みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

国立国際で「アヴァンギャルド・チャイナ」と新国誠一の具体詩(コンクリート・ポエトリー)

nomrakenta2009-01-12


連休中に、おうちにお邪魔させていただき、鍋までごちそうになってしまったIさんの奥さんにもらった入場券で、今日は国立国際美術館に行ってきました。僕が「音声詩」に興味があることをなんとなく知っていただけていたようでした。有難うございました。

当然、お目当ては新国誠一の<<具体詩>> 詩と美術の間に』展でしたが同時にアヴァンギャルド・チャイナ』展も開催していたので観てきました。
国立国際は、B3Fから観ていく順路なので、『アヴァンギャルド・チャイナ』から。民主化運動の挫折から立ち上がってくるかの国の現代美術(「当代美術」)の過程をみるのは、なんだか戦後の日本の現代美術を早回しか駒送りでダイジェスト鑑賞するかのような気にさせてくれました。
好き嫌いでいうと、どうも好きになれそうな作家はいなさげな感触ではありましたが、たったこれだけの作家と作品数で、なにごとか判断下すというのは無理な話なのだろうなあ、とも。





<<楊振中(ヤン・ジェンジョン)のインスターレーション作品『I Will Die(私は死にます)』>>

中でも感銘を受けたのは(現代美術で感銘を受けるというのは最近なかったことでした)、上海のアーティスト、楊振中(ヤン・ジェンジョン)のビデオ・インスターレーション作品「I Will Die(私は死にます)」でした。これは、国も性別も年齢も職業も(仕事中か、あるいはブラブラしているか)も異なる様々な人たちに、それぞれの各国語で「私は死にます」とだけ言ってもらう様子を撮った短いショットを、編集のギミックやナレーションも一切なしでエンドレスで、10台のプロジェクターが大きな廊下のように区切ったスペースの両壁面に5スクリーン×2で10スクリーン映写し続けているという、説明自体は至極簡単に済ましてしまうことができてしまうインスターレーションでしたが、そこから受ける印象は、深いものでした。
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_165/
http://blog.zaq.ne.jp/syunpo/article/327/
http://abcd.livedoor.biz/archives/51370470.html
この作品は、2007年の第52回ヴェネツィアビエンナーレでも話題になったのだそうです。
この「わたしはいつか死にます」といういきものとして当然の理(ことわり)であり、日常からは入念に遮断されている(と思える)万人が共有する唯一の事実が、全体としてこの廊下(のような空間)では、静かにサンザメイていて、でも、露悪的な感じはない。
誰もが受け入れるしかない自明の事実でありながら、人は日常会話の中に「そのセリフ」が介入してくることに備えてはいない。まるで、「そのセリフ」が介入してくる間隙を埋め尽くすのが生活であるかのように。そんな当たり前の「そのセリフ」を口にしてしまったら最後、どんな会話も始まらないし、引き取りようがないじゃないか、というのが、これもまた自然なこととして僕たちの日常には、どうも万国共通の認識としてあるようです。
そんな秘されたセリフが、このインスタレーションでは、手法的にはこれでもかというほど消尽することで成り立っており、徹底的な態度をとることで、なにか厄払いでもしているようにも感じられのに、空間自体は、清潔な光が10の窓から漏れてくるような、なんとも居心地よい大廊下、といった感じでした(実際この文章もポメラでその場で書いたものです)。もちろんセリフをしゃべるわけではない赤ん坊の顔のアップが映ったときは、意味深どころではなく、神々しいものを感じた。
また、個々のスクリーンに注意すると、そのセリフを口にする人たちそれぞれの戸惑いや照れの度合いから、その人柄がかいま見れるような気がしました。
僕の受けた印象では、このインスタレーションの空間自体は、「わたしは死にます」という言葉をつかいながら、じつは「わたしは死にます」が属する文脈からは、結果的に離脱していき、別の層を形成しようとしているようです。こういった事態を浮き彫りにしつつ分かりやすいのがこの作品のいいところなんだろうという個人的な理解ですが、同じような事態と思える表現をG・ドゥルーズの「対話」から。

対話

対話

私はこれまで書いた本の中で一種の思考の訓練を叙述しようとしてきた。しかしそれを叙述することは、依然としてそういう仕方で思考を訓練することではなかった(同様に、「多様なもの(マルチチュード)万歳」と叫ぶことは、依然として多様なものをつくり出すことではない、多様なものをつくり出さなければならないのだ。そして「ジャンルを打倒せよ」と言うだけでも十分ではない。実際に「ジャンル」などもはやないような仕方で書かねばならない、等々)。
――ジル・ドゥルーズ『対話』p.30

フェリックス・ガタリとの共同執筆のことを言っている文章で、文意的にちょっと合わないところもありますが、続く括弧でパラフレーズされる「それを叙述することは、依然としてそういう仕方で思考を訓練することではなかった」というセンテンス、言葉が指し示すことと実際に「そのこと」の渦中にあることとの間というものがあって、普通はその「間」を認識することはないのですが、たとえばこの「I Will Die」のような作品に接すると、そんな構造をコンセプトに取り込み得ているんじゃないかな、と思ってしまう。
そして、そんな鑑賞の仕方の残余として、こんなベタな感想も、この作品は許容してくれそうな気がする。
「わたしは死にます」なんていうセリフを、果たしていつか誰かに言ったことがあったっけかな?



<<『新国誠一の<<具体詩>> 詩と美術の間に』>>
お目当ての新国誠一のほうは、以前から足立智美さんのCD『記号説』で知っていたのですが、実際作品をみるのは初めて。作品といっても、オブジェ性が高いといはいえ「詩」ですから、一個性のアウラみたいなものはないのですが、有名な『雨』や『川または州』といった作品が拡大されてパネル展示で並んでいると、整然としたなかで、次第に文字のオブジェ性が際立ってくるようで、まるでワサワサ動きだしでもしそうな面白さでした。ところがこの「ワサワサ」は、手に取れるような動的なものではなく、頭のなかのノウミソの「言語野」がワサワサする感じなんですね。ここ↓とても詳しいです。
http://bunko.tamabi.ac.jp/bunko/kitasono2002_trial/k-tate.htm
展示は、ところどころ頭上のスピーカーから新国誠一本人の自作の朗読が静かに流されていて、観客が「テクスト病」に陥らないように配慮されている(ように思えました)。かくいう自分も割と数年前まで、こういった前衛詩を、絵画的な「言語」へと越境していく実験的なテクストの姿だと、100%思い込んでいました。さすがに視覚的要素に立脚している代表作『雨』や『川または州』の朗読はないようですが、本来、「音声詩」であって、読む理解よりは、声に出してリズムを掴むところに面白さがあったりするものなのですよね。
それは、新国誠一本人による朗読からも、クルト・シュイッタースの『原音ソナタ』の残り香があって、個人的には嬉しかったところですが。
たとえば「詩」の本領ともいえるメタファーを断念して、「スティーブ・ライヒ・ソフトウェア」でもプログラミングするかのように、新国誠一はひとつの漢字に狙いを定めて、グリッド上で限界まで分解しつつ、反復し、ずらし、最後に「意味」に立ち帰ろうとするところにとどめを刺しているように思えます。その結果、優れて知的なグラフィックデザインに接したときの感動すら、そこには起こっているのですが、新国誠一自身はそこにはいない、方法論だけを提示するという、潔く「モダン」な姿勢。ただ、そこからどうしても漏れてくるような「時代」の風情みたいなもの、これは後から味わう者の特権としてリザーブされたものなのかと。

新国誠一works 1952‐1977

新国誠一works 1952‐1977

さいごに売店で購入した新国誠一の作品集は、思潮社から出ていて、この企画にあわせて刊行されたもの。嬉しいことに、本人の朗読によるCDがついています。表紙カバーをめくると、扉にCDがセットされている凝ったつくり。帰宅して聴いてみると、できるだけ感情をこめないような配慮で、音のひとつひとつを繰り出す朗読の仕方が、ギリギリの感覚で持続して面白い。
足立智美さんのパフォーマンスは、これらをさらに身体的に(また、もしかしたら、「笑い」へとも?)拡張したものであることがわかります。
記号説/う・む〜高橋悠治による北園克衛と足立智美による新國誠一

記号説/う・む〜高橋悠治による北園克衛と足立智美による新國誠一

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Ursonate

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