ぼくは、機械のように。:ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』
10年くらい前から、人から(主に同僚から)、「機械のように働かされる」もしくは「機械のように働きたくない」というセリフをきいたとき、自分たちの置かれている状況としては、もちろんそういう面があったりして頷きながらも、どこかそれとは違う思いをしているということが必ずあって、そういうときは、かならず、「そうではなくて、われわれは、機械にすら、なれない、というのが正解なんじゃないの?」ということを思っていた。だから、そのひとのいう(そのひとの中でなぜか貶められた)「機械」には「未だ」落としこめない仕事を考え出さなくていけない、という結論にしか、そういう愚痴の帰結はなかろうかと思っていた。それにしたって「人間は機械にすらなれない」という感慨のソースが自分ではよくわからなかった。なぜって、自分は「ターミネーター」世代であって(最近「T4」を観ました。映像もさることながら、さらに機械と人間の分割線の問題にフォーカスしていて、自分にはおもしろかった)、20世紀から21世紀にかけてのラッダイト主義者である可能性は高い、と思っていたから。
でも、どうやらそういう思いの根源には、「文学機械」の光悦の残照(へのリスペクト)があったらしい。
『フィネガンズ・ウェイク』や『ユリシーズ』、サミュエル・ベケットなど、興味はあれど、邦訳作品を直接あたるよりは(読んでもピン来ない、というか、数ページで自分が弾き返される)、それらについて語られた文章を読む方がおもしろい、という思いのしてきた自分ようなものとしては、本書は、ずっと読みたかったものを読んだという感触があります。上智大学出版から邦訳なった、とはいえ、いったいどれだけの文学部学生が読むのかわかりませんが、「文学」をいちどフレーミングしてみる作業としては、これは必読の書かな、思いますが。
原題は「The Mechanic Muse」。
機械という名の詩神―メカニック・ミューズ (SUPモダン・クラシックス叢書)
- 作者: ヒュー・ケナー,松本朗
- 出版社/メーカー: 上智大学出版
- 発売日: 2009/01/28
- メディア: 単行本
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採りあげられている「文学的ハイ・モダニスト」は、電化地下鉄や電話によって生み出された都市のコミュニケーション情景を「観察するTSエリオット」、正確さと没個性の美学を体現して「タイプライターと同化したエズラ・パウンド」、その作品の出版が印刷技術との絶えざる(採算を度外視した)格闘であり、テクストといえば、現実のダブリンの都市の検索システムともいえた「書写するジェイムス・ジョイス」、プログラミング言語と類似した「思考のサミュエル・ベケット」の四人。それぞれの章は、それほど長くなく、30分集中できれば読みとおせる分量で、ヒュー・ケナーの、イロニーと情熱がないまぜになった論立ては、飽きさせることなく、最大限の文学への興味を掻きててくれる最上のものだと思う。
まさに彼らの同時代の機械の動作の美しさ、パワフルさ、力の配分の無駄の無さ、を模すようにして、四人の文学者たちは、自ら「機械的」喜悦でもって文学しているように、感じられます。ジョイスの「フィネガンス・ウェイク」などは、作家自らが独自の言語生成コンピュータになって際限無くテクストを生みだしていくというイメージなくして堪能することは不可能なのではないかと思いますし。
「二十世紀、内燃機関が、人間のリズムの知覚を変容させた」とTSエリオットは述べた。それ以前、自分の心臓、肺、海辺の波、馬の足の動き以外に、人間の生活に浸透しているリズムなどほとんどなかった。X線の登場(一八七五年)によってモノを面として透視することが信頼できるものとなったし(ピカソ)、無線の登場によって、二十カ国で話された声が同時に流れた(『フィネガンズ・ウェイク』)。ニュース映画の場面転換の速さは『荒地』への刺激剤となった。電話線を通して声が運ばれ、遠くにいる人の声が自分の耳に伝わる。地下鉄を使って、ロンドンやマンハッタンのなかをあちこち移動することもできる。キャンドルは恋愛以外の用途には使われなくなった。なぜなら、球状のホタルのもとで本を読むことが可能になったからである。「ジョン・エグリントンはランプの白熱ホタルのからまりを覗きこんだ」。『ユリシーズ』(第九挿話第二二五行)のこの文章は、文学が白熱熱球を接近して見た最初の瞬間かもしれない。
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.6
本書が読後感として、文学のハイ・モダニストたちの言語生成が、最上級の表現で「文学機械」的なダイナミズムとして捉えることを、読者に可能にしているとはいえ、本書でいう「機械」は、当然のことながら、たとえばドゥルーズ×ガタリのいうような決死的な比喩へのバイアスがかかった「機械」ではなく、ライノタイプ植字機や、ダブリンのトラムなど、19世紀末から20世紀初頭(30年くらいまで)に登場した、「仕組み」が外から見てとれるような、純然たる「機械」であり、印刷技術であり、「群衆」という人類の形式を生んだ地下鉄などの交通網のことであったりします。その意味で、冒頭の文章「Etaoin Shrdluの思い出に」*1は、「機械」のある時点へのノスタルジーが濃厚で、これだけ独立していたとしても、乙な味わいです。
エネルギーの集中。これこそ、パウンドがこれらの書物に発見したものである。つまり、自分が費やした時間を、誰かほかの人の時間を省くのに役立てようという姿勢である。ある機械の設立者が、それを使う人の時間を節約してくれるのも、同じことである。タイプライター一つをとっても、パウンドにとっても測り知れない時間の節約となった。ひとが人生で与えられているのは時間だけであり、その節約に手を貸してくれる人は誰であれ、恩恵を施してくれているといえる。詩もまた、時間にたいして意識的である。詩における主たる絵の具ともいえるイメージについて、パウンドは「ある一瞬にあらわれる知性と感情の複合体」という言い方をしている。イメージは、その際だった強度が与える愉悦で、さらにそのスピードで、人の心を打つ。そして、詩を決定づけるリズムは、「時間に切り分けられた形式」である。なぜなら、時間とは、ある一定の長さに区切られたものだからである。
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.76
この恩恵云々というところは、現代(というか現在?)でも文学に限った話ではない。しかし、ぼくとしては、この引用の中から、『ジュネ伝』でひかれていたジャン・ジュネ晩年の時間に対することばを思い出してしまう。
わたしにとって聖なるものが一つある。私ははっきり、聖なるという言葉を使う。それは時間だ。空間はどうでもいい。空間は縮まったり、あるいは途方もなく広がったりしうるし、たいして大事なものではない。しかし、時間というものは、私が生まれた時に一定の時間が私に与えられたのだと、かつて感じたし、今も感じている。誰から与えられたのか?もちろん、私はそれは知らない。しかし、神に与えらたように思える。[……]もっとも無名の人間も同じ時間を持っている。それはより少ないかもしれないしより多いかもしれないが、それはどうでもいい。しかし、この時間、それは聖なるものだ。
――エドマンド・ホワイト『ジュネ伝』下巻 p.304
ベケットのテーマは、政治でもなければ、現代史―われわれが、とりあえず結末へと到る道筋を仮の形で解きほぐしてみて、その政治性を云々するような―でもない。ベケットのテーマは統語論的動物としての人間である。つまり、単純に名付け動物としての人間ではなく、肯定的文章を精密で簡潔なものにするべく、数々の名詞を秩序づけ、きちんとした構造をもった文章をつくる存在としての人間なのである。この精密で簡潔な文章から、漸近線的に意味の似かよった文章が生じる可能性や、意味の貧困を排除するには、どうしたよいのか?ベケットはこれを、八語の均衡のある言葉で達成する。「幸せ、そう、そういうものもあった。不幸せなことに(Happiness, too, yes, there was that too, unhappilly)」
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.136
本書を読み終えて、思うのは、著者が文章中で触れるとおり、モダニスト達にとっての「機械」は、まず目にその仕組みが明らかなものであったこと。
それを考えれば、ハイ・モダニスト達の文学的表現は、極めて歴史的一時点に特化した表現形式であり、即座にそのディテールを「古典文学」として受け取れる可能性は少ないということで、やはり、最後に浮き上がってくるものは、彼らの採用した方法なのだということです。
ライノタイプ鋳植機とトランジスターラジオの違いは明白である。トランジスターラジオは、端で観察していても、なにもわからない。現代では、スクリーンとキーボードの端末を使って「活字」は「組ま」れるわけだが、この仕組みについても、観察しているだけではなにもわからない(「活字を組む」行為は廃れているが、このフレーズは使われつづけている)。
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.7
モダニスト作家の企てはまた、テクノロジーによって、芸術が時代遅れの無意味なものへと格下げされる必要などないという信念によっても支えられていた。モダニスト作家が、自分たちの企てとの間に暗黙の類似を見い出した同時代のテクノロジーは、地球を中心としたダンテの宇宙観と同様、いまではほぼ廃れている。ダブリンのトラムはとっくに姿を消しているし、ライノタイプ鋳植機も同様の運命をたどった。タイプライターはまだ存在するが、ブルームの長針・短針付きの腕時計は、将来的には脚注を必要とするだろう。
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.141
しかし、それにしたところで、ヒュー・ケナー自身を揶揄してみせたこのような文章に巡り合うと、こちらとしては著者とパブのカウンターでウイスキーでも呑んでいるような気がして、思わず頬が緩んでしまうのだった。
『ユリシーズ』には、このほかにも存在意味のよくわからない、ガムリーという人物が登場する。この人物の職業は、石材の夜警であり、その仕事内容は、誰かがやってきたときに「(石材が)なくなっていないな」と所見を述べるのを確認することである。市など自治体というものは、ありとあらゆる種類の、無意味そうに見える行動を市の金で維持している。有給の仕事で風変わりなものを見つけようと思ったら、いろいろある中でもダブリン市はことのほか面白い例を提供してくれるだろう。つい最近、私は、パーキングメーターを磨くのを一日の生業としている赤鬚の男を見つけた。この男が市に雇われているのかどうか、知っている者は誰もいないようだった。だが、考えてみるがいい。ジェイムズ・ジョイスの専門家という職業ほど風変わりなものはない。そのうち、ダブリンに住んでいるのは一人か二人で、残りの大多数は世界中に散らばっている。いってみれば、ジョイス研究者の仕事は、石材がなくならないように見張ったり、穴が盗まれないように見張ったりするようなものかもしれない。
――ヒュー・ケナー『機械という名の詩神』p.107
ストイックなコメディアンたち―フローベール、ジョイス、ベケット (転換期を読む)
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