みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ジョナスは2010年に35才になる:アラン・タネール『2000年のジョナス』

nomrakenta2009-05-05


92年から休刊から復刊したという「朝日ジャーナル」を読んでいると、堀江貴文浅尾大輔が対談していた。意外にも(?)堀江はベーシック・インカムに興味があるのだそうだ。単に雑誌に合わせたネタのようにも思えるが、ベンチャー起業がやりやすくなり雇用の創出になるとみている様子だ。
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スイスの映画監督アラン・タネールの1976年の作品
『2000年のジョナス』(Jonas Qui Aura 25 Ans En L'an 2000:ジョナスは2000年に25才になる)を15年振りくらいに観る。
ヤフオクで見つけたVHSである。同じくヘルツォークの『緑のアリが夢見るところ』もあったのだけれど、これは誰かに終了間際に攫われてしまいました。
昔、レンタルビデオ屋さんで何を想ったか(ミュウ=ミュウがキュートだなと想ったのに違いないのだが)借りて観たのだった。その頃はたぶん中学生で、主人公が、子どもたちを温室に集めて寝ころびながら、クジラの声のテープを聴きながら、やがて子どもたちがクジラの鳴き声を真似して声を上げ始めるシーンが、「ジョナス」という名前と反響するようで、なんとも良くて、今まで覚えていたのですが、正直当時は「挫折した5月革命の…」とかいわれても(VHSケースの惹句)よくわからなくて当然だったろうとは思いますが、今観てみると少しばかり乙な味わいがあった。
前世紀の5月革命の影響が大きかったのは、スイスも同じらしい。とくに舞台のジュネーヴはフランス語圏だし、ぐるりをフランスに囲まれているわけなのだから、ちっとも不思議ではなかった。
物語は、そんな熱い季節も退潮してインフレに悩む1970年代後半のジュネーヴで、ほんの短い間、出会い、小さな共同体のようなものを形成する4組の男女の機微を軸に、大袈裟な演出もなく、割と淡々と進む。
妻のマチルドと3人の子供を抱える組合員マチューは、人員整理で印刷所をクビに。なんとか郊外の菜園で職を見つけるが、不当な賃金が多いから菜園の経理の明細をみせてくれと言いだす始末。菜園は、マルグリットがなんとか切り盛りする無農薬野菜の菜園で、マルグリットの夫マルセルは人間よりも動物を愛する変人だが優しい男である。職もみつけ、菜園のアパートにも引っ越すことにしたマチューとマチルドは、子供をつくることにする。
一方、新任の歴史教師マルコは、スパーのレジ打ちのマリーと出会う。
マルコを演じるジャック・ドゥニは、フェリックス・ガタリに似ていなくもないと思う。最初の授業の映像がコレです。歴史と時間の捉え方の話を腸詰で説明してみせている。

これは怪演の部類だろうか。
今では堂々たる叔母さん女優であるミュウ=ミュウ演じるキュートな(しつこい)マリーは、スイス人ではなく、フランスから勤め先のスーパーにヒッチハイクで通う国境生活者で、老人たちのため(そしてマルコのためにも)レジで会計を誤魔化す常習者になっている。

マルコの住むアパートは、マチューが引っ越してきた菜園のアパートで、マルコは自分の歴史の授業にマチューにゲスト・スピーカーとしてきてくれるように依頼する。
5月革命の挫折のルサンチマンをギャンブルで誤魔化しながら生きる新聞記者マックスは、地元の有力会社の秘書をするマドレーヌと出会い関係を持つ。マドレーヌから開発地域に関する情報を手に入れたマックスは住民に前もって情報を流しておくようにする。マドレーヌはタントリズムに激しく傾倒する女性でアナーキーな性向があるようで、自ら住民名簿のコピーを進んでマックスに提供する。
「彼ら」は、銀行による農地の思惑買いに抵抗するマックスの行動を軸にして、緩やかに寄り集まってくる。このあたりの厭味の無さこそが、この映画の魅力だと思う。
時折、セピア色の画面が挟み込まれて、人物の心内語とも映画内現実ともつかない効果を出そうとしているが、これは成功しているのかどうかわからない。手法として明らかに「ユルい」のだ。しかし、本作はその「ユルさ」と、登場人物たちのどこか間の抜けた風情が醸すものが持ち味になっている。
銀行による土地の買収はなんとか失敗させることができ、彼らの小さな共同体は、一瞬和やかな連帯を生むように見えるが、唯物論者でニヒリストのマックスは、マドレーヌのタントリズムとセックスへの耽溺に違和感を隠せないし、マルグリットは、経営が苦しい中で密かに異国人の若者との付き合いを止められない。マチューは、菜園の仕事を放り出し、子供たちを温室に集めて学校を始め、マルコは授業で自分の性的な願望を口にしてクビになり、マリーはついにレジの誤魔化しがバレて刑務所へ。
やがて、マチルドは妊娠、彼らは産まれてくる子に「ジョナス」と名前をつける。こんな風に歌いながら。
「ジョナスはマチルドから生まれる。彼は船の上に落ちてくる。僕たちが操縦する船さ。海に飛び込んだ彼を君が飲み込むのさ。君は彼の命を助けた。今それを吐き出そうとしている。それが彼 ジョナスさ。2000年にジョナスは25才になる。25才になったら世紀が彼を吐き出すだろう。歴史の鯨がジョナスを吐き出す。ジョナスは2000年に25才になる。」
一年後、ジョナスは産まれ、マリーは半年で出所し、心に傷を負いながら、介護施設で働き始めたマルコと同棲し始める。マルグリットについては、農薬に汚染された野菜の糾弾に打ち込むシーンが挟まれるが、悲しいかなそこに一年前の包容力は感じられない。
結局、マチューの学校と菜園での仕事について雇い主のマルグリットが対立してしまい、マチューは菜園の仕事辞めて、元の労働者に戻っていくあたりはお約束的なものなのかもしれない。物語自体は、マチューの独白
「俺はすべての夢の糸をひとつに集めておきたい。力として使うためにすべての夢を統合したい。今は20世紀だ ジョナス。素直に全てを受け入れろと人は俺に要求する。与えられるものだけを受け取れと。朝はまだ早く 寒い。ベッドが恋しい。ジョナス 夜はまだ明けない。」と、おそらくは5歳に成長したのであろうジョナスが、母の声に振り向くカットで終わる。
共同体が資本主義社会によって解体されてしまう、というようなことを物語の筋としてはもちろん抽出できるが、淡い夢のような彼らの共同体が、バラバラになってしまう予兆はいたるところに見えているし、タネールはそこで大きな物語の葛藤をもってきたりする意図もなかったように思える。ただ、8人の男女のとても小さな身振りを、心地よく愛しいものとして見せることで、2000年のジョナスに祈りを繋げようとしていた、ように思える。フェリクス・ガタリに「冬の時代」と呼ばれた左翼の80年代を完全に予感しながら、まどろみのような微妙な温度感で描いていた作品だったのだ。

そして2010年には、ジョナスは35才になる。今頃、ル・モンド・ディプロマティークの記者にでもなっているんだろうか?