みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

瀧道の休みの国

nomrakenta2008-09-14

9時頃にのそのそ起きだしていつもの瀧道へのたのた行ってドライブウェーまで出て折り返すときに、瀧口の道の両脇に売店というか食堂があって、それは経営者が同じ人なのかどうかも知らないのだけれど、いつもは谷側の店しかやっていないに近い雰囲気で、山側はアイスクリームの冷蔵庫も氷の袋を詰め込んでいるだけで、客席も椅子をあげていなかったり、営業している気配を感じたことがなかったのが、今日は通り過ぎる折に異様な空気を感じたので、振り返って見てみると、初老のおじさんたち10名ほどが二人づつ対面になって、木のテーブルに座って下をみて静かにしているのである。
碁、なのだった。
こちらに背を向けたおじさんの一人の腕の隙間から盤上の黒白の碁石が見えた。
定期的に催されているのだろうか。土日に瀧道を歩き出して2年くらいになるけれど、気づいたのは初めてだった。
町から大人の足なら半時間で上がってこれるとはいえ、暑い盛りもとうに過ぎて、峡谷の空気は冷ややかで、ちょっと隠れ里めいてもいて、落ちついた雰囲気だ。じっと盤面も見詰めながら、「会話」しているのであろうそのおじさんたちが、とても優雅に見えたのと同時に、すっかり夏が終わってしまったのだなあとも、改めて思いなおした。


今日は、「レインボーヒル」が服部緑地で催される日だったのだけれど、なぜか行く気にならなかった。昨年ご一緒して焼酎をお茶で割ってべろべろになりながら互いに周囲から5㎝ほどは確実に浮いていた友人も、仕事入れちゃったとのことだったので、図書館に行って涼んで、お金を使わないことに。


こないだ4分の3くらい読んで時間切れで返却したエドマンド・ホワイトの『ジュネ伝』の上巻の残りを読む。ちょうど終戦を迎えて、『花のノートルダム』に続く『薔薇の奇蹟』が出版(秘密出版)され、主要な小説作品『葬儀』と『ブレストの乱暴者』、そして『泥棒日記』と戯曲の『女中たち』までをほとんど同時進行で書き進めて、ある意味創作活動の最初のピークにいたジュネは、コクトーのグループに愛想をつかして、サンジェルマン・デ・プレのJ・P・サルトルボーヴォワールのグループに接近し始めていた。後に微妙な関係になるものの、出会った頃のジュネは、サルトルと議論することで、自分の文学を通した思考を高いレベルにまで上げようとしたようだ。ホワイトによると、『泥棒日記』の中のいくつかのパッセージには、明らかにサルトルの影響によるものと思われる文体があるそうだ。

ジュネ伝〈上〉

ジュネ伝〈上〉

仮にジュネが、サルトルから論理的で俯瞰的な思考を学ぼうとしていたにせよ、ジュネの文体はサルトルのそれとはまったく相反するものだった。それは、エクリチュールが自身を折り重ねながら、直前の言葉から予期せぬ連想が次々生まれ(またそれを止めようともせず)、即興的に回想と描写と幻想を綯交ぜにしていくような特性を持っていた、というところや、またその特性ゆえに、「物語の終わらせ方」という点においては、いつも唐突なかたちをとってしまうのであって、あたかも主人公や筆を進めることにすら飽いてしまったかのような中断とも思える形をとってしまう、といった指摘が、特におもしろかった。

ジュネの小説は多分、回想する事象のひとつひとつを、良識あるフランス社会と厳しく対峙しようとするジュネだけの神学体系(のようなもの)の中に位置づけるために綴られたのであって、通常の物語で得られる類のカタストロフィは望めない。
昔読んだ『泥棒日記』の、小説としては納得のいかない終わりかたも、この伝記を読んで、ジュネの「小説作品」中、作者ジュネから本当の意味で離れた世界を描いているのは『ブレスト』のみで、あとは文学的・哲学的回想といえるものだと思えば、十分納得できるようになった、というもの大きいけれど、著者でるエドマンド・ホワイトの堅牢な筆運び自体が快感になってきた。
下巻も楽しみ。

ブレストの乱暴者 (河出文庫)

ブレストの乱暴者 (河出文庫)


月が綺麗な夜だった。


夏のはじめに買ってから、何度も聴いているアルゼンチンのモノ・フォンタナの『Ciruelo』というアルバム。フュージョン臭さもあるというのに、癖になって止めれない。変調が多いように思うし、メロディーだって憶えやすいものでもないと思うけれど、不定形なメロディーの具合と、子供が遊ぶ声なんかも、素材として織り込まれたりしていて違和感がないから、明らかにスタジオでも練りこまれたものである筈だ、と思うのに、殆ど極上の即興演奏を聴いているような気分。
たしかに癖になる。
画像も発見。モノって、「お猿」という意味らしい。