みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

ロバート・ラウシェンバーグが逝ってしまった

nomrakenta2008-05-17


今日、京都へ行ってきました。鈴木志郎康氏の新作映像作品を観にいくためだったのですが、そのレビューは明日アップするとして、京都へ行ったときは必ず行くアート系本屋『メディアショップ』(学生の頃からある・だいぶ品揃えが少なくなった印象)で迂闊にも初めて知った訃報を。
ネオダダの現代美術作家ロバート・ラウシェンバーグが、5月12日に死去した。82歳だった。心不全だったらしい。

このブログでは、はじめて書きますが、学生の頃、現代美術に入れあげたのは、ロバート・ラウシェンバーグの作品の前で二度、立ち竦んでしまったからだった。
一度目は京都のソナベント・コレクション展で10点ほどのラウシェンバーグのキャリアの中でも最高の作品を見たとき、2回目は滋賀でカードボード(段ボール)による立体作品を見たときだった。ラウシェンバーグの、コラージュを日常の生活用品や廃材にまで拡張した「コンバイン」は、無関係な事実がランダムに主観へと晒される新聞の誌面と同じように、現代を反映しているのだ、と作家本人も示唆していた。

芸術も生活も作ることはできない。だから、わたしはその空隙で<行為>する。

でも、僕は、デッサンの代わりにやるべきことはコラージュだと思っていたから、生意気にもそんなことは当然だと思いこんでいて、現代美術史での位置づけ云々よりも、ひとつの作品の中で並列する本来無関係な素材へのラウシェンバーグの偏らないまなざしが、愛おしくて堪らなかった。ほとんどフェティシズムに到達しそうな勢いだった。

Rauschenberg: Art and Life

Rauschenberg: Art and Life

ダ・ヴィンチの画面の諸要素への平等な注意、それにラウシェンバーグは魅了されると言っていたけれど、僕はラウシェンバーグの素材を拾い集め、コンバインする、その手つきにも同じものを感じた。「崇高」なんかの対極にある作家であって、アメリカの最も良質な「反知性主義」的知性(決して矛盾ではないのだ、ラウシェンバーグに限って)を体現する作家。「ラウシェンバーグの「人となりと作品の併走感覚」に比べれば、大竹伸朗などまだまだギスギスしている、と感じていた。

ある日、友人がアルバイトで行った広島(だったと思う)で、ラウシェンバーグ本人と握手して、おまけに画集にサインまでもらった、という話をきいたとき、モンドリウッテくやしがった(というか、本心からくやしかった。その時ラウシェンバーグは、「わたしはまだまだ作品を作り続けます」とスピーチしたのらしい)。

Robert Rauschenberg: Cardboards and Related Pieces (Menil Collection)

Robert Rauschenberg: Cardboards and Related Pieces (Menil Collection)

思わず、ショップで購入してしまったのは、ラウシェンバーグの段ボール作品をまとめた画集。ラウシェンバーグがそれまでの異種格闘技のような「コンバイン」から離れて、素材を段ボールに絞った作品を作ったのは、1971年かららしい。すでに名声も得て、油が乗り切っていた時期だといえる。ラウシェンバーグの、どんな卑近な素材も、眼差しによって存在の優しみに位置づけしてしまうという、ジャクスタポジションの魔力が、最も端的に表出している作品集だともいえるかもしれない(でも、もちろん代表作から見ることをお勧めします)。

ニューヨークに暮らしていたとき、通りで見かける素材は豊富なものでした。フロリダに移ると、当然そんな素材には恵まれません。私は思いました。オーケイ、おれはこれからいろんなところに住むことになるだろう、そうなればいつまでも現代社会の余分なものや廃材に頼ってばかりはいられないぞ。だったら、世界のどこにいったって手に入るものってなんだろう?段ボールだよ!それは、実用的かつ合理的な決断といったものだったのです。私は現在にいたるまで、段ボールがないところを見たことがありません・・・アマゾンでおいてでさえね。
――Robert Rauscheberg"Cardboards and Related Pieces"p.20

コンポジションなどは確かに、モダニズム的な先達のものの範疇にあえて留まっているように見えもする。しかし、ラウシェンバーグが「行為」しようとしたアートは、素材がコンポジションに従属させられ続ける常態では決してなかった。あえて言えば、素材が物語を要求し(しかしあえて応えないという高度な身振りも当然してみせる)、コンポジションを呼び覚まし(むしろ引用し)、コンポジションは自らを組成するために、再帰的に素材を召還することになる。そんな循環運動を形成してみせて、しかもどんな素材を使っても過不足がないこと、それがラウシェンバーグの「コンバイン」という<行為>だった。それは、「見立て」とさえ、境界を侵食し合うものだ。
段ボールの切れ端の一片一片が、ラウシェンバーグの手にかかると、「ぼくはぼくだ、きみもきみだ。そしてきみの場所もここにはある」と微笑み交わし始めるのだ。

アメリカン・ポップ・アートの呼び水的存在として括られる以前に、クルト・シュヴィッタースの美学を、もっと広大に押し上げた作家だった。
作品そのものが、現実を映してなおビューティフルでなくては、アウトだし、もちろんアーティストそのものもキュートでなくてはならない。かつてそうでなくてもよかった、などと誰が言った?というシンプルな事実を、アメリカ現代美術の隆盛の中で、体現した人だったし、ダダ以降に出来てしまったピカソデュシャンの<間>を中庸という意味ではなく、芸術と生活の<間>に接木してなお、その沃野を開拓してみせアーティストだった。
むこうで、ケージとは挨拶くらいはするのだろうか。

私が考えていることが気違いじみているかどうか、その時はわかりませんでした。ジョン・ケージが名高い知者だったことで、私は自信が持てました。彼すら、私が必要としていることをわからなかったのです。その頃アートの世界全体が、彼を尊敬しているようでした。そして私たちは、多くの点で意見が一致していたと思います。
――1980年のラウシェンバーグのインタビュー:出典不明・『MUSIC TODAY』1993年18号より

ケージ ラウシェンバーグとの出会いは素晴らしいものでしたね。私達には共通点がたくさんありすぎて、会った早々から、ほとんど話す必要がないと感じたくらいです。
――ジョン・ケージ×ダニエル・シャルル『小鳥たちのために』p.156

段ボールの作品群・・・・『箱男』的な愉悦も、ないわけではない。

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)