みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

「閉じられた世界で誰かが何かに恋をする。するととたんに世界が開かれる。」(F.ガタリ)

nomrakenta2010-01-24


※エントリーのタイトルは『精神の管理社会をどう超えるか?』(松籟社2000)からの引用。

昨日、アマゾンでお急ぎ便で注文したプリンターが、「ネプリーグ」を見ながらお昼を食べているときに届く。今までプリンタがいらない生活をしてきたのである…(スキャナーだけは持っていましたが…しかし今日でお払い箱)。
買ったのはエプソンのEP-802A。いちおう、昨日国道沿いのパソコンショップに寄って同じ機種を確認していたが、アマゾンのほうが圧倒的に安かった。それで次の日に届くならやはりアマゾンで、ということになる。
WiFiも使えるようでしたが面倒なのでUSB接続。ドライバをインストールしてから、A4の用紙がないことに気付いて、上記のパソコンショップに買いにいくが、なんと置いていない。なんだそれ、と思いながらもしかしてドンキホーテで超安く置いてるんじゃないかと思って足を向けるが、探し方がおかしいだけなのか、ドンキホーテにもない。ようやく用紙を購入できたのは、2軒目のコンビニで、だった。いつも自動車保険のおかげでご飯が食べれているというのに、私生活では好んで車に乗らない報いがこれなんだろか。
それにしても、10年前ならば、この箕面でも、歩いていける手近な範囲で不自由を感じることはなかったのに、完全に車社会として地域が再編成されてしまったことを、こんな些細なことからも痛いほど感じる。駅前が半シャッター街化していることもわかりやすすぎる例だろう。

年末にフェリックス・ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』の翻訳は出ないのかなあと、呟いていたら、impuissanceさんのブログ『菌曜日、午前三時』(金曜日の金が菌であることに少し共感を覚えたりするのはどうでもいい話ですが)で、近日中に翻訳が出ると知りました。
アマゾンに行ってみると、確かに予約受付中になっている。

アンチ・オイディプス草稿

アンチ・オイディプス草稿

さっそく予約注文を入れておきました。最近のみすず書房さんの気合の入りかたには、実に頼もしいものを感じます(←えらそうだし貧困)。かなり以前に「ウラゲツ・ブログ」で紹介されていた原書と同じ写真を使っているのがかなり嬉しい。
『アンチ・オイディプス』のアイデアのどれだけの部分がガタリからきているのかが本書で判明する!という帰属問題については、僕としてはそんなに重要だとは思っておらず、ただただ、もっとわけのわからない発想を爆発させるままに単語と単語の間を跳び回っているガタリを読みたいなあという願望があり、それについては、かなり期待できるのではないかという、あんまり純粋でも学究的でもない期待というのを寄せています。

アントニオ・ネグリ経由で左翼アクティヴィストとして再評価されたり『三つのエコロジー』が文庫化されたり、本書と同じくステファヌ・ナドーが関わった『カフカ夢分析』から、昨年の『ドゥルーズガタリ 交差的評伝』へと連綿と続いている感じがあって、ガタリにちゃんとスポットが当たるというのは今まで無かっただけに、良いことなんだろうと思います。ただ個人的には、それが単なる日本人の判官贔屓でないことが本書を読むことでわかれば尚良いな、と思っています。
また、最近は『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』(2008)以外に、ガタリが日本でリアルに思考されていることがあるのかな?とつい思ってしまう。リアルって言葉を不用意に使っていますが、かなり遅れてきたガタリ読者である僕自身、ガタリの左翼的な側面については殆どリアルに考えていないわけで。
刊行されていたりネットに散らばったりしているガタリ関連の資料を少しでも読めば明らかなように、ガタリの左翼オーガナイザーとしての側面(というより核心)は、ガタリの思考の核心でもあるわけですが、それでもどこかで僕は、ガタリってコミュニストよりはアナキストになりたかった人なんじゃないのかと妄想していたいのだと思う。
たとえば、ガタリがあと2年長く生きていたらサパティスタについてなんて言っただろうな、というような。


以下は昨年のうちにエントリーしようと思って書いていた(が、まとめられなくて結局大晦日にちょっとだけ触れるに終わった)フランソワ・ドスの『ドゥルーズガタリ 交差的評伝』の個人的な感想です。
もちろん、論旨もなにもない文章なんですけれども、今夜を逃すとたぶん絶対にエントリーに姿を現すことがないだろうという確信があるので、ここに引用のような体裁で載せておきます。

ドゥルーズとガタリ 交差的評伝

ドゥルーズとガタリ 交差的評伝

ドゥルーズガタリ 交差的評伝』
通勤時間を駆使し一か月くらいかけて通読。鞄が重かった…。
まず、この表紙のドゥルーズの横の人は誰だ?という感じだったのですが、そりゃフェリックス・ガタリその人でしかありえないのですが…若いなあ(ラボルド病院着任時)。(←このあたりは大晦日のエントリーに流用しています。そしていつも自分語りが始まる…→)自分が大学生になった頃には、すでにブームとしてのポストモダンもネオアカも退潮しきっていたのですが、「メタ文化論」などの、言ってしまえば穴埋め講義の講師の中には、まだボードリヤールだとかリオタールだとかを参考文献にあげる人がいました。そんな中で面白かったが、今は小説も書いているロシア・アヴァンギャルド研究者の大石雅彦氏の講義で、いかにも偏屈な雰囲気のなかで繰り出される固有名のなかにラカンフーコードゥルーズガタリの名前があったと思います。そこで聴く「未だ翻訳されていない「千の高原」」というようなことばは、本であるよりは、なにか過去のインディアスの破壊であるとかペリーの来航であるとか(例がよくわかりませんね)、歴史上の事件であるかのように僕には感じられたのであって、それはそれでちょっとは正解だった。

マレーヴィチ考―「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて

マレーヴィチ考―「ロシア・アヴァンギャルド」からの解放にむけて

モスクワの声

モスクワの声

ロシア・アヴァンギャルド遊泳―剰余のポエチカのために
「読書せねば、難しい本を読まねば!」とアオい気持ちで煮立ってしまっていた僕は、なけなしのバイト代で箱のような「アンチ・オイディプス」を購入し、たしか2日で読みとおすのを諦めたのでした。そのころは確か、「ミル・プラトー」の翻訳は出版されていなかった。
そのころ、ドゥルーズガタリが自分たちのことを「ポストモダン」などと言ったことがない、どころか批判的であったことなど、全く知りもしなかった。


翻訳者が杉山昌昭氏であることからも判る(のか?)ように、フランソワ・ドスによる本書は、「アンチ・オイディプス」(以下AO)「ミル・プラトー」(以下MP)で展開された思想的成果を、ドゥルーズのみに求め、ガタリを忘却していくような傾向への頑健な反論として書かれた印象が強いです。
第一章から、当然のようにガタリ側から伝記が語られ始め、ガタリの幼少期、それからラボルド医院とその制度論的精神分析の系譜から、病院を軸に社会に飛び出していくガタリの左翼的活動がみっしりと描き出していって、ドゥルーズの幼少期への言及が始まるのはなんと第五章(105ページ)から、という構成からも、その意図は強く伝わってくるのではないかと。
しかし、本書のような大著が編まれたのは、単にドゥルーズ(のみ)賛美傾向に抗するためだけではないとも思いました(その点のみでも意義深いとは思いますが)。

最初に精神分析家であり左翼活動家であったガタリが社会を熱く呼吸するさまから当時の知的・政治的状況を読者に地図として提示しておいて、そこに精緻な概念機械ごとき有能な哲学者ドゥルーズの描写が加わって併走していくような感覚を合わせていくことで、60年代の諸相が細かく描写されていって、時代の闘争的で祝祭的な熱さが動力となって、「AO」という本を産出したんだ(「真の68年の思想」(F.ドス))という事実を描き出すための、必要な過程だったのだろうとも思えます。
ただ、二人の共同作業については、あまり突っ込んだ描写がなく、どのようにして「AO」と「MP」を書いていったのかというスリルを求める人(わたし)にとっては、ちょっと淡泊かと。(←この辺の期待が、『アンチ・オイディプス草稿』に持ち越されます)


二人の幼少期から、その死まで、交差的に章立てすることで、2本の線の交点としてその思想を「比較的」わかりやすく書いていると思います。
ただし、一人一人の思想の研究としては、かなり端折っているとこもありそうなのと、かなり著者の主観というか思想が混じっている感もあるので、多少割引いて読む必要があるようにも思えます。
たぶん、ドゥルーズ研究としては全然物足りないところがあるんではなかろうか(自分はわかりやすくて助かりましたが)。

とはいえ、そういった著者によるバイアスについては、とりあえず気にせずに、全体的な俯瞰図をもらうつもりで、著者の年代記的にザクザク読ませる筆力に任せて読み切っていいかと思います。微調整・修正は各自の復習ということでしょう。

ガタリについていえば、ほとんど初めて幼少時から死までの伝記的記述が邦訳されて、なんとなくガタリという人の全体的な像が描けるようになるのではないかと思います。個人的には、「制度論的精神医学」の拠点であるラボルド医院に関わっていくあたりがおもしろいし、「冬の時代」80年代のガタリの落ち込みようには躁鬱的人間という以上に、足の踏み場がなくなった時代に霧散して消え行くようなひとりの思想家の苦しみが現れているように、僕は読みました。
あと、これは去年出た『カフカ夢分析』を読んでなんとなく想像していたのですが、フランツ・カフカへの拘りの源泉はガタリのものだったのだな、と確認できた気がします。


あとは、書いてもしょうがないといえばしょうがないのですが、たとえば、「ソーカル事件」については見事に一言も言及していない、っていうのに、ちょっと違和感を感じました。
それと、翻訳の誤字脱字がちらほらするのも結構気になりました。かなり突貫作業だったことは伺えますが…。

**

今日みたテレビでは、京丹後に住む112歳のおじいちゃんが、歴代の総理大臣で一番偉大だったのは?という質問に答えて、「伊藤博文」とお答えになっていました。むう…!テレビ的には、もすこし近い範囲で斬り込んで欲しかったのでは…しかし、そりゃそうなのか。



あ、こんなクリップだったんだ。らむひーらむひー♪



むかし、
「ほんとうに大切なものがあるなら、その大切なものが気にならなくなるまで、頑張らなくては駄目だ。」
と、ある人に言われたことを突然思い出しました。