みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

本のまわりを2:スーザン・ソンタグのハルドール・ラクスネス『極北の秘教』への序文

nomrakenta2009-09-21


土曜日にひさしぶりに瀧道を、ビジターセンターまで歩きました。
朝はのんびりしたので、出かけたのは昼過ぎ。
1か月前なら暑くて駄目でしたが、いまや多少汗ばみはするものの、頭がクラクラするようなものではすでになかったし、谷に入ってから吹く風は、とても気持ち良いものにもなっていました。
気の強い夏の日差しが強烈すぎて、何にデジカメを向けても、色がとんでしまったかのようで、非常におもしろくなかったのですが、この日はそんなこともなく、ビジターセンターで緑をパシャパシャ。



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昨日、昼前に梅田に出て紀伊国屋に寄ってみると、スーザン・ソンタグの「新著」が出ているのを見つけた。手にとってみると、『同じ時のなかで』というタイトル、そして横向きで思案に沈んでいるような、しかし一瞬後にはしなやかで鋭い突っ込みを繰り出しそうなスーザン・ソンタグのモノクロのポートレイトが素晴らしく、これは良い本にちがいないなあと思ってしまいました。

同じ時のなかで

同じ時のなかで

目次をぴらぴらしていると、どうも知った固有名がある。注視してみると、「ハルドール・ラクスネス」!アイスランドノーベル文学賞作家ハルドール・ラクスネスの絶妙な小説『極北の秘教』についてのエッセイが収められていた。
思わず買って帰りの電車で読んでしまう。
小説の「語り口」からジャンル論、ジャンル論ごとに『極北の秘教』を落としこんでいく(いや、落とし切れない残余を言祝ぐ)ソンタグの文章はおもしろかったのだけれど、どうも妙な気がかりが消えない。
部屋に帰ってその日はそれについては考えずに寝てしまったのですが、今日、そのソンタグの文章が、『極北の秘教』の英語版のペーパーバックについていた序文だったことに気付いた。
ソンタグは、「ガリヴァー旅行記」や「トリストラム・シャンディ」「不思議の国のアリス」ステープルドン、カフカゴンブローヴィチカルヴィーノ、果てはポルノ小説など「小説と言い切ってしまっては奇妙な感じが残る」作品を列挙したうえで(ディックとヴォネガットも追加しておいてほしかった)、以下のようにまで書いている。

サイエンス・フィクション/お話、寓話、風喩/哲学小説/夢小説/幻想小説/空想文学/知恵の文学/いんちき/ 性的刺激剤
慣習を守るならば、二〇世紀の文学が生んだ不朽の名作の多くを、右の分類のどれかに入れなければならない。
私の知るかぎり、すべての分類にあてはまる唯一の小説は、ハルドール・ラクスネスの破天荒なまでに独創的で、難解で、大笑いできる『極北の秘教』だ。
――ソンタグ『異郷』p.140-141

ハルドール・ラクスネスの『極北の秘教』は、1979年に工作社から翻訳が出ていて、その古書を、僕は京都の『書肆 砂の書』さんのHPの短いけれど興味深いコメントに釣られて数年前に購入した。古書で小説を読むという体験の中で、これ以上無いくらいのレアーな名作に当たってしまった、という悦びを得たのがこの小説だった。

それから、この小説のことを語りたいのだけれど語る言葉が見つからず(見つからないまま、ソンタグが架けてくれた橋のうえから覗き見るようにして、この文章を書いています。)それでもこれ以上というないくらいに奇妙で、でも甘美で爽快な読後感が忘れられなくて去年アマゾンで英語版を見つけて購入していた。
1972年にアイスランド語から英語に翻訳されていたものに、2004年にスーザン・ソンタグによる序文をつけて出版されたペーパーバックだったけれど、今日表紙をあらためて見るまで気づかなかった。その序文が、『同じ時のなかで』に採録されているというわけです。

『極北の秘教』の物語は、強引にいうと、アイスランドの主教に、氷河麓の僻地でキリスト教への信仰をなくしてしまった牧師と教会の調査を託された青年−語り手である「わたし」−の旅、という風にでも書けるかもしれない。冒頭の主教と「わたし」の滑稽なやりとりから始まって、氷河麓で出会う人々との奇妙なやりとり、信仰を失くしたののかなんなのかよくわからないヨーン牧師、サン・ラばりに銀河と交信するというシングマン博士との問答。神話的な女性「ウーア」との出会い、そして全盛期のフェリーニの映画のようなシュールな結末。
はじめ、「わたし=ウムビ」が主教のためにつくる、硬さと滑稽さがない交ぜになった「録音テープの書き起こし」、「報告書」というかたちの三人称で語られていく本文が、次第に、一人称へと、物語自体の中へ、地に足をつけていくように変わっていく感覚は、たとえばヴェンダースの『ベルリン天使の詩』で、天使が人間になったら、モノクロだった画面がカラーに切り替わった時のあの悦びに似ているかもしれない。
そして、「このあたりの者なら誰でもそれが世界の中心だということを疑わんさ」と囁かれる氷河。その氷河に反射する不思議な陽の光が、全編にたゆたっている。
ラクスネスが、どうやら嵌っていたのらしい「タオ」(道教)思想も加味されて、物語中で複数の人物の口を借りて語られる世界の話は、どうも新奇で煙に巻くようなものがある。この辺りの感覚は、『同じ時のなかで』のソンタグの手で掬いとられている。

明らかに、氷河地帯における精神状況は、キリスト教をとっくのとうに置き去りにしている(ヨン牧師は、人々が信仰するすべての神々が同じように良い、つまり、同じように欠陥もあると主張する)。自然の秩序よりはるかに大きなことがあるのは明白だ。だが、神―と宗教―が果たすべき役割はあるのだろうか。『極北の秘教』では、深淵な問いかけが不埒な軽い調子で提出される。これは、ロシアやドイツの文学における重々しさとはかけ離れている、詐欺、いんちきのたぐいとすれすれのところにこの小説は立ち、その戯れが大きな魅力となっている。宗教に対する風刺であり、楽しいニューエイジの戯言で溢れかえっている。ラクスネスのほかのどの作品とも一線を画す、思想の書である。
ラクスネスは超自然を信じていなかった。生命の残酷さはもちろん信じていた。エンビ(邦訳ではウムビ)が身を投げ出した相手、だがその後に失踪してしまった相手のウーアが残したものは、大笑いだけだった。そこで繰り広げられたことは夢のように思えるかもしれない。つまり、探究を描く小説は否応なく、現実への回帰をもって終わる。
――『異郷』p.154-155


この『極北の秘教』というかなり引いてしまう邦題によって隠されてしまった原題は、「Kristnihald undir Jokli」(氷河の麓のキリスト教)であり、英語版のタイトルは簡潔に「Under The Glacier」(氷河の麓で)になっている。なんとなく『火山に恋して』という小説を書きもしたソンタグが、序文を書くには、なんともうってつけの作品だった、という気がする。

英語版まで買ったのは、終盤で「ウーマ」が「わたし=ウムビ」に向けた以下セリフの英訳が知りたかったからだった。

ウムビ―もし人類の知性が役に立たないとすると、どこに人は寄りかかったらいいのでしょう。
女―それより、人間の愚かしさに加わろうという気はないの?その方が安全よ。でも覚えといてちょうだい。心底から、心をこめて、心を捧げて加わらなくてはならないのよ。
――ラクスネス『極北の秘教』p.298

Embi:If human intelligence fails,what is there for a person to lean on?
Woman:Wouldn't you rather try to take part in human folly,my dear?It'ssafer.But remember,you have to do it with all your heart and all your heart and with all your heart.
――Halldor Laxness "Under The Glacier"p.222


Under the Glacier (Vintage International)

Under the Glacier (Vintage International)