みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ノー・ニード・トゥ・リワインド:『phew×bikke』のカセット

nomrakenta2009-07-16


ジャック・ブラックの映画『僕らのミライへ逆回転』(原題:Be Kind Rewind)を観た。
2回目になる。ジャック・ブラックは、いい。『カンフー・パンダ』でさえ、大好きだ。

ジャック・ブラック扮する誇大妄想ぎみのジェリーが、発電所を破壊しようとして電磁気を帯びてしまい、馴染みの「VHS」レンタル店「ビー・カインド・リワインド(巻き戻しどうも!)」のビデオ画像を悉く消してしまったため、即席のリメイク映画を撮影しはじめるという筋。
で、そのひとつひとつの手作りリメイク映画のブリコラージュぶりが見所で、すでに無用となってしまったアナログなメディアの中に今も見出せる、新しいメディアでは代替できずにいる何か、がこの映画のひとつのモチーフになっているのは確かだと思う。

昨今、こういうアナクロニズムも、調理法(←これが一番大切なことですが)によっては、十分に魅力的なネタとして機能しうるということは、たとえば、音楽だけとってみても(マイケル・ジャクソン氏と共に、と言ってしまったっていい)僕らの目の前で、どれだけ形(ただ単に「形」、だけれども)を変えてきたか考えてみればいいわけで。

自分にとっては、最初はレコード盤とカセットテープだった。カセットテープを自分で録音できるようになったとき、明らかに何かが変わった。そのあと、CDが出た。しばらくは、一方通行だった(そういうもんだと思ってた)。MDといういかにも短命そうなものが出たのと、CDが自分で焼けるようになったのは、極私的な体感だとほぼ同時だった。すると数年後に、音楽をファイルでインターネットからダウンロードすることになった。今では、PCの前から離れることがなくなった…。
…悲劇的なほどに特徴のない経過描写は、それとして、この映画中のレンタル屋の店名「巻き戻しどうも!」について、身の憶えをたぐってみると、よくも観終わったビデオの巻き戻して返すなどという面倒なことをしていたものだと思う(巻き戻し不要のレンタル屋さんもあったそうだが、周囲にはなかったと思う)。そう考えると、音楽用のカセット・テープなどは、聴取をしながら巻き戻すことができるという、なんと経済的なガジェットだったことだろうか、と思い当ってしまいました。

多少罪な程に素朴過ぎる問いとして、そもそも、なぜカセット・テープにはA/B面という分割があったのか?については、ネット上でいくらでも納得のいく答が探せる。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa538710.html
しかし、技術的な理由↑がどうだったのであれ、このカセット・テープのA/B面分割性が、EP/LP盤のA/B面のアナロジーとしてわれわれに了解されていたことはまちがいないと、かつての当事者のひとりとしては断言できます。
A面はカラッとしたアップテンポにして、A面ラストで、不穏なナンバー、B面はバラード(的なもの)で、といった小細工も、再生ボタンを押したあとに始まるテープの回る音の「カラ」の再生音だけの数秒間のタイミングと、初期のオートリバース機能がテープを「裏返す」(ヘッドが切り替わるだけなのですが)、あの「ガチャコン」音によるインテルメッツォを完全に計算に入れてのもの、それらがあってこそ、のものだったと想起します*1。ことほどさように、カセット・テープの分割性というのは、きわめて現実的で物体的で不自由なものであるが故、に環境的なものであって、いつの間にか刷り込まれていたものでもあったのだったわけです。
そして、このA/B面性が、ユーザーの「プチ表現」欲求と綯交ぜになって爛熟の極みに達したのは、オリジナル・ミックス・テープにおいてではなかったろうか、とも。

Mix Tape: The Art of Cassette Culture

Mix Tape: The Art of Cassette Culture

サーストン・ムーアのこの本は、そんな時代の雑草的・リゾーム的なクリエイティヴィティ、エディターシップがパッケージされています。

ガチャコン。

と、ここまで延々カセット・テープについてまぜ返してきたのも、この作品に触れたいがための拙い露払いという思いで、だったのです。
あの伝説の、Aunt SallyのPHEWBIKKEのデュオが、30年振りに「うた」と「ギター」というシンプルなスタイルでカセット・テープをリリースしています。

http://www.bereket.info/product/list10.html
A面1曲目「まさおの夢」の「まさおはひとり、ひとりでうまれた♪」というシンプルだけども強烈なフレーズが、素朴だけれども深いところから鳴らされていることだけは間違いないギターの伴奏に乗ってうたわれるのを聴くとき、殆ど自分の耳が信じられません。
今まで聴いてきたあらゆるポップ・ソングへのしがらみを、いちどリセットしてくれるような歌なのです。
Aunt Sallyが演奏をし始めた頃への回帰、という意義を超えて、このカセットから流れる「歌」たちは、自分がAunt Sallyの音楽をかなりの後聴きで聴いたとき、あれ、そんなにパンクじゃないな、とか思った馬鹿げた感慨を健やかに吹き飛ばしてくれもします。
まっすぐな言葉で、抜き差しならない感覚を歌う、しかも、そこにはAunt Sallyから通底する、「歌」の元素としての屹立するような「ノスタルジア」があります。それは、音量の大きいバンド演奏の軋みよりも、本質的に「パンク」なのは無論のことです(誤解を招きそうですが)。もし、これらの楽曲でミックス・テープを編集するとしたら、僕はサン・ハウスか、アトランティック時代のオーネット・コールマン・カルテットの楽曲をかろうじて挟みこむくらいしか、今は想像できない(パティ・スミスは、敢えて避けよう)。
PHEWさんのサイトで本作は、本日時点で「入荷待ち」になっていますが、きっとすぐ補充されるだろう…と期待もこめまして…。

ぼくたちは、結局、音楽を所有してきたのだろうか?
「うた」が誰のものなのかといえば、もちろん表現者のものなのかもしれないが、では「うた」を聴く瞬間は、所有することができるものなのだろうか?むしろ、所有することなど絶対できないものだからこそ、「うた」を、同じ「うた」を何度でも聴いてしまうという行為は魅惑的なのではないのか?
そして、とりあえず今夜は、

ガチャコン。

アーント・サリー

アーント・サリー

ライヴ 1978-79

ライヴ 1978-79

上記の「あれ、そんなにパンクじゃないな」という感想は、もちろんこのライブ盤を聴く前だった。2曲目「Mony Mony」のカヴァーには、本当の「パンクロック」の恍惚がある。
Our Likeness

Our Likeness

硬質な情感がたまらない名盤。
あの場所へ

あの場所へ

*1:中学生まで自分のラジカセにはオートリバース機能がなかった。初めてオートリバース機能を搭載したラジカセを手に入れたとき、あるいはその後、CDラジカセを手に入れたときの感動を、i-podは未だに凌駕しない