みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

目患いと桜:Zeitkratzerの現代音楽2枚、ステファン・ナドー『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』、リチャード・ブローティガンの未発表作品集

nomrakenta2010-04-10



並木の桜も散り始めています。来週には終ってしまいそう。でも、この1週間、朝の通勤時には贅沢な気分を味わえた。
今日は、瀧道には行かず、朝から眼科に行って患っている結膜炎の薬をもらってきました。
クリニックを出たあと、パンを買うために普段は通らない西小路あたりの路地に入ってみると、児童公園のそばに一本の桜の木があって、この樹はまだ8割以上花がついていてぽっかりと咲き誇っているかんじだった、立ち止まってちょっと呆けたように眺めたあとデジカメをトートから取り出そうとしていると、横から「きれいねえ」という同意を求めるおばさんの声がした。自分とほぼ同時に立ち止まって桜の木を見上げていたおばさんがいたのだった。「きれいですねえ」と返すとおばさんは「こんなに咲いてくれるとねえ」とこちらに向けて云う訳でもなくつぶやいて去っていった。

新年度早々かかってしまった結膜炎はウイルス性だった。どこからもらったのかわからない。初めての両目の酷いに充血に心底怯えてしまい、先生の言った言葉の単語をiPhoneで検索(ひ)き検索(ひ)き、ハンカチは封印して使い捨てれるティッシュで目を拭き拭き、処方してもらった2種の点眼薬をせっせと注しながら、通勤・就寝時の読書も止めた。おかげて赤目も引いていってくれました。
視力が弱くなると朧な視覚を補うように第六感が発達し人の記憶や思考が映像として視えるようになる…というのはどこかのミステリ小説の設定だが、僕の場合は、世界の神秘が音符として視えて耳にも音楽として聴こえてくる…と書きたいところですが、そんなことはまったくなく、ただただ不自由であり、しょんぼりと委縮して精神的な免疫も弱っているなと感じた。そんなわけで、だんだん輪郭を取り戻してきた視界のなかで桜が咲いていることを認めることができるのは、やはり嬉しい。

帰りに通った坂道並木の桜は、すでに3割くらいの花弁を落としていたけれど、淡い桜色と花弁を落としたあとの濃いピンク、そして若葉の新鮮なエメラルドグリーンが混じり合って、いまの一時しか見ることができない状態であり、これはこれで美しいといえるすがたなのでした。


家に帰ると、点眼薬を注してからスパゲティを茹でて食べ、目を休めるために音楽を聴きながら昼寝をした。
昨日、日本の即興音楽専門のサイト「Fttari(ふたり)」に注文していたCD・DVD類が届いていたので、わくわくである。
そのうちCD2枚が、Lou Reedのメタルマシーンミュージックの「演奏」で有名になった(と、少なくとも僕は思っている)ドイツのグループ「Zeitkratzer」が、John Cage作品(Four6、Five、Hymnkus)を演奏した盤と、同じようにJames Tenney作品(Critical Band、Harmonium、Koan:Having Never Written A Note For Percussion)を演奏した盤。

John Cage

John Cage

James Tenney

James Tenney

Zeitkratzerらしく(といっていいのか数枚しか聴いていないからわからないのだけれど)、現代音楽としては「ロック的」とさえ言ってよさそうなはっきりと粒立った「出音」で、それはたとえば、ModeやWandelweiserといったレーベルの演奏・録音からくる印象とはその点は大きく異なっていると思う。とくに、James Tenney盤の溌剌としたドローンな演奏は、緩んできた気候にもよく合うようで、気持ち良く、気づいたら眠ってしまっていたので、また再生しなおして聴いた。そういえば、どちらも故人だな、と今気づいた。ケージはだいぶになるがテニーはここ数年の話だったと思う。昨年から編纂シリーズがリリースされ始めているアール・ブラウンもそうだ。現代音楽の作曲家はみんな故人になって、名前になって、完全なアーカイヴ化が進んでいる。そしてこの2枚のCDのジャケットには、「Old School」とはっきりクレジットされている。これから続くシリーズなんだろうか。だとしたら楽しみではあります。
ジャケットや盤面のデザインが良いのも特筆もの。ケージはキウイフルーツで、盤面もこのとおり爽やかな果汁がほとばしってきそう。

思わず、カクテルズの「Peel」を思い出してしまいましたが(「Miss Maple」っていう曲が入っていた、たしか)。
Peel

Peel


目を患っているというのに、昨日の会社の帰りに手にとってしまったのが、ステファン・ナドーの『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』asin:489176760X

ナドーは『カフカ夢分析』や『アンチ・オイディプス草稿』といった最近日本で出版されたフェリックス・ガタリの著作の編集者で、ガタリに再度光をあてる動きの立役者といえるのだと思う。今年来日もするようだ。『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』は彼が4年前に書いた著作の様子。訳者の書いた「あとがき」から読み始めるとかなりおもしろそう。

 かつてガタリは「くたばらないために書く、あるいは別のくたばり方をするために」と書いた。本書はしたがって、そうしたさしあたりこのままではくたばりそうだと思っており、とりあえずくたばらないためになにかを読みたいと感じており、かと言って誰かになにをすればいいのか教えてくれとは思わない、なぜなら立ち向かわねばならない対象は多分違うから、という読者を狙っていると、ひとまずは言ってよい。

 そのときに必要なのは、これも本書の言葉を借りれば、たとえば『夢解釈』の白紙のページを前にしたフロイトと同じところに立つことであって、そのフロイトの解釈そのものを模倣することではない。問題系を立ち上げるところを模倣するのであって、問題系のなかでの正しい回答を模倣することではない。
――信友建志によるあとがき『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』

さしあたり、とりあえず、かと言って、なぜなら、ひとまずは、のたたみかけがなんとも格好いい。思わず喝采を送りたくなる。
ガタリといえば、気付くのがだいぶ遅れてしまいましたが、池田信夫ブログが、『アンチ・オイディプス草稿』について触れていた。ちょっとびっくりしたのですが今日はマルコム・マクラレンの死について触れてあったので、そう驚くことでもないようです。マルコムさん、あなたは90年代に、音楽がスターになる時代じゃない、今はスポーツ選手がスターだといっていましたね。とても正直なシチュオニストだったんだと思う。あなたが仕掛けたバンドのいくつかの曲は、今でも時々耳にすると元気になります。おやすみなさい。


もう一冊、リチャード・ブローティガンの未発表作品集『エドナ・ウェブスターへの贈り物』が出ていた。詩のようなものから3,4ページの短編まで収められている様子。2月末には出ていたようだけれど昨日気付いた、だから自分にとっては新刊(強弁)!訳はもちろん藤本和子さんである。藤本和子でなければならない。「ブローティガンの著作のわたしの翻訳の仕事の終着駅になるだろう」。それはもう、言うまでもないではないですか。

立っているとき、かれはたびたび両腕を胸の前で交差して背中にまわし、自分を抱きかかえるような格好をした。わたしはたいした者ではありませんと伝えるかのように、おおきなからだを小さく見せたいような気持ちなのか、ととっさに軽々しくわたしは想像した。
 そうではなくて、なにかの攻撃から身をまもろうとする無意識の動作なのかもしれない、とも感じた。
――藤本和子によるあとがき『エドナ・ウェブスターへの贈り物』