みみのまばたき

2006-2013 箕面の音楽・文学好きの記録です。

声から音楽へ/そして音楽は声へ:メレディス・モンク『impermanence』

嵐のような一週間でしたが、最後の本日、本社の開発会議に出席。カオスな職場を置き去りにする私に、同僚たちの目が「どよ〜ん」として怖い。あんまり忙しすぎたり、込めたい感情が過負荷になると、人の目は逆に「どよ〜ん」とするのだ。自分も自覚があるのでよくわかる。
会議のほうは、初参加でしたが、30代の人の粛々と進行・生真面目な報告ベースと40代の人のくだけ過ぎムード(なあ、本音で語ろうやないかタイプ)が良い対比を為していました。そしてそのどちらも責任回避を至上目的としているようで、些細な案件でも具体的な回答を引き出すには、こちらも危ない決め付けをしてみたりしてパフォーマンスが必要と痛感。互いに腹芸をしているわけではないのですが、基本的に言質の取り合いであることには変わりはなく、ビジョンの共有というレベルまでは終始いたらずで、どうも変な疲れ方をしてしまった。

帰宅して四川省の災害ニュースを観ると、日本の救援隊が現地入りしたらしい。山を渡って流れていた川が土砂で埋まってしまっているし、岩石などももうグズグズになっていて、斜面が保たないような状態らしい。救援隊、頑張って欲しい。こういう人たちのために払う税金なら、惜しくはない。


最近ECMから出たメレディス・モンクの新作を聴く。

Impermanence (Ocrd)

Impermanence (Ocrd)

タイトルは『非・永続性』というのか、それとももっと日本的に「はかなさ」といっていいのか。しかし「無常」とまではいかなさそうな。ジャケット写真をみていると、日常の中で、ふとたちのぼってくる朧な非日常的な瞬間を捉えようとしているような気がしてきます。それは「うつろひ」とつぶやくよりも、もっと単時間的な(ヴォネガットが書いた「パンクチュアル」という意味での)「よろこび」と「せつなさ」が感じられ、しかし「後悔」は注意深く未然に避けられている。そんな印象。

最近の二枚

Volcano Songs/New York Requiem

Volcano Songs/New York Requiem

Mercy

Mercy

が、割とダーク、というのか、自分の中ではメレディス・モンクが「崇高」を見出そうとして、「沈痛」しか得られていないのではないか、という危惧を引き起こす感じだったので、ちょっとモンクの作品から距離を置いていたように思います。

自分にとっては、

Dolmen Music

Dolmen Music

や、
Do You Be

Do You Be

そして、
Facing North

Facing North

(勝手に邦題『「北」に向かいて』。曖昧な日本の私たちとしては、テッサ・モーリス・鈴木の『辺境から眺める』辺境から眺める―アイヌが経験する近代が必併読かと)
といったアルバムの稚気と知性が分かち難いヴォーカルパフォーマンスがモンクに期待するところなんだろうと今にして思うし、それについては、いまどきメレディス・モンクの新譜が気になるという人の大半がそうなのではないか、という妙な確信も実はあるのですが、本作『impermanence』は、そうした欲求に十分応えてくれる面も備えつつ、メレディス・モンクの「音楽」が若干異なったステージに上がってきたのだな、とも納得させてくれる出来になっています(もちろん本作の表象しようとする「はかなさ」が、モンク独特の悦びに満ちたものだとしても、9.11の痛々しさを引き受けるようだった『Mercy』を通過してこそのものであることは間違いない、にしても)。

一曲目、「Last Chance,Last Chance...」とメレディス・モンクの歌唱とも囁きとも嘆きともつかない例のアレではじまる『Last Song』を聴いた瞬間に、このアルバムの成功を確信して心を許している自分がおりますが、モンク率いるヴォーカル・アンサンブルも、真摯にミニマルでブリコラージュな手触りの「楽しさ」と「高揚」を表出しながら、それでいて現代アートの知的さも保つという、よくよく考えてみれば相当離れ業なモンク本来の「芸風」が遺憾なく発揮されていて、さらに洗練されている。
モンク自身の発声には、80〜90年代の実験音楽的な残り香のする奇矯な響きの角が、良い意味でとれたような具合で、どこか「まるみ」すら感じるようになったのが、これまでの時の進み行きを考えれば、当然といえば当然なわけですが、かえって新鮮に聴こえます。若いリスナーが、メレディス・モンクにこのアルバムから入る、というのも一つの手かな、と思わせてくれる(「若いリスナー」なんて言葉をはじめて使ってしまって、自分で面映い、というか信じ難い・・・)。

あえて、各トラック個別の印象には立ち止まらず、概観の印象を書けば、本作での最大の驚きは、代名詞である「声」のパフォーマンスによって「メレディス・モンク」として特別・差異化されてはいるものの、ピアノやヴァイオリン、ヴィブラフォンバスクラ、そして「自転車の車輪」まで、「楽器」も同等に、全体の丹精な響きを支えているのが、ちゃんと感じ取れることだろうか。

それは、メレディス・モンクがライナーで語っているこの言葉に集約されている。

これまで私は原則的に「声」のために、そして楽器部の作曲については故意にシンプルに、透明に留めて、声が「飛び立てる」ように作曲してきました。
私にとって最初のオーケストラ作品と弦楽四重奏の作品を書上げてから、私は器楽の豊穣な質に対してオープンになってきたのです。
はじめ、私は、「楽器」としての「声」のために作曲しました。今や私は、「楽器」を複数の「声」として考えることを、自分に許し始めているというわけです。
――Meredith Monk『Impermanence』ライナーより

本作で、メレディス・モンクは自分のアートが、本質を失わずに別にステージに到達したことを悦びと共に、リスナーに伝えてくれているのだと思う。

ここからは、単に思い出話ですけれど、学生の頃アメリカ村三角公園で、当時の美大学生が集まってファッション・ショーみたいなものを企画した時があって、何故かそれに衣装作りで加わったような憶えがあるのですが、そのとき自分の衣装を着て歩く人のBGMに、メレディス・モンクの『フェイシング・ノース』からイヌイットが暖をとる呼吸を模した『Keeping Warm』をお借りしたことがあった。しかし当日何故か自分は家事(法事、だったと思う)で現場にいけず、今にしてあったのかなかったのかよくわからない奇妙な思い出になっている。なので、自分にとってのメレディス・モンクの音楽は、そういうこともあって、こんな奇妙な感覚に付随したところがある。
いや、それだけなんですけど(笑)。

明日は京都に、鈴木志郎康さんの新作映画『極私的にコアな花たち』を観に行ってきます。