みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

春場所初日・映画『NO NEW YORK 1984-91』・ドゥルッティ・コラム『Paean to Wilson』

Iさんご夫妻に誘われて、生まれてはじめての相撲観戦。春場所大阪府立体育館がこんなに職場と近かったとは…!序の二の段くらいから観ましたが、幕入りまではスカスカでそれも居心地のいい感じだったですが、幕入りになるとみるみる客席が埋まりはじめて、朝青龍の件でチケットがさばけていないとかききましたが、どこが?という気がした。幕入り後は、やっぱり相撲の迫力が全然違っていることはど素人にもわかるのがおもしろかった。苦手な気がしていた高見盛が凄い人気なのに驚いて、見方が変わりました。最後の弓取りとか、ああいう儀式っぽい動きが楽しい。土俵っていろんな色がそのうえで起こっていてカラフルなんだな。

NO NEW YORK 1984-91 [DVD]

NO NEW YORK 1984-91 [DVD]

昨日は、ツタヤで借りてきたこのドキュメンタリー。
多分、同年代なのであろうフランス人の女性が撮ったNoNewYork関連のものですが、リチャード・カーンやニック・ゼッドなんかのいわゆる『破戒映画』のシーンをまとめたもの。No NewYorkといっても直接関連がある人物は女優(?)として活動してもいたリディア・ランチくらいで、直接な関連というよりも、あのパンクよりもノーフューチャーな皮膚感覚だけ(マーズとDNAは知的で破壊的で今でも大好きなんですが)の音楽をBGMもしくは養分として出てきた幾人かの写真家・映画作家たちのドキュメンタリー、くらいに考えたほうがいい。そういえば、グレッグ・アラキなんて人もいたけど、あのひともこのあたりと関連があったりもしただろうか…。

たしかに、リチャード・カーン的なテイストがその後の写真家にも感じられるのは確かだと思うけれども、我田引水な感もちょっとあって、たとえば、影響を受けた写真家として、ラリー・クラークの名前が挙がっていたりしたが、個人的にラリー・クラークの写真にリチャード・カーンの影響はまったく感じない。ラリー・クラークの絶望はもっと乾き果てていてしかも優雅で古典的だ。リチャード・カーンは擬古典的だと思う。わずかな期間、東京のデザイン事務所で働いていたとき、ラリー・クラークのプリントを原稿として直接見る機会があって、そのとき見たモノクロプリントの美しさはちょっと忘れられない。
ま、それはどうでもいいですが。

Tulsa

Tulsa

New York Girls (Amuses Gueules)

New York Girls (Amuses Gueules)

NONewYorkとその後のフィータス、スワンズソニック・ユースの初期(音楽的には「バッドムーンライジング」まで、と言ってみることができるでしょう)なんかの蠢いていた「NYジャンク」なシーンは、音楽だけでなくて、映像の世界でも、孤立したNYの人間たちを容赦なく曝け出してしたわけです。この頃のことは、中学生くらいだった僕は、雑誌の「フールズメイト」なんかで随分後追いで知ったくらいで、既に伝説になっている世界だった。

で、今初めてみる映画からの断片なんかが含まれるこのドキュメンタリーを見て何を感じたかというと、まあ、いろんな意味でニュー・ヨークという狭い世界でのカルトなムーブメントの良いサンプルだよなという、自分でも意外なほどドライな感慨で、むしろ当時から作家たちをリスペクトしながらも距離を置いていたというソニック・ユースのサーストンの言葉に、強い同情を感じるものでした。サーストンたちにすれば、自分たちのホームグラウンドであるNYアンダーグラウンドの過激な部分(リディア・ランチや破戒映画たち)と知的な部分(グレン・ブランカ)は断ち難い愛着のある根っこだった筈だが、そこに居座って死を迎えることはせずに、全米で盛り上がっていたハードコア・パンクやその他の無数のバンドのほうへ、彼らは向かっていった。自分たちのルーツを大切にしようとする愛着と、そこから自分たちを引き剝そうとするちからによる同心円の動きを、ソニック・ユースはここで得たのだなあと。

Paean To Wilson

Paean To Wilson

ドゥルッティ・コラムというかヴィニ・ライリーの魅力というのは、自分にとっては、シンプルで美しいメロディーをあまりにまっとうに弾いてしまうときに、そこにある種の震えというか、不穏さが抜きがたく表出されてしまう、という点に尽きてしまうのですが、このファクトリー・レコードの名物オーナー、故トニー・ウィルソンにささげれた組曲は、そんな美学を残しつつ、堅牢な構成など持たずに、ほとんど風景の連想のように過ぎ去っていく。それでいて、ある感情の芯は失わずに一種の静けさと和やかさの協調に至っているかのよう。女性ヴォーカルも入ってバラエティ豊かでありながら、万感の想いをこちらに押し付けるでもなく、あの『Sketch for Summer』を彷彿とさせる瞬間があったりもするのだ。

冒頭のスティーブ・ライヒの「イッツ・ゴナ・レイン」かと思うような、(おそらく)ウィルソンの言葉の反復差延から、ヴィニ・ライリーのギターが立ち上ってくるところは、今後もなにかとお世話になりそうです。

ドゥルッティ・コラムは、トニー・ウィルソンの子供だった。僕らは彼のファクトリー・クラブ・ナイトへの出演に初めて契約し、ファクトリー・レコードと契約した初めてのバンドだった。何年も僕らはたくさんのアルバムでともに仕事をしてきたけれど、トニーと僕がいつも口論してきたことがひとつあった。彼は、僕が歌うよりももっと音楽をつくり書くべきだということだった。
彼が死んでから、僕は、伝統的な曲構造を持たず、単に音楽的な内容にのみ関係する作品をつくることを決めた。僕の唯一の目的は、トニーがぜったい気に入る音楽を作り出すことだった。そして、それが出来たと思うよ。そして、かれの魂が生き続けるのなら―そう思いたいのだけれど―僕は彼に、この作品が彼のためのものであることを知ってほしいんだ。
――ヴィニ・ライリー ライナーより

僕としては、映画『24アワーズ・パーティー・ピープル』の最後に、天啓(?)を受けてドゥルッティ・コラムがまた必要とされるはずだ、とうなづくウィルソン、そして去年みたジョイ・ディヴィジョンのドキュメンタリーで、イアン・カーティスを回想するウィルソンの遠い目を思い浮かべてしまいます。