みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

1981年9月の「ミュージックマガジン」:フレッド・フリス:この夏の予定

nomrakenta2009-08-12


来週一週間休めることになりました。
これを利用して東京行きを決め、帰りに、前橋文学館で開催されている鈴木志郎康さんの展覧会に行ってこようかと。
とはいえ、仕事の方がちゃんと片付くかどうか…この2日でなんとか形をつけなければなりません。

ところで。この表紙をみてください…。
先日、ドカッと仕入れた「ミュージック・マガジン」のバックナンバーの中の、たまらない一冊(一号?)。1981年〜1982年にかけての「ミュージック・マガジン」は熱い。パンク〜NWの熱気が全く醒めやらずで、中村とうようからして、ジェイムズ・ブラッド・ウルマーやラウンジ・リザーズ激賞で、「煽る」トーンなのが、なんとも凄い。時代のいきおいなのか。まあとにかく、ページをめくっていて楽しい限りです。就寝時に一冊(一号)と思っていましたが、読んでいると音楽が聴きたくなってしまって睡眠薬替わりには、到底なりません。

この9月号は、北中正和氏による「我的分析黄色魔術楽団―加工貿易風覚書」と題するYMO論がトップを飾り、同時期リリースの三上寛の『BABY』と比してパンタの『KISS』の中途半端の危機を訴えた平岡正明氏の「パンタ、もとにもどれ」と題された記事(イラストは吉田カツ氏)、

BABY

BABY

KISS

KISS

ジョー・ジャクソンは「ジャンピン・ジャイヴ」の頃のようだし、
Jumpin Jive

Jumpin Jive

大鷹俊一氏はジャーマンロックの「ブレイン・レーベルの10枚」というレビューで、歴史的な作品のリイシューを言祝ぎ、注目のフライング・リザーズの新譜は「フォース・ウォール」であり、新人アーティスト紹介には「バウハウス」である。ブックレビューで、復刊されたエイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』が紹介されているのも、もちろんデヴィッド・バーンブライアン・イーノの『ブッシュ・オヴ・ゴースト』の余波。
やし酒飲み (晶文社クラシックス)

やし酒飲み (晶文社クラシックス)

My Life in the Bush of Ghosts

My Life in the Bush of Ghosts

「プライベート・カセット」というコーナーがあって、これは今でいえば、http://8tracks.com/みたいなものかもしれませんが、この号では、鈴木慶一氏が「海の音楽」と題してムーン・ライダーズ・オフィス社員旅行用に編集したテープのリストを公開。A面:①New Age Steppers(時代ですね)②アドリアーノ・チェレンターノ(って誰?)③セルジュ・ゲンズブール「唇によだれ」④ソフィア・ローレン⑤BEF⑥BEF(これもわからない)⑦Mighty Sparrow / B面:①タジ・マハール②クラッシュ「叛乱ワルツ」③マリー・ラフォレ④キング・クリムゾン「スターレス」(「各自のセンスでフェイドアウト」という素敵な注意書きが添えてある)⑤グスタフ・マーラー交響曲第五番」(これも、「各自のセンスでフェイドアウト」とのこと)という感じで、流石な社員旅行ではあります。

輸入盤紹介ではアート・ベアーズのアルバムや、ネヴィル・ブラザーズの『Fiyo on The Bayou』、クロスレビューではジャコの『ワード・オブ・マウス』への評価が激しく分かれている。で、サザンオールスターズは『ステレオ太陽族』で万遍無く良い評価。広告を見ているだけでもおもしろく、クリムゾンの「新譜」は「ディシプリン」だし、矢沢永吉には「世界発売に先駆け、直輸入アルバム・テープ発売中!」との惹句。フェラ・クティは「あのトーキング・ヘッズブライアン・イーノに直接影響を与えたアフロサウンド!」となっていて、プリテンダーズのセカンドアルバムの広告はその下。


記事の中で、個人的にもっとも読み応えがあったのが、竹田賢一氏によるフレッド・フリスのインタビュー。

フリス自身は、この時点で、2年前に解散済みのヘンリー・カウ後の、豊かなソロ/コラボレーション時代に以降していて、記事は、充実の来日ライブを果たしたフリスの声を、生々しく捉えていると思います。ヘンリー・カウ解散の理由についての竹田氏の突っ込んだ質問に対して、フリスは「集団的な責任の取り方」また「グループ内でのジェンダーの問題」があったことを挙げつつ、最終的に、アートベアーズのファースト・アルバム「Hopes&Fears」として知られることになるアルバムを、協議のすえ、「ヘンリー・カウとして」リリースしないことになったこと(「ヘンリー・カウ」としては、「ポピュラー過ぎる」「ソング・オリエンテッド過ぎる」)が、分裂の表面化を決定付けた、と真摯に回想しています。

Hopes & Fears

Hopes & Fears

またトーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』やバーン&イーノ、そしてホルガー・シューカイらの民族音楽の採り入れ方と自分との差異について

けれども私が民族音楽を用いることでこめているメッセージは、これらのものと違います。私たちに身についたアイディアとは異質なものを、自分の音楽のコンティニュイティーの中で生かしていきたいのです。『グラヴィティー』のある曲には多くのカルチャー・ショックが仕掛けられています。ある要素はブラジル音楽から、ある要素はナイジェリアから、別の要素は中国の音楽からとられていて、それが一曲のダンス音楽の中に統合されています。

と語っていて、つまり、バーン&イーノたちが民族音楽素材をそのままコンテクストを「ずらして」新鮮さを混入したのに対して、フリスのそれは、自分の持続性の中に組み込みたい、「脱コンテクスト化」と「再コンテクスト化」の違いを表明しているようにも思えます。

Gravity

Gravity


Cheap at Half the Price

Cheap at Half the Price

Learn to Talk / Country of...

Learn to Talk / Country of...

Killing Time

Killing Time

また、このインタビューの後日には灰野敬二とのデュオ・ライブが控えていたのですが、灰野敬二について述べながら、ロックと即興についてのフリス自身の信念にも言及されます。

彼から送られてきたテープはここ半年か一年の間に聞いたもので一番印象的なものだったのです。今までこんな感じの音楽は聞いたことがない、自分の他にこんなギターの弾き方をする人はいないと思っていました。それにヴォーカルが印象的で。そして何よりも私にとって共感できるのは、彼がロックのイディオムの中で即興演奏していることです。ロック・ミュージシャンはよきインプロヴァイザーであり得て、しかも即興で演奏したものはなおかつロックである、そのような可能性を実践したパイオニアがヘンリー・カウだったと思うのです。普通のロック・ミュージシャンは歌をつくり演奏するのに忙殺されていて、即興演奏の演奏家は特定の音楽言語の枠をはみ出ることがない。そんな状態が続いてきましたが、即興音楽はもっと、あらゆるイディオム、方法に対して開かれたものとして、定義しなおされなくてはいけないんじゃないか。最近はその硬直した見取り図も変わってきていますね。スティーヴ・ベレスフォードのアルタレイションズのように。でもカウはそれを7,8年前からやっていました。そしてケイジ・ハイノは、ロックにおけるインプロヴィゼイションの現象形態を非常にクリアーに自覚しています。まさに建設的な方向です。


Concerts

Concerts

このときのライブは、同じ号のライブ評に、彦坂尚嘉氏によるレビューが載っています。灰野敬二氏に対する評価にはかなり手厳しいものがあるのですが、フリスに対しては以下のような深いコメントが寄せられています。

彼の(フリスの)フリー・ミュージックは、既成音楽の破壊・解体ではない。演奏構造には中心が存在していた。中心のまわりを大小さまざまな円弧が描いていくように音響が発射されていた。プリペアド・ピアノ的奏法のウルトラ化によって生じる電気ギターの騒音の予測不可能性は、中心をめぐる大小様々の円軌道の上に、職人の端正さで、予定調和的に乗せられていく。それは<遠巻きのクラシック音楽>とも言うべきものであった。逆説的な言い方になるが、フリスの演奏の中心には、<不在の西欧クラシック音楽>が存在していた。

良質な即興演奏が、決して「めちゃくちゃ」ではない、ということを言いたい、というむずがゆい感覚を、上の引用文は衒学的な匂いもありつつ、的確に射抜いている、と思います。
さいごに、竹田賢一氏の記事の最後の部分も、是非、引用しておきたいと思います。

インタビューはさらに、即興演奏をめぐって、音楽家/非音楽家の神話に挑戦しているアート・リンゼイレジデンツについて、ジャーナリズムが作りだしたシンボルとしてのイーノやフリップの機能など話はつきなかった。そして滞日中この後も何度かフリスとは会う機会があったが、彼にとって最も大きな意味をもったロック・バンドを一つだけ挙げるとすれば、という問いに、68年から72年当時のマジック・バンド、つまり『トラウト・マスク・レプリカ』の時期のキャプテン・ビーフハートだと答えていた。「自分の」ロックを演奏することに大きな自信を与えてくれたからだという。
彼のコンサートには2回だけしか行けなかったが、即興演奏では装われた危うさではなく真の危うさと対決するのだ、と語っていたように、一瞬一瞬で採用するイディオム、楽器、小道具の変化は目を瞠らせるものだった。ただ、終演後、彼の改造ギターに群がる聴衆の視線と、手探りで「自分の」ロック、「自分の」サウンド、「自分の」楽器を発見してきたフリスの姿勢の間に、埋めがたい距離があるように感じられてしかたがなかった。

Trout Mask Replica

Trout Mask Replica

聴いている間は、複雑骨折の怪奇さだが、少し間を空けると、自分のなかで、くだけちったガラス玉のような光彩を放ちはじめる永遠の怪盤。隊長のOddかつ真っ当過ぎるブルース魂は、トム・ウェイツの80年代以降にそのまま受け継がれたのは、言うまでもないのです。
ルナー・ノーツ―キャプテン・ビーフハート

ルナー・ノーツ―キャプテン・ビーフハート

トラウト・マスク・レプリカ』制作時期の地獄のカンヅメ生活に限らず、マジック・バンド時代の苦労を愛憎なかばにほろ苦く回想する本書は、本名で書いてますが、ズートホーン・ロロ氏であることも、言うまでもないのです。書名は、マジックバンドの名曲の中で、ソロをとるロロ氏を紹介する隊長の決め台詞、「ミスター・ズートホーン・ロロが、あの、なが〜い月の音符(ルナー・ノーツ)を弾いて、空中に浮かべてご覧にいれます」に由来する、というのも。ジョン・デンズモアが書いたドアーズ本と同じくらいに乙な味わい。
Railroadism

Railroadism

マジック・バンドのライブ盤はいちど聴いてみたほうがいいです。

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最近読んだ本

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

こりゃおもしろい。
いまでは信じられないような宗教論争が、明治初期の神道にはあったのだ。京極夏彦の『狂骨の夢』という作品が、このあたりに近いネタを扱っているが、本書で扱われているような史実は、たしかスルーしていたように思う。昔から、なぜ大国主神オオクニヌシが「国譲り」したのかがよくわからなかった。というか「記紀」は、わからないようにしか書いていないのだと思っていた。しかし、ラフカディオ・ハーンが驚嘆したほどに、出雲国造の人気は、明治初期まで「伊勢」の天皇と劣らないものであったらしい。オオクニヌシを国家として奉ずるか否か、をめぐってのドタバタが本書の肝、「思想としての出雲」だが、これには当然、本居宣長さんの「古事記伝」が大いにかかわっていて面白い。結局、いちど政治的に退けられた「出雲思想」は、国体を揺るがさんとする危険思想とみなされて(出口王仁三郎)いって、そのまんま、というのが、多少切ない。
出雲国風土記 (講談社学術文庫)

出雲国風土記 (講談社学術文庫)