みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

穴だらけの受容器とMax Tundra@梅田シャングリラ

nomrakenta2010-01-17



起きたら11時過ぎだった。
15年前の今日の早朝に起きた地震のことを考えると、自分の15年にも軽い眩暈を感じます。15年前の今日、自分は大学に試験を受けにいく日だった。その日から一年経って、兵庫県の印刷会社に就職して、東京へ行って、戻ってきてデザイン事務所に入り、また再就職をして今に至っている。
そして、ハイチの地震の報道を見ていると言葉が出ない。
建物や家財を目的とする保険の自賠責であるべき(と思う)地震保険が、いまだに単独で契約できない(火災保険とセット加入)というのはかなり融通が効かない状態で、保険会社側の対応が必須だろうと思う。


あわてて瀧道まで登っていった。谷には冷たい風が吹いていた。
デジカメを持っていったら中にメモリーが入っていなかった。
iPhoneで先週と昨夜iTunesで落したジミー・ライオンズとアンドリュー・シリルのデュオによる『Take The “A”Train』とかマックス・ツンドラの『Which Song』を聴いていた。
息をすると冷たい空気が喉を突き刺すようだったけれど、瀧の上までよいせよいせと歩いていくうちに、汗がごんごん流れてきて、冷たい大気もどんどん澄んでいくのがわかって、気持ちよくなっていった。
下り道、太陽が谷間に降り注いでいて、谷間の時間はそこから流れるのを躊躇っているようで、それは海の底だった。
黒くて奇麗な毛並みの犬を連れた、痩せた初老の男性とすれ違った。犬はなぜか、ひっぱられてもそれ以上動こうとしなかった。飼い主が食べ物を鼻先にかざしてみても目もくれずに、座り込んでしまうわけでもなく、頑なに足を踏ん張ってその目で進みたくないと訴えいていた。飼い主はなぜだかわからずに当惑してるようにも、そういう犬の気持ちをすべて了解しきっているようにも見えた。通り過ぎる一瞬の光景だったのだけれど、何か気になるところがあった。今、思い返すと、そのときちょっと上まで猿の家族が降りてきていたので、もしかしたらその気配を感じていたのかもしれない。


一昨日くらいから鞄に忍ばせて、余裕を見つけて読み進めているのが、市村弘正の『読むという生き方』。

読むという生き方

読むという生き方

2003年に出たエッセイ集で、前半は同タイトルの著者ご自身の「読書」と不可分だった生き方の進み行きが、独特の「自分」への距離感と選び抜かれた言葉で再(差異)構成されていくような読書感があります。
ちょうど第二節の著者の少年〜青年期の本との出会いを回想してみせた『様々な力の場』という章を読んでいるとこんな記述が。

 十六歳の高校生の内に、「物語」が侵入する。その未経験の面白さに圧倒され、未知の拡がりに驚かされ、そこに触知される深さに立ちすくむとき、少年が培ってきた読みの「手引き」に亀裂が生じざるをえない。そこにはどのような「力」が作用しているのか。子どもの時に作りあげた感覚という名の小さな羅針盤を頼りに受けとめようとするが、とても対応しきれず、その力は読みの素地に対する決定的な組成変更を促してゆく。
 自らに殺人を許容する理論や苦悩による贖いという難問を携えた一つの物語は、明らかに「境界線上」の思考と言葉によって造形されていた。境界線上の言葉による語りかけは、微細な閾の毛細血管を通して入りこむように高校生の全身に浸透していく。少年の側からすれば、その侵食による「敷居」の決壊によって制御装置を見失い、いわば無防備のまま幾つもの物語に曝され、それに刺し貫かれることになる。
――p.23 市村弘正『読むという生き方』

と書くのは、もちろん、今漫画が売れているアレです。

罪と罰7(アクションコミックス)

罪と罰7(アクションコミックス)

今また、埴谷雄高が言ったような10年くらいの周期での「ドストエフスキー熱」の波がきているのかもしれない(私は読んでいませんが…漫画の方は読んでますが…)。
もう一冊の「別の本」も挙げられていて、それは案の定「共産党宣言」で、ある種典型的な文学青年の「読み」を始めていったのかと思えるんですが、そこから遠く時間的に離れて(いる筈)綴るのは、著者独特な語彙による「場」の光景であるように思えます。

 手持ちの「読み」の文脈に亀裂を生みだし破壊していく力、分節不能な境界的な言葉によって隈なく浸透する力、読み手の内面に動かしがたく繋留する力、それを可能にする叙述と方法の力。これらの「力」は未経験の読者たる私を引き寄せることにおいて、誘惑する力や説得する力あるいは思弁的な力と呼んでよいかもしれない。
 端的にいえば、その浸透力や説得力に自覚的になるにしたがって、精神的内面を幾つもの力が貫いてゆく場所として自己を認識するようになる。微かな差異と様々な方向をもつ「力」がせめぎ合う身体を感受するようになる。それは匂いや気配にもとづく身体感覚とは異なる、「内面」の組織化として生成するものであった。いわば穴だらけの受容器としての「私」を抱えた若者にとって、到来する力はどのような痕跡を刻みつけていくのか。その痕跡や線条を読みとることと一つのものとして、読書という営みを遂行するほかない。様々な力によって書きこまれていく身体として、自己を受けとったとき、一個の小さな読書人が形成されたように思える。
――p.24-25 市村弘正『読むという生き方』

「穴だらけの受容器」という表現がそのまま、10年前くらいからの自分の感じ方にぴったりと一致するので驚くし、著者の可塑性に対する用心深さと誠実さを同時に感じます。「穴だらけ」だから厄介なのだし、また偶然性のトリガーがどこかで引かれているのであるようにも。

 思い切って言ってしまえば、内面を形成する「部品」は外からやってくる。この限りで外部が内面を生み出す。それが、本やその断片という部品によって構成され、浸透され尽したとき、そのような「内面」を抱える身体性をもつ「読書機械」が成立する。穴だらけの受容器というイメージは今でも悪くないと思うけれど、それはメカニックな機制とその解析において「読む」ことを考えるために活かすべきであったのだろう。
 もし種々の部品によって構成される機械と考えることができるなら、「かつて読んだ本はどこへ行ったのか」という問いは、蓄積や忘却の文脈とは別の意味連関のもとに置かれるだろう。まさしく距離の遠近ではなく、「部品」の価値の大小によって機能の仕方が異なり、「内面」の造作の仕方が異なるからである。「かつて読んだ本」は小さな部品に書きこまれているだけでなく、さまざまな部品のあいだの連繋としても作用しているだろう。読書機械というイメージは、少なくとも選択的かつ系統的な「読む主体」から距離をとり、身を引き剝すっことを可能にする。すなわち「自己欺瞞」の程度を軽減するだろう。
――p.26 市村弘正『読むという生き方』

著者が読書経験を擬えていく「機械」というイメージは、自分にとっては、ドゥルーズガタリを連想してしまうのだけれど、ここでは社会的な配備のことについて触れているわけではなく(もちろん無関係ではないのかも、ですが)、読書していく自分というものを再想起したときの連関のイメージが「機械」に託されていて、自己へのごまかし・耽溺から距離をとる工夫として再イメージされているところが、とても興味深いかと。

先日、ある人のツイッターから、「Kindleを使っている人の書籍購入が増加傾向にある」(大意)ということを知ったのですが、これもおもしろい現象だなと思う。Kindleは現状、書籍の代用として、よりも書籍の必要性を悟らせる導火線のように機能しているのかもしれない。どちらにしてもアマゾンに損は無いってのがまた…。



昨日は、梅田シャングリラに、Iさんご夫妻と、Max Tundraさんを観に行ってきました。
その前に4時くらいから淀川沿いのIさんのお宅から、通り過ぎて行く御堂筋線の地下鉄(陸にあがった地下鉄)とか車とか、冬の淀川の土手で遊ぶ子供とお父さんとか、次第に点っていく電灯とか、眺めながら土曜の冬の午後を満喫していました。

ライブのはじめは「Space Ponch」。

トリがレイ・ハラカミさんで、間に挟まれてツンドラさんがやりましたが、ツンドラさんのパフォーマンスはいきなり観客狂喜のハイ・テンションでした。じつは、ツンドラさんの音楽はほとんど知らなかったんですが(ジャケや名前は憶えがありましたが)、前日YouTubeでいくつかの映像を観て予習、こりゃおもしろうだなと思っていたら、本当に楽しかった。



ベースのトラックに重ねてキーボードや小物なんかをあわただしく織り交ぜながら演奏していくんですが、その合間合間の脇をパタパタさせる「ツンドラ・ダンス(というか、痙攣というか)」が、なんというか可愛いくもフリーキーな感じで良かったです。なぜか「スーザン・ボイル」を連発していたのも笑った。

このバーミンガムより、昨夜のほうが盛り上がっていたと思う。

レイ・ハラカミ。CDじゃなくて、タオルを売ってはりました。

DJさんも活躍。おかげで楽しいイベントでした。レイ・ハラカミさんを聴いているときに、Sさんも観に来ていることがわかって、皆で十三へ、Iさんご夫妻推薦の「つけ麺」食べに行こうという話にまとまって退場。
会場入り口付近で、岸野雄一さんとツンドラさんがそれぞれ談笑しておられるのに遭遇。お二人ともと握手してもらっちゃいました。岸野さん、いい人だった。そしてつけ麺。酸味がほどよく効いたタレが食欲を増進するので大盛りをなんなく完食。一緒に行った四人ともがiPhone使用者になっていたのがおもしろかった。でいろんなアプリを教えてもらいました。
で、12時過ぎに帰宅してちょっとインターネットみながら2時くらいまで起きている間、聴いていたのが、これでした。
Bill Wells/Annie Whitehead/Stefan Schneider/Barbara Morgenstern の『Paper of Pins』。

Paper of Pins

Paper of Pins

タワレコでジャケットを見て購入。
「ソフト」という言葉よりも誠実な雰囲気のエレクトロニカと生楽器のブレンドで、マックス・ツンドラを聴いた後に何が聴けるかなあーと思っていましたが、これははまりました。
聴いていると、ほわっとしたトロンボーンの音色がいい感じに端整な他の楽器の演奏を包んで寄り添っている。どこか懐かしいメロディーをゆったり吹いてくれるので和んでいたんですが、どこかでこのトロンボーンを聴いたことがあるような気がしたら、このAnnie Whiteheadという人は、ロバート・ワイアットのカバーアルバムなどでも演奏していた人だったみたい。この人のトロンボーンは無条件で良いな。
Bill Wellsという人についてあまり知らないのですが、マヘルと共演したこともある人のようで、残りのふたりは、TO ROCOCO ROTの人。