業が生まれるという意味か(ちょっとちがうだろう)。iPadで見るコンテンツには、ニコニコ動画みたいな機能のON/OFFをつけるべき。


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昨日瀧道へ出かけたら、途中の神社の小さな参道で何やら大きな剥き出しの木材を地面に置いて寸法を測っている。木材の形をよくみると、両端にいくにつれて微妙な反り返りがあって、どうも鳥居の笠木か島木になるものらしい。すると、新しい鳥居か今の鳥居を取りかえる準備でもしているんだろうか。いずれにしても、そんな光景をみるのは初めてだなと思って通り過ぎた。
瀧道では、川っぺりの数箇所で「かわゆか」と称して、桟敷席を設けていた。今年から始めたことみたいだけど、お昼前に行ったのでこれからここでご飯でもというひとも多く、まずまず席は埋まっていた。気持ちよさそう。
季節によって瀧道の表情は変わっていくので、楽しいのだけれど、今日は陽射を浴びた新緑が鮮やかで、陽射は少しきつかったが風が吹いたり物影に入るとちょうどいいすがすがしい散歩になった。
帰り(下り)に、左端の視界の奥に光がゆれるのを感じて、振り返ると大きなシダが、木漏れ日を浴びてゆらめいていた。


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歩いているあいだは、前の晩にiPhoneに仕込んだばかりの音源を聴いていた。
特に帰りの道中ずっとヘッドフォンから流れていたのは、NYのギタリスト、アラン・リヒトのアルバム『A New York Minute』の後半の30分くらいの長さの曲。指弾きではなくて、おそらく「Eボウ」のようなもので弦にあたる角度を微妙に調整して、おそろしく息の長い細かな蠕動とドローンをコントールして変化のあるものにしている。大らかな起伏は、はじめトニー・コンラッドヴィオラ・ドローンのようにも聴けるのだけれど、だんだんとギターの弦の細かな振動のほうにも注意が向いていく。しばらくすると、また大きな起伏のほうに注意が向く、そういう繰り返しのなかで次第に背後からフィードバックの轟音がゆっくりとせりあがってくる、と30分間は決して長くないのだと言える。そして最後の数分にやっと爪弾きが入るのも、満を持してという感じがする。このアルバムは、金曜の夜にレンタル屋さんに置いていなかったのでもしやと思ったiTuneのストアにあったのだった。

1曲目の『A New York Minute』は、おそらくはNYのラジオ局の天気予報の放送を延々と取り込んでうしろで幽かなノイズを流している。全体としてバラエティに富んだ内容になっていて、アラン・リヒトの代表作、というのも納得がいく。

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金曜の夜に、アラン・リヒトのアルバムが何かないかなと思ってひさしぶりにK2レコードに出向いたのだけれど生憎無かったのですが、急に「FUGAZI」を聴こうと思い立ち数枚まとめてレンタル。
Steady Diet of NothingIn on the Kill TakerEnd HitsArgument
リアルタイムではほとんど聴かなかった「FUGAZI」。高校を卒業するくらいの時に彼らのファーストアルバム『13 Songs』を聴いたおぼえがあって、激しい曲の中に爆発と冷静がバランスを保っているなあと印象していたのが、昨日からアルバムを何枚か発表年順に聴いていくとその印象が最後まで続いていくので驚いた(昔はその「バランス」自体が歯痒いと感じていた)。昔はフガジの聴き方がわからなかった。今はジョー・ラリーの愚直に思慮深げなベースラインを軸に接すれば定点観測できることがわかったのだけれど、ベーシストのソロから遡及して聴くというのはちょっと邪道なのかもしれない。でも、こういう聴き方は、この前iPhoneに落して読んだ『電子書籍の衝撃』でも引用されていたブライアン・イーノのコメントではないですが、自分だけの話ではなくて、もっと増えていくような気がする。ポピュラー音楽から時系列が消える、まではいかなくとも、最新の音楽が一番良い、というマーケティング上の暗黙の了解は徹底的に弱められていく。


他には、同じくディスコードの「Black Eyes」2枚(すでに解散しているみたい)、関西のブルースマンAZUMIの2000年松本・菜じゃでの『実況録音盤』(これは凄い演奏)、加川良の『アウト・オブ・マインド』、リヒトはなかったけれど恩田晃はあったので『ボン・ボヤージュ』と『アン・プティ・トゥール』の2枚、マッツ・グスタフソンのThe Thing関連3枚。

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帰宅したら、注文していたCD(-R)が2枚届いていた。
『Karel Appel - Musique Barbare』と『Joan La Barbara - Tapesongs』。どちらも電子音楽実験音楽の復刻をしているらしいMushroom Soundsというレーベルから出ているもので、CD-Rなのでお値段もやさしい。

カレル・アペルはオランダの現代美術の画家で、抽象と具象の境目自体を破壊しようとしたアンフォルメルの運動『コブラ』の立役者だったかと。激しい筆触でデフォルメというよりも何にも寄りかからない形態をその場で生みだす感じ。そこまでならば美術史的には「アクション」のひとことで終わりですが、カレル・アペルの場合は、荒々しい画面でもどこか素朴な表情が備わっているところがミソ。むかし、倉敷の大原美術館で絵を一枚見た気がする。現代美術作家の音源というと、ジャン・ティンゲリーやジャン・デビュッフェが先ず頭に浮かびますが(デビュッフェも、ごく乱暴な腑分けでいえばアンフォルメルの画家だった)、カレル・アペルまでが音源を残していたとは!

絵の具を壁面にぶちまけたり、ドラムを親と先祖の仇であるかのような表情でぶっ叩いている写真と、テープに包った凶暴なガラモンのようなお姿から想像されるものよりは、なかみの演奏は若干知的な印象を与えるかも。たしかにドラムを連打し「俺の絵の具チューブはロケットだ!」とか「俺は絵を描いているんじゃない。俺は撃っているんだ!」と連呼・絶叫しているのだけれど、併走するようにテープによる電子音が流れているし、絶叫もいくらかテープ操作でスティーブ・ライヒのような効果を出している箇所がある。1963年の作品とのこと。

ジョアン・ラ・バーバラのほうも、テープを頭からかぶっていて、なんなんだろうこの符号は、という感じですが、これは1977年のもの。ささやくような声、鳥のようなさえずり、イヌイットのような喉唄、バーバラの歌唱法の織物になっている。

Mushroom Soundsさん、こんどはぜひドイツのA.R.ペンク(奈良美智』のお師匠)の音源を出してください…。

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虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

こんな作家がいたとは、手にとってはじめて知りました。植物、虫、カミナリ、ねじ、と移し身を変えていきながら、どれも切なさと幸福感の高純度の混合した世界になっている。バックボーンに稲垣足穂があるように感じる。稲垣足穂的、という意味でいえば、昔の(ネコムシ・ストーリーズの作家になる前の)イタガキノブオの描いていた良質な世界とも通じている気がするが、機械仕掛けの繊細さよりは、はるかに物語ることにおいてたくましい気もします。比較するのはもちろん間違いなのだけれど。