みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ひっつきむしは秋なのか:カルトSF映画『サイレント・ランニング』を20年振りくらいで観る

nomrakenta2008-11-04


先週のまんなかあたりに、出勤中の地下鉄で、ひだり足の親指を踏まれたのですが、そのときはあんまり痛くなかったのだけれど、1日おいて痛み出し、夜見ると赤く腫れ上がっていた。医者にいかなきゃいかんかと思っていたら土曜には痛みが引いていたのでそのまま様子見することにしたが、あんまり動かなように部屋にいようと思ったら、終日うつらうつらとしてしまった。
日曜は用事があって京都まで。阪急の特急京都線は行楽シーズン到来なのか満員だった。座って本を読みたいがために梅田で特急を2本待ったのは初めてである。新しい靴を履いていったが、ひだりあしおやゆびの痛みは感じなかった。
で、昨日のこと。
昼過ぎにこわごわ瀧道に向かって歩き出すと、瀧道に入るところに橋本亭というちょっとセレブ和風な喫茶店(なのか居酒屋なのか)があるが(元は旅館らしい)、そこでバンドがライブをやっていて、ちょっとした人だかりになっていた。その曽我部恵一バンドちっくな(おっさんにはジュッパヒトカラゲでそう聴こえるです)マイルドな演奏が秋の渓谷に染み込む中、通り過ぎようとしたあたりで、どういうわけかしくしく痛みだした。昆虫館の前あたりで、さすがに不安になってきて、情けなくもそこで引き返すことに。
その道すがら、とても情けない気持ちになってきて、せめていつもは通らない山麓線を経由して帰ろうととぼとぼ歩いていると、こじんまりとしていい感じにうち棄てられたような風情の公園を見つける。枯れ葉がいい感じに溜まっているのである。シロクマさんとスベリダイさんの風情がなかなかよくて(写真)、いいアングルを探していると、草むらの中に体を差し込むことになり、ふっと気づくと身体中に「ひっつきむし」がくっついていた。形は扁平なひし形のもの(ひとつが小指の先半分くらいの大きさ)が鋸状に連なって枝豆の鞘を思わせるところがあるが、この鋸状は脆く、指でちょっと触れるとどんどん一個一個に分裂していってしまう。これがウォーキングシューズの繊維部分・紐から、チノパンの側面、しかも運悪く寒気もしていたのでセーターを着ていたので、背中全面までびっしりとくっつかれてしまったのだった。
子供のころは「ひっつきむし」にひっつかれても割と平然としていたと思うが、この歳になると、とても常軌を逸した光景のように見えて、一瞬パニック。おちつけおちつけと自分に言い聞かせて、結局20分くらいかけて「ひっつきむし」を剥がしていた。この作業、たとえば、歩き「ながら」とか、周囲を見「ながら」という「ながら」が一切不可能な作業で、というのも、「ひっつきむし」くんたちの繊維への喰い込み方はひとつひとつが尋常ではないのであって、ひとつひとつ指で摘まんで引き剥がすという最高級の対応を要求するのである。
最初は時々通り過ぎる人を気にしながらやっていたが、しまいにはペースを掴んだのか、仕事のことを考え始めて「お、こりゃ結構考えが進む進む」と思っていたら、「あらたいへん」と通り過ぎの老夫妻の奥さんにいわれたので我に返る始末なのでした。

今調べてみたら、コイツだった!→アレチヌスビトハギ

連休中はいろいろ読んだり、聴いたりしたのだけれど、それはまた次の機会に。

昔観たときは、主人公のブルース・ダーンが何故死んでしまう(自爆する)のか分からず、自然を愛する優しさが、周囲の無理解のために押し潰されてしまうというような被害者妄想的なロマンティシズムすら感じていた覚えがあるのですが、見なおしてみると、いかにバイオスフィア・ドームが人間に最後に残された森林でありかけがえのないものであろうと、それを護るために同僚を絞殺・爆殺するブルース・ダーンの行動には異常さが認められるし、映画自体もその罪をきちんと償わせることで物語を完了させる。逆にダーンのこういった形での死が描かれないのであれば、この映画は終わる理由がなくなってしまった≒物語る理由もないものになったのだろう。
ロボット・ヒューイ、デューイ、ルーイのデザインはそれぞれR2D2よりは自分の好みなのだが、彼らに自意識らしきものが芽生える過程の描き方がちょっと簡易に過ぎるように思えた。