みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

もちろん豚は悪くない。『ジョン・ケージ著作選』、HAPI Drumが届く。

nomrakenta2009-05-17


とりあえず。書いておかねばならないだろう(もちろん、民主党のことではない)。
今朝は雨が止んでいたので、隙をついて、瀧道行脚。じわりと汗をかいて、京都へ行って、カレーを食べて帰ってきたが、電車の中で妙にマスクの人が多いのが気になっていたら、午後になって、会社から「新型インフルエンザ、茨木・神戸で発症確認のため、明日の出社・退社時はマスク着用。家人に38度以上の熱のある者は出社に及ばす」とのメールが。ちょうど、花粉症が収まってきていて、マスクを切らしていたので、帰りに駅前で、と思っていたら、2軒のコンビニと、1軒のドラッグストアでマスクは「売り切れました」と言われてしまった。

いつでも買えると思っていたものが買えないという状況は、考えてみればいつだって起こり得るわけですが、発症が若い人中心であるにせよ、ウイルスの運び屋になる可能性はあるわけであって、そういうことが一瞬頭を過ぎると、割と小パニックになる。こないだ聴いた「湯浅湾」のセカンドアルバムにして、朴訥サイケデリア名盤「港」の中の、Kingsmenの「ルイ・ルイ」を骨抜きにしたようなチューン『豚は悪くない』がトコトコと脳裏を通り過ぎる中で、そういえば家人のために購入したマスクの残りがあった筈・筈、と独り納得安心して帰宅したら、晩御飯はしゃぶしゃぶだった。
なんの因果なのか、と仄かに感慨しつつNHKの報道で、マスクが売り切れた事、そして、橋元知事が新型インフルについて毒性は低い、早急に警戒態勢を通常のインフルエンザ並のものに落とさなければ、要らぬ混乱を招く、と(私的大意)述べているのを見る。失礼だが、やっとまともな事を言ってくれたような気がした。
家人に顔をしかめられながら、このままいくと大阪は日本国内で隔離されてしまうかもしれない、宝塚と茨木-京都間に自衛隊が出動し住民の移動管制が敷かれ、新幹線は新大阪と大阪を素通りする…少し自分でも酔いが回ってきた自覚があったので、NHKの動物番組で、20数年振りに野生に帰った(中国から)トキが、無農薬の田んぼで、泥鰌や蛙を、長い嘴を使って、ぽいっ、つるん!と丸呑みにしているのを眺めて気を静めた(のか?)。


さて、金曜の夜は、お世話になっているIさんと、中津の極めて普通の居酒屋で飲み、俺は大阪で一番ルー・リードピストルズのカラオケが上手いんだいー、などとのたまって半年振りくらいにカラオケに行って帰った(Iさんの「休みの国」の「追放の歌」に感激。しかしカラオケにあるとは…フォーク世代恐るべし)。そのあと、このしこたま酒をくらった身体で寝るわけにはいかないと、深夜にipodでパンクロックを聴きながら瀧道を往復して清々しい気持ちで寝に付いた。明けて開けて土曜は、シトシト降る日であったので、気が乗らず、終日映画を観て過ごす。
DISCASで借りていたジュリアン・シュナーベルの『バスキア』と、C・トーマス・ハウエルとルトガー・ハウアーが絡んだ懐かしい『ヒッチャー』だった。『バスキア』は、此間ルー・リードの『ベルリン』ライブで美意識がやはりとんでもない人間なのだと再認識して、そのあと続けて『潜水夫は蝶の夢を見る』と『夜になるまえに』を観ている。

バスキア [DVD]

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「潜水夫…」は乱暴にいうと発作で全身が麻痺してしまった男が眼球の動きで書いた自伝を基にした映画で、実話であるし原作も邦訳が出ている。『夜に…』も、キューバ革命を生きたゲイの作家レイナイド・アレナスの伝記を基にした映画で、ラストの死様はほんとうに本当なのだろうか、と思った。どちらも実在の人間へのシュナーベルの視点というのは、他者である限界をとても律儀に守っていて、ある種マジック・リアリズム的な描き方をする。しかし映画自体が実はマジック・リアリズム的なメディアなので、そういうあり方が真摯さを醸して、とても良いのだった。そんな思いで10数年前に確か一度観た筈の『バスキア』も再度観てみようという気になったわけですが、ところどころ素晴らしい瞬間があるものの、演出などはやはり荒削りな気がした、その反面、映画中でどう考えても当時バスキアと同じくアートの先端にいたシュナーベルとしか考えられないマイロという画家のスタジオが、『夜に…』のDVDの特典映像で見ることができたシュナーベルの巨大なスタジオとそっくり(いや、同じ?)であることに気付けたりして、おもしろかった。ヒッチャー』は、初めて知ったのだが、インスピレーションをドアーズの有名な曲『ライダーズ・イン・ザ・ストーム』から得ていたらしい。メキシコ国境付近の砂漠で、名前も身元もわからないヒッチハイカーが連続殺人を起こすというだけの物語だが、ハウアーの完璧な演技と、それに拮抗しようともがくハウエルの「青さ」が奇跡的に絡まり合ってホラーともサスペンスとも括り難い、特異な映画になっていたのだと、再認識した。ジェニファー・ジェイソン・リー(このひとはこの映画ではとても若い筈なのに、数年前とあんまり印象が変わらない)扮するヒロインがトラックに引き裂かれるシーンが子供心にショッキングだったと思っていたが、実際残虐なシーン自体はなく、ただ音とハウアーとハウエルの演技だけでそれを観客の脳裏に「起こして」いたのだった。ただ、ハウアー扮する殺人鬼にどこか哀愁を誘う風情があり、ハウエル扮する若者に対峙して成長させるという父性を鏡像化したような他者性があるのは、ブレードランナーでのレプリカントデッカードに対するのと全く同じ構図を継承しているのは、厄介だった。

ジョン・ケージ著作選 (ちくま学芸文庫)

ジョン・ケージ著作選 (ちくま学芸文庫)

最近出版された小沼純一氏による編の『ジョン・ケージ著作選』(ちくま学芸文庫)。このところ、ケージ関連の出版というものは全く無かったから嬉しいといえば嬉しいのだけれど、まだまだ普通に入手できる主著『サイレンス』や、ダニエル・シャルルとの『小鳥たちのために』などからのお手軽な抜粋だと嫌、だなあと思っていたら、結構読んだことのない文章が集められていた。表紙に鬚にジーンズの、ではなく晩年のケージの横顔を持ってきているのも良いなと思うし、まえがきからケージ好みの凝りまくったタイポグラフィーが乱れ飛んでいて、「文庫」というフォーマットを可能な限りケージ的なエクリチュールの場にしたいという、小振りながら山椒の例えにある如く、小沼純一氏と編集者の「仁義」をピリリと感じられる出来になっていた。
またまた進行が滞っている『木の子供(Child of Tree)』『枝(Branches)』についても数箇所言及を見つけて興奮しているのでした。

ケージ=ごく最近では、『樹の子供』と『枝』という作品で、植物素材をコンタクト・マイクと簡単な音響装置で増幅しています。この場合は即興に指示を与えていますが、それは楽器について知識がないので、即興が嗜好や記憶に依存することがないからです。
―端的にいってどんな作品なのでしょう。
ケージ=サボテンがあれば、ワニ型クリップの止め金、あるいは針が内蔵されたカートリッジによって、サボテンとトゲを音響システムに結びつけることができます。トゲの一本をはじいたり、紙や布その他で触ったりすると、非常に美しい音程が得られます。一本のサボテンのトゲとピッチの関連は、しばしばとても面白いもの、微分音程的なものになるでしょう。
――『ジョン・ケージ著作選』p.98

これは、チュードアと取り組んでいたライブ・エレクトロニクスに絡んで「インタビュー集」の中で出てくるところなんですが、力点は、どうやって「結果」を予測できないようにするか、というところにある。その中で『木の子供』が触れられるんですが、改めて思ったのが、サボテンのトゲを弾く音というとても小さな音を電気的に増幅するということにとても拘っているケージは「知識や記憶のない楽器に向かい合う」という主義に反しているようにも思えるのに、ケージの中ではまったく矛盾していないらしいということ。そして、通常の日常生活では意識しない小さな音への愛着は、茸が胞子を落とす音を聴ける日がきっと来る、といった希望(今ではそれは実現されている)をこの文庫の中でも数箇所で口にするジョン・ケージらしいものだということ。
先の即興と扱う素材(楽器と呼んでもいい)についてある種の無垢を担保しようという気になる姿勢についても、ケージは例えばフリージャズの即興が極めて「線的」なものだとして、その自由度に疑いがある旨述べていたので(しかし、フリージャズの「フリー」は、そもそも音楽的な「フリー」だと、誰か言ったのだろうか?政治的な「フリー」だと思うのが正しいのではないかとも思う)特に気になるわけですが、以下の部分があった。

―『枝』や『インレッツ』のような作品は、『カートリッジ・ミュージック』でなさったことを発展させたものだとお考えですか。また、自然の素材を取り入れることは、作品に全く新たな装いを与えるのに重要なことでしょうか。
ケージ=そうではありません。それらは、即興に向かう動きの一種なのです。
―習慣や個人的な嗜好に頼り過ぎてしまうという理由で、しばしば即興に異議を唱えていらっしゃいましたね。
ケージ=好み、記憶、そして好き嫌いから、即興的な行為を解き放つ方法を模索しています。それが可能になれば、大変嬉しいのですが。
 植物素材に関しては、予備知識がないからこそ、そこから発見できるのです。つまり楽器は未知なものなのです。一個のサボテンをあまりにも熟知しすぎたら、サボテンはまもなく効果を発揮しなくなり、未知の別のサボテンと取り替えなければならないでしょう。そうすれば、全ては魅力的なままであり、もちろん記憶からも解放されるのです。
――『ジョン・ケージ著作選』p.103

このあたり、柔和なようでいて、実践面におけるケージ美学の厳しさがある。それは演奏者の愛着を捨てさせるもので、すべては、音のために/耳のためにあるのだということだ。ちょっと不安になって、昨年「演奏用」に購入したサボテン二鉢に目をやってしまう…。
もうひとつ面白いのが以下の部分。

ケージ=現在これらの作品〔『枝』、『インレッツ』と『樹の子供』〕を「即興」第一番、第二番と呼んでいますが、〔またごく最近では、『BLLacerta』のAとBとして〕即興第三、第四もできる予定です。両方とも、カニングハムの舞踏のための作品であり、即興第三番は『デュエッツ』、第四番は『フィールディング・シックシイズ』という作品です。
――『ジョン・ケージ著作選』p.107

どうも、『木の子供』も『インレッツ』も、大きな即興による作品の一部として構想されていたらしい。ここでもケージにとっての「即興」といわゆる「即興演奏」との隔たりを意識すべきなんでしょう。

―偶然に従うという点は、厳格なのですね。
ケージ=そうです、そこに矛盾があるのかもしれません。
――『ジョン・ケージ著作選』p.113

「そこに」…つまり、厳密に偶然性を生じさせるシステム=作曲、という点か。

ケージ=私の場合は、音楽における活動を通じて、自己を変え、別の個人になれることがわかるからです。私の精神は変化しうるものです。音についての思考や体験は、作曲をする過程で変化していきました。生じている変化とは、思想の表現や感情の体験のために音楽に依存するのではなく、環境の音においてのみ、素晴らしい音響、美的快楽を発見しているということなのです。したがって、私には、もはや他人の音楽が必要でないばかりか、自分自身の音楽さえも必要ではないのです。音楽がなければなお結構なのです。作曲を続ける唯一の理由、それは、書いて欲しいといわれるからです。
――『ジョン・ケージ著作選』p.122

このあたり、ハードコアなジョン・ケージがいる。ケージはレコードを演奏することを作曲に組み込んだけれど(『想像の風景』)、自分ではレコードを所有することも聴くこともなかった。とても、ここまでには、至れない事をわかっている自分もいる。


最後に。
先々週のGW最終日(「春一番」行った日)、HAPI TONES社に2か月前から発注していたHAPI Drumが届いた。
数年前から、ちょくちょく見ている「Odd Music」という、トム・ウェイツやハリー・パーチが好きそうな変わった楽器を集めたサイトで、見つけた瞬間「コレはオレのだ!」と電流が走って求めてしまったものです。

HAPI Drumは、丸くした鉄の底面にお尻に穴を空け、上部に八つの「コの字」の切れ込みを入れて調音した「Steel Tongue Drum」です。僕が発注したのはEメジャーに調音してあります。付属のマレットで叩くとクリアな音がして、手で叩くと鳴らし方にはちょっとコツが要りそうだが、繊細な音が愉しめる。特に「演奏」と、構えなくとも、簡単に朗らかな音を出すことができます。家人に試しに叩いてもらうと楽しそうにしていた。しかし、HAPI TONES社社のサイトのサンプル映像を見ていると、相当テクニカルな演奏も可能なようです。
http://www.youtube.com/user/oddmusic

僕が購入したのも、このEメジャー。一個一個調音して作っている、とのこと。