みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

明けて濁流。わたしは、農夫ではない。

nomrakenta2009-08-02


9時半頃、暑くならないうちに、瀧道へ。
濡れた路面を神社まで辿ると、蝉の鳴き声がわんさと降ってくる。
夜半まで(雨は)降っていたので、ここぞと鳴きだしたのだろう。梅雨にまだ終わるつもりがないようなので、蝉さんたちのスケジュールも押してきている。
ジャンジャンジャンえらいことになっているハーシュな音響はアブラゼミで、ところどころで混ざる高い持続音はなんだったっけか。こどものころの夏休みには、蝉の名前などすべて当てられたような気がするのに、もう無理みたいだ。

箕面川の水量がえらいことになっていた。氾濫するほどではもちろんないが、普段の2倍強に盛り上がって黄土色に濁った濁流は、メロメロなめらかに蠢動する筋肉みたいと怖ろしい。音もドウドウ凄くて、蝉のジャンカジャンカが一気に下地音にまで引き下がるが、水の音というのは、暑い中では気持ち良く感じるのがおもしろい。

犬のトレーナーをしているという、瀧道ではとても有名なおじさん(テレビに出たらしい)がいるのですが、純日本人とは思えない長身で必ず服装はスーツと帽子でビッチリ決めるか、もしくは堂々とした和服姿かのどちらかで、いつも3匹くらいの大きめの(血統書がついていそうな)犬をひきつれて、海兵隊のような歌を歌いながら、決まり過ぎたスタイルで犬をひきつれて颯爽と瀧道を行くさまが完璧に浮いていて、振り返らずにいられない人なのだが、今日は、降りていくときにばったりと目線と間合いがあってしまったので、目礼してみると、帽子をとって優雅にお返しされてしまいました。なんというか、凄い人である。

濁流が、飛沫をあげて、岩やコンクリートを洗う様子、そのパターンを見ていると飽きない。


「石走る」(いわばしる)ってやつか。
石走り激(たぎ)ち流るる箕面*1

先週末のロバート・ワイアット曲集と交互に聴いているのが、ビル・フリゼールの新作。相変わらずNonesuchで、Lee Townsendである。

Disfarmer

Disfarmer

フリゼールは、しばらく聴いていませんでした。
2001年くらいまではかなりお世話になっていましたが。遠ざかる一因になっていたエレクトロ風味が無さそうなのと、ジャケットのドでかいナマズを誇らしげにぶら下げてみせるおじさんのセピア色の写真が気になって手を出してみたら、懐かしげで妖しい香りのアンサンブルが終始たゆたう、好みの作品になっていました。コンセプトになっている「Mike Disfarmer」は、1959年に没するまでアーカンソー州で写真館をやりながら、生業として、町の人々のポートレイトを撮り続けた写真家であるらしく、最近、再認知され始めているUnsung Artist(生前は称えられることのなかった芸術家)である様子。
http://www.disfarmer.com/about/
フリゼールは、ライナーで、ディスファーマーを、フェルメールや、ゴッホ、チャールズ・アイヴス、そしてヘンリー・ダーガーと同列に見てもいるようです。
同じくライナーによると、生前はかなり偏屈な人だったようで、ドイツ名の苗字「Mayer」が日雇い農夫を意味するのが嫌で、「Disfarmer(農夫ではない)」に変えてしまったとか、季節を問わずに黒いスーツ、黒い帽子、重いモヘアのコートを着て、真夜中でも街路をうろつくので、町の子供たちは死ぬほど怖がっていたとか、これと決めた光が射すまでは、シャッターを切らずに客を立たせたままにしていたとか、おもしろい逸話が尽きない様子。あと一年くらいしたら、日本でも展覧会があるのだろうか。



「エターナル」発表時のスタジオライブで、「Schizophernia」を。歌詞が、P.K.ディックな曲である。
昔、グランジの頃にでた「A Year Punk Broke」という映像作品にもライブが収められているが、何か切迫したノリが良くなかった記憶があり、ここで観れる演奏のほうが良い。
「エターナル」制作時にSYが、ジョイ・ディヴィジョンを聴き直していた、というエピソードをどこかで読んだ気がするままに書くのですが、ジョイ・ディヴィジョンも、「エターナル」もベースラインが美しい(そして、ベースラインが美しいロックは正しい)。SYの場合はそこに加えてリーとサーストンとキムの三本のギターが舞うので、何度目かにSY節を彼ら自身再確認したのではないだろか(なんていう夢想を)。

*1:ほんとは、「石走り激(たぎ)ち流るる泊瀬川〔出典: 万葉 991〕」